2、ふりだしに戻ったら(2)

 たしかに美沙希は二人きりで飲もうとは言っていなかった。だから他に人がいることに関しては勝手に僕が勘違いしただけで、それにとやかく文句を言う筋合いはないのだろう。


 しかしこの状況は許せなかった。もしこんな飲み会だと知っていたら僕はもちろん来なかった。平沼先輩に別れを告げられたという話を深刻げに僕に話したのは一体何のためだ。


 なあ、美沙希。

 一体君は何を考えて僕を呼んだんだ。


 呼んだ挙句、話しかけに来ようともしない。僕の方から来いということか。


「平沼先輩とのこと残念だったね」と曇った表情を見せながら近づいて来いと言うのか。私のことを心配しろってか。


 僕にそれをさせるのか。


 今だから正直に言おう。僕は美沙希と平沼先輩が別れたと聞いて心が踊ったよ。ざまあみろと心の中で叫んだよ。平沼先輩が悪い人でないことくらいわかってる。それでも僕はこの六年間で何度平沼先輩の死を願ったことか。それほどに僕は平沼先輩が嫌いだった。何故嫌いだったかというと答えは簡単だ。美沙希の隣にいたからだ。それだけだ。僕はたったそれだけのことで一人の人間を嫌いになり、そしてその人の死すら願った。


 美沙希が平沼先輩から告白された時、僕がした告白のことは一寸たりとも思い出さなかったか?


 僕のことを受験を理由に断ったのに、平沼先輩の告白は承諾するという矛盾に、何も違和感を覚えなかったか。


 もし僕の気持ちを少しでも考えなかったのであれば、僕は平沼先輩ではなく美沙希のことを嫌いになれたんだ。


 今なら聞けるかもしれない。この人混みをかきわけて、美沙希の元に……ふりだしに戻ればきっと聞くことができる。僕のことを少しでも考えたか。平沼先輩から告白された時美沙希は何を考えた?


 僕は席を立って酔っ払いどもを除けながら美沙希が座っていた席に向かった。しかし席を立つと何人ものクソ供に絡まれて、身動きなんて取れるもんじゃなかった。


「お前誰?」


 うるせぇ。


「仕事帰りっすか?」


 うるせぇ。


「お兄さんこっち来て飲もうよ」


 うるせぇ。黙れ。口を閉じろ。動くな。触るな。近づくな。僕は美沙希に会いに来たんだ。用があるのは美沙希だけだ。僕に……話しかけるな。


 美沙希の所に辿り着くより先に、見知らぬ男からキスをされた。周りの奴らは笑って僕とその男を撮影し始める。男の舌が僕の口腔に入り込む。押し倒されて、周りの奴らは僕の両手足を抑え込む。邪魔だ。美沙希に会わせろ。喉の近くまでやってきた男の舌を僕は噛みちぎってやろうと思った。そうでもしないとわからない奴らだと思った。美沙希もこんな奴らと同じになってしまったのかもしれない。と思った。


 顎に力を入れて、男の舌に歯をぶっ刺してやろうとしたその瞬間だった。大量のガラスが割れる音と同時に悲鳴が聞こえてきた。


 瞬間的に静まった部屋の奥にはさっきまで机の上に立って上裸を晒していた男が血だらけで机の上に寝ていた。どうやら足を滑らせてガラスの上に倒れこんだらしい。自業自得の彼のおかげで僕はキス男から脱し、美沙希がいた席を見やる。しかしそこに既に美沙希の姿はなく、美沙希がいたはずのところには別のやつらが座っていた。辺りを見渡してもどこにも美沙希はいない。


「……美沙希!」


 無意識だった。僕はいつのまにか叫んでいた。上裸男のおかげで静まっていたから僕の声はよく通った。


「美沙希ならさっきトイレに行ったよ」


 偶然近くにいた女がボソッと僕にそう伝えた。僕は周りの視線から逃げるように、部屋の外へと出た。


 偶然前を通りかかった店員にトイレの場所を聞いた。トイレは男女兼用のものが一つあったが空いていて、誰も利用していなかった。美沙希はトイレにもいない。だとしたらどこにいる? 帰ったのか? 自分であれだけのクズを招集しといて、自分は飽きたらおさらばか?


 あれだけ騒がしいことになると想像していなくて嫌になったのかもしれない。それで別の部屋移動したのかもしれない。僕は個室一つ一つを開けて、全部屋を確認した。僕が今までいた部屋のやつらと比べれば他の個室にはだいぶ落ち着きのある客が座っている。皆が皆、急にプライベート空間に踏み込んできた僕をまるで不審者を見るような目で睨んできた。


「あの、お客様……他のお客様のご迷惑になりますので」


 さっき僕を部屋まで案内した店員が僕を止めに入る。苦情でも入ったのかもしれない。


「酔っ払っておられるなら一度外の空気でも吸ってきたらいかがですか。あの部屋じゃ……少し一人で落ち着きたいでしょう?」


 店員の言う通りにした。一旦店を出て、落ち着こうと思った。美沙希が帰ってしまったのならここにいる必要はもうないのだが、僕には行く宛も帰る宛もなかった。それにここにいれば美沙希はまた戻って来るかもしれない。


 エレベーターの隣にある外階段へと続く扉を開けて、冷たい外の世界へ。階段の踊り場で外の景色を眺める。駅前ということもあってか日を跨ごうとしているこの時間でも外はネオンの光で明るかった。


 僕が美沙希という女の子を好きになって、そしてその恋が終わりを告げてから六年間。


 この六年間で僕は確かに何も変わっていなかった。美沙希がさっき僕を一瞬見やって言った「変わってなーい」は、良い意味ではない。本当に僕は何も変わっていないんだ。どれだけ美沙希の変化を心の中で拒否しようと、どれだけ過去の美沙希を頭の中で殺そうと、結局僕は昔と変わらず美沙希のことが好きで、今もこうして美沙希を探してしまっている。駅に向かう一人一人を鳥瞰して、その中に美沙希がいないか確認している。


 美沙希のことが嫌いになれそうだった。今の美沙希は僕の知っている美沙希じゃない。だったら好きじゃなくなればいいじゃないか。


 僕をこんな場所に呼んでおいて、放っておくような女だ。あんなクズたちとつるんで、馬鹿騒ぎするような女だ。


 状況だけ見れば、僕は美沙希のことを嫌いになれるはずだ。


 しかし気持ちというものはなかなか追いついてこないもので、失恋を六年間引きずった僕の気持ちは自分でも思っていなかったほどに酷くこびりついて剥がれなかった。


 ビルの下にサイレンを鳴らした救急車が止まった。あの救急車に用があるのはきっとあの上裸男だろう。これだけの事を起こしたのだからあの馬鹿騒ぎもそろそろ終焉を迎える頃合いに違いない。

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