2、ふりだしに戻ったら(11)


「やっぱり……嶋くんだったんだね」


「見えなくてもわかるんだな」


「わかるよ、だって嶋くんは私にとって大切な人だったから」


 大切な人?


 それでもお前はこの嶋という男よりも平沼先輩の彼女というポジションを優先したじゃないか。大切な人だなんて軽くいうもんじゃない。お前が誰かを大切にしたことなんてあったか? なかったよな。なかったんだよ、だから僕が今こうしている。こうなってしまっている。


「平沼先輩に告白された時、つまり美沙希は僕のことが頭を過ぎったんだね」


 美沙希は頭を縦に振った。嶋のことが頭を過った。


「それ以外には……他に誰かいなかったのか。僕以外に」


 美沙希にとってこの質問は意味のわからないものであったに違いない。平沼先輩の告白の時に、嶋という男以外に誰のことが頭を過ぎったのか、嶋が気にすることではない。


 美沙希は一瞬何かを思い巡らしたようだったが、やがて首を横に振った。


 そうか。そうだよな。やっぱり美沙希、お前は僕のことなんて何とも思っていなかったんだな。嘘までついて僕をフったのに、罪悪感を抱いたのは嶋という男にだけなのだな。今までの会話から察するに、平沼先輩と美沙希が付き合い始めた後に告白したであろう嶋という男にだけ、そう思ったんだな。それより先に告白していた僕に対しては、何も、少しも、ゴミカスほどにも、思うことはなかったということだな。わかった。それならそれで構わない。


「ねぇ、嶋くん。厚かましいのはわかっているけど、こんな私を許してくれる?」


 殺してやる。こんな女。

 許す許さないじゃない。ゆっくりと、じっくりと、心の中から殺してやる。

 想像上なんかじゃない。殺す。


「ああ、許すよ」


 あの時僕の心を喰い散らかしたように、今度は僕が美沙希、お前を喰らう番だ。


「それよりさ、美沙希……」


 体育座りをしている美沙希のスカートの奥には、美沙希の陰部が見えた。何人もの男が美沙希のそこにぶち込んで遊んだんだ。汚らしい。こいつのそこはトイレの便器と変わらない。汚くて臭くて穢れている。こんな女、早く死んでしまえばいいのに。


「美沙希……お前さ、なんで生きてんの?」


 嶋という人格を借りて、僕は言い放つ。


「こんなところで、見ず知らずの男に自動ドアみたいに股開いて、その嘘しか吐かねぇ汚ねぇ口で咥えて、飲んで。その汚ねぇ耳も男に舐めさせて、身体も触らせて。唯一、まともな人間と同じだった眼球も、もう使いもんになんないんだろ? それならもう生きてる意味、なくね?」


 美沙希は、え、え、と今起きていることを理解できないでいた。


「え、なに嶋くん、急にどうしたの?」


「いや、お前を見てたらそう思えてさ。こんな不純物の塊みたいな女の一体どこに僕は惹かれていたんだろうって」


 美沙希に告白した時よりも、僕は緊張していた。声も震えているかもしれない。今までずっと心の中で色々なことを考えてきたけれど、ここまでを口にするのは初めてだった。


「私だって……生きてたくて生きてるんじゃないもん」


 美沙希もだった。声が震えてた。


「こんなつもりじゃなかったもん。幸せになるはずだったんだもん」


「無理だろ、お前みたいなやつが」


「ずっと楽しくいられたら良いのにって……そう思ってたもん!」


 僕の言葉を遮るように、美沙希は言う。


 ずっと楽しくいられたら良いのにね。その言葉は高校の時に美沙希が僕に言った言葉だった。


「でも、もう私は手遅れ。形だけの友人はたくさんできたけれど、なんの意味もなかった。みんなもういなくなった。見えなくなっただけじゃなくて、本当にいなくなっちゃった。こんな私に手を差し伸べてくれる本物の友人はいなかった。目が見えない私といると、みんな面倒くさがるの。私と一緒にいてくれるのは、ここでお金を払って私で興奮してくれるおっさん達だけ! 嶋くんの言う通りだよ、私はもう生きている意味なんてない。だからね、嶋くん……」


 美沙希は話しながら泣いていた。包帯で涙こそ見えないが、鼻をすすりながらたまに嗚咽を漏らしていた。


「私を……助けて」


 美沙希は俯いたまま、蚊の鳴くような声で僕にそう言った。


 ふざけんな。そんなこと本物の嶋に頼んでくれ。僕なんかに頼るな。今更僕に縋ってくるな。今更僕に近づいてくるな。


 でもさっき決めたじゃないか。これからは僕が嶋になってやる、と。美沙希を殺すために、僕は嶋になったんだ。だったら僕は嶋として、これに答えなければならない。


「助けてほしいかよ?」


 お前が高校の時本当に好きだった相手の嶋とやらになってやる。お前にとって僕が嶋だろうと、僕にとって僕は僕だ。美沙希が好きで、美沙希に振り回されて、人生を棒に振って、そして美沙希を嫌いになって、美沙希を殺したい程に憎む僕は、僕だ。嶋じゃない。


 これからお前が嶋だと勘違いし続ける相手は、僕だ。


 僕の正体を知った時、お前は何を言うんだろうね。好きだった相手への後悔の弁は伝わっていない。間違ったことを悔やめ。一生をかけて悔やみ続けろ。


 僕は決めた。この女に復讐すること。それを僕の生きる糧にしよう。


「美沙希、良かったら一緒に住もう」


 僕が本当の名前を美沙希に名乗る時。その時が来るまで、お前は間違え続けろ。間違いを背負い続けろ。なかったことにできないくらいの経験をさせてやる。僕と一緒に進んだことを後悔して、ふりだしに戻りたくなったとしても、その時には既に遅い。


 美沙希、お前はもう俺の物だ。


 ふりだしに戻った僕はこうして再び歩を進め、別のルートでリスタートする。もう僕がここに戻ってくることはないだろう。


 満面の笑顔で「うん」と頷いた美沙希に、僕はそっとキスをした。


 後になって思ったのだが、舌を絡めない渇いたキスだけをしたのは僕の人生でこの時が初めてだった。


 こうして僕の、美沙希を中心にした人生が再び幕を開けるのだ。

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