1、ふりだしに向かう(2)

 あの日から僕は美沙希のことが見られなくなった。顔を見るとあの時のあの表情が頭を過るからだった。あの表情は僕に向けた表情なんかじゃない。だから思い出したくなかった。


 しかし事はそう上手くいくものではなかった。三年になった僕と美沙希は不運にもまた同じクラスになった。三年間同じクラスだった女の子は美沙希だけだ。こんな不運があっていいわけがなかった。席は隣でなかったが、僕の斜め前が美沙希の席だった。だからいつだって僕の視界には美沙希がいた。授業中に携帯を机の下でいじって、平沼先輩と連絡を取り合う美沙希を何度も見た。平沼先輩が卒業したことで、僕が二人が一緒にいるところを見る事はなくなった。でもだからと言って二人が会わなくなったわけではないし、美沙希が平沼先輩を好きじゃなくなったわけでもなかった。


 僕は美沙希が好きだった。嫌いになんてなれなかった。美沙希のことがわからなくなった。何を考えているのかさっぱりだ。平沼先輩という存在が僕の目の前から消えた事で、美沙希の中身がなくなってしまったみたいだった。美沙希という鎧を被った何かが学校に来ているだけで、本体は平沼先輩のところにあるみたいだ。


 そうして僕は卒業式を迎えた。受験の結果は芳しくないもので、合格したのは滑り止めの大学だけだった。美沙希は平沼先輩のいる大学に合格した。美沙希の実力ならそれ以上の大学だって目指せたはずなのに、彼女はそうはしなかった。そういう断片を知る事で、彼女の気持ちがまだ平沼先輩の所にあることを確認できた。


 美沙希は僕に別れの挨拶をしにきた。「ハタチになったら飲み会とかしてみようね」なんて言って笑顔で手を振っていた。きっとそんな日は訪れないだろうと思った。そうあって欲しいと思った。会わない時間が長ければ長い程、美沙希のことを忘れられると思った。嫌いになれないなら、忘れるしかなかった。


 大学に入って僕には彼女ができた。大学一年の五月のことだった。文芸サークルに入った僕は同じサークルの女の子である詩穂に告白をされた。仲が良いかと言われたらそうでもなかったが、詩穂が可愛い女の子であることは確かだった。詩穂の隣で一緒に歩いていれば、少し優越感に浸れる気がした。可愛い女の子と付き合っていれば自信がつくような気がしてしまった。たったそれだけの理由で僕は詩穂の告白を飲んだ。詩穂がどうとかは関係ない。


 自分のことしか考えていなかった。僕はこれで美沙希のことは忘れられると思った。

 

 詩穂とは付き合って一週間でキスを済ませて、その日の夜にはホテルで一夜を過ごした。二人の関係を確かめる為の行為というよりは、ただ僕が美沙希を忘れるためだけの行為であった。初めて女の子の裸を見たし、初めて触れた。でもそこに愛は微塵もなかった。


 僕は詩穂と会う度に詩穂をホテルに誘った。性処理の道具として詩穂を使っていただけだった。そうやって好きでもない女の子とヤることで、僕は罪悪感を積み上げていった。こんな最低な男は美沙希とは釣り合わない。だから僕は美沙希を忘れなければならない。そう自分に言い聞かせた。この時には僕は既に、自分の思考が正常でないことを自覚していた。


 詩穂と交際を始めてから三年という月日が経った。僕は大学四年になっていた。就活はしていなかった。詩穂の前では就活をしているフリだけをし続けていたが、実際にはエントリーシート一枚ですら書いたことはなかった。というよりも書くことがなかった。エントリーシートには名前と年齢を埋める以外に書ける箇所が見当たらなかった。大学時代に努力したことと言えば、詩穂とのセックス以外に思い当たらない。サークルだって結局はすぐに辞めてしまったし、アルバイトのほとんどは一カ月も持たなかった。


 ある日詩穂は僕にエントリーシートが不要の企業をリストアップして送ってくれた。もしかしたら隠せていると思っていたのは自分だけで詩穂は僕が就活をしていないことに気付いていたのかもしれない。正直どこにも興味はなかったが、その中で年休の一番多い企業だけをエントリーしてみた。


 程なくして面接日が決まり、僕は初めてスーツを着て面接会場である企業の本社へと向かった。僕以外に面接に来ていた就活生は五人しかいなかった。エントリーシート不要であることからもう少したくさんの人が集められているものと思ったがどうやら違うらしい。


 営業室と書かれた扉の向こうから怒号が飛んでいるのが聞こえてくる。


「そんな気持ちならやめちまえ」

「案件とってくるまで戻ってくんじゃねぇ」


 外に就活生が控えているのを伝えられていないのだろうか。社内で連携が取れていないのかもしれない。


「てめぇがいなくなっても替えはいくらでもいる」


 そんな言葉ですら聞こえてきた時、一人の就活生が「替えって僕らのことですかね」なんて言ってケラケラと笑っていた。僕には全く笑えなかった。


 名前が呼ばれたが、名字の読み方が違っていた。それを訂正する気にもならなかった。扉を叩き、入室許可を得た僕は挨拶を済ませて着席した。面接官は二人。どちらもやる気はなさそうだった。


「ありのままの君を見せてくれれば良い」

「良いことを言おうとしなくても良い」

挙句言われたのは

「やる気さえあればなんでも良い」だった。


 さっき営業室から聞こえてきた言葉に嘘はないみたいだ。僕らは不要になった社員の替えでしかない。僕らが不要になればまた来年替えを採れば良い。おそらくそんな考えなのだろう。この面接は体裁を保つためだけに用意されたもので、おそらく今日ここに来た奴には全員採用通知が届くのだろう。


「君も何か色々聞きたいことがあるだろう。今日は社会人一年目の先輩に来てもらったから、思う存分質問するといいよ」


 そう言われて別部屋へと案内された。他の五人もどこかの部屋に案内されているのだろうか。一対一で先輩と話せるらしいが、どうでも良かった。早くこの場から逃げ出したかった。


「あれ、君。僕と同じ高校出身だね。運命だ」


 社会人一年目の先輩は僕の後に入室するなり僕にそう言った。


「初めまして。平沼と申します」


彼はそう言って僕に名刺を差し出した。


初めましてなんかじゃなかった。僕は良く知っていた。

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