無い賽は振れない

小さい頭巾

1、ふりだしに向かう(1)


 あれは六年も前の十一月のことだ。


 僕は同じクラスのクラスメイトである美沙希のことが好きだった。一年の時席が隣になって、それ以降ずっと好きだった。二年なって幸運にも美沙希とはまた同じクラスになった。まるで神様にお前ら二人は付き合う運命だと言われているかのように、僕と美沙希はまた席が隣同士になった。そのおかげもあって僕と美沙希は仲も良かった。休みの日に二人で映画館に行ったこともあったし、お互い帰宅部だったこともあって帰り道はいつも一緒だった。


 僕と美沙希はいつだって一緒にいた。一緒にいることが楽しかったし、いることが当たり前にもなっていた。ある日美沙希は僕にこう言った。


「こうやってずっと楽しくいられたら良いのにね」


学校帰りに買ったドーナツを頬張りながら、美沙希は満面の笑みを僕に向けた。


少なくとも嫌われてはいない。


 ネガティブに考えがちな僕の思考回路でも、そうは思えるくらいに僕らの仲は親密だった。美沙希は僕といるといつも笑っていて、僕が言ったことにも、そして自分が言ったことにも笑っていた。僕の前でその笑顔が絶えることはほとんどなかった。僕は彼女の幸福に満ちた顔しか知らなかった。それはきっと美沙希が僕といることを幸せに思ってくれている証拠なんじゃないかなんて妄想して、よく一人で笑った。


 あの時の僕は幸せだった。付き合っているわけでもないのに、好きと言う感情が心の中で渦巻いているだけで幸せだった。美沙希の好きなことは僕の好きなことにもなった。美沙希の興味があることには僕だって興味を示した。少しでも近づきたかった。思考を共有したかった。僕の生活は美沙希を中心に動いていて、僕の感情は簡単に美沙希によって左右された。


 季節は秋だったが気温は既に真冬のような寒さで、雪が降ってもおかしくはないくらいだった。駅までの帰り道で僕は意を決して美沙希に告白をした。「好きです」の四文字を言うのに、えらく長い時間を要した。僕の気持ちが美沙希に傾いてから、実に一年半以上が経過していた。自信はなかった。断られるだろうと思っていた。でもそれは表面上の気持ちでしかなく、心底では成功したビジョンばかりが浮かんでいた。


 休みの日は一緒に出かけて、毎日連絡を取り合って、特別な日には彼女に何を贈ろうか悩むのだろう。しかしそんな想像はいとも簡単に崩れ落ちた。


 美沙希の答えはノーだった。来年受験を控えていることを理由に僕はフられた。どうしようもなかった。救いだったのは美沙希が僕を拒否したのではなく、そもそも彼氏を作ろうとしていない意向であることだった。受験が終わって、卒業間際になったらまた僕にチャンスが巡ってくると思った。そう思えば受験という大きな壁もなんとか乗り越えられる気がした。


 翌月の中頃、美沙希に彼氏ができた。相手は私立大学の推薦をもらって受験勉強からいち早く抜け出した一つ上の先輩だった。平沼というその先輩は、美沙希の近所に住んでいてお互いに家に遊びに行くような仲だったようだ。美沙希は平沼先輩から告白されたが、僕の時みたいに受験勉強を理由に断ることはなかった。受験勉強という建前を使うことなく、彼女はそれを受け入れた。僕の時と違って、彼女はそれを選んだ。僕はフられていたようだった。僕という一個人が美沙希からフられていたのだ。


 その日から僕は一人で帰るようになった。美沙希とは教室で別れて、僕は一人で駅まで向かう。終業式であるその日はチラリチラリと雪が降っていた。駅前には綺麗なイルミネーションが点灯している。そうだ、今日はクリスマスイヴだ。


 改札を抜けて、ホームまで階段を上がる。線路を挟んだ向こうのホームに美沙希と平沼先輩の存在があった。二人は肩を並べて椅子に腰をかけていた。美沙希は笑っていた。僕に見せていたみたいなあの笑顔を、美沙希は平沼先輩にも向けていた。あの屈託のない笑顔は僕だけに向けられるものではなかったようだ。今まであの笑顔にどれだけ僕は元気をもらってきたのだろう。線路越しに見る彼女の笑顔は、今では僕の胸を強く締め付ける。苦しくて、辛くて、目を背けたくなる。


 なあ、美沙希。君は今一体何を考えているのだろう。


 受験勉強を理由に僕をフったことは覚えているのだろうか。


 それなのに一月もしないうちに平沼先輩の告白を飲んだ時、君の頭には僕への罪悪感が一瞬でも過ぎっただろうか。


 できるならば僕のことなんて一切思いもしないでいてほしい。平沼先輩から告白された喜びで、僕のことなんてすっかり忘れていてほしい。


 もし平沼先輩が告白した時に、僕のことを少しでも考えてくれていたのなら、僕はきっと君と一緒にいることを諦めても君を好きでいることからは抜け出せなくなるだろう。だから美沙希はこれからもずっと平沼先輩を大好きでいてほしい。僕のことなんて目に入らないくらい、君の頭の中は平沼先輩でいっぱいにしてほしい。僕が美沙希のことを考えたくなくなるくらい、美沙希には幸せになってほしい。そうでもしないと僕は美沙希が好きなままになってしまう。こんなに辛い想いをするくらいなら、僕は美沙希のことを早く嫌いになりたかった。


 背けていた目をふと美沙希と平沼先輩の方へと戻すと二人はお互い向き合っていた。二人の顔の距離がだんだんと近づいて唇が重なろうとしたその瞬間、僕を迎える電車が横切った。電車が止まって乗車し、再び二人の方を見ると珍しく美沙希は笑っていなかった。顔を真っ赤にして、照れ臭そうに地面に視線を泳がせて、チラリとたまに平沼先輩に目をやっていた。美沙希のあんな表情を見るのは初めてだった。

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