3 勤労学生
ドライヤーの音、話し声、シャンプーの音、色んな音が響く中、私は本を読みながら目の前の鏡が付いた台、ドレッサーと言えるのか微妙なそれに置かれたドリンクを飲んでいた。
「瑠璃ちゃんがここ来るの久しぶりで驚いちゃった。」
今アイメイクをしてくれているチカさんがそんなことを言った。今は夜の仕事、つまりはキャバクラの出勤前髪のセットとメイクをやってもらいに来ている。
いつもなら、いくらお店と提携していて安くなるとはいえ、お金がもったいないからメイクも髪の毛も全部自分でやるけれど今日はそういうわけにはいかない。
レポートのためには、多少の身銭も切らなくては。
「レポート来週までなんですよ。」
「あーだから本読んでるのね。ほんと勤労学生だー。」
勤労学生という言葉に苦笑いしつつ、アイシャドウのチップが目によってきて思わず両目を閉じた。
「いつも思うけど、瑠璃ちゃんって目の形綺麗よね。なんだっけ、桃花眼とかいうやつ。」
アイシャドウを瞼に塗られる中、聞いたことのない単語になんですかそれ、と素直に聞き返す。するとチカさんはあら、知らない?なんて言っていろんな芸能人の名前を挙げていく。
「この辺の人みたいな目ってこと。なんというか三白眼に少し近いんだけど、それとも違うアンニュイな目のことを言うのよ。」
テレビを見る時間がほとんどないこともあり、チカさんのあげた芸能人の名前にピンと来ないまま、そうなんですね、と同調しておいた。
「あ、分かってないわね?身近だと瑠璃ちゃんのお店のエリカちゃんよ。二人とも目がそっくり。」
エリカちゃんと言えば、私の働くキャバクラでナンバーワンにそろそろなりそうなんて言われている人気キャバ嬢だ。そんな人と似ていると言われたことに、なんだか嬉しくなってしまう。
メイクも終わり、髪の毛のセットをされる中、ひたすら眼前の活字を読み込む。このサロンで本を読んでいる人なんて一人もおらず、話し声がよく聞こえてきた。
騒がしい中でも割と読書ができるタイプなのが幸いして、集中して本の内容を読み、時たま手元に置いている小さなノートに文中の印象に残ったところを書き出しておく。
「はい終わり!」
チカさんの明るい声がして、セットが終わったことがわかる。栞を挟んで本を閉じ、メイクと髪の毛のセットが終わった自分を見た。いつもより綺麗な顔をしているものの、変わらず普通の顔だ。プロの手によってもこんなもんだよねぇ。
「ありがとうチカさん、行ってきまーす。」
「頑張れ勤労学生!」
その呼び方どうにかなりません?なんて軽口を叩いてからサロンを出ていく。夜の街はネオンでキラキラしているけれど、どうにも綺麗には見えない。
顔と頭だけそれらしく、他はいつのもカジュアルな服装のままで夜の街を歩き、自身が働く店へ裏口から入る。
するとそこには同じくキャバ嬢で、ついさっき話題に上がったエリカちゃんがいた。とある芸能人によく似ていて、とても美人だから源氏名がエリカ。
なんと偶然にも隣に住んでいるのだけれど、本名は教えてくれなかったし、何よりうっかり呼ぶと危険ということもあって、うちのお店では女の子同士も基本的に源氏名で呼んでいる。
「おはよー葵ちゃん。」
葵、これが私の源氏名だ。私の名前が瑠璃、つまりは瑠璃色という点から取ったらしい。
ひょこっとこちらに顔を覗かせるように振り向いたエリちゃんに愛想良く挨拶をされて、私も同じようにおはよう、とにこやかに返事をしておいた。
ちなみに、私はエリカちゃんをエリちゃんと呼んでいる。
うちのお店は女の子含め全ての店員の採用を決める店長の人柄故か、それとも私がとてもナンバーワンだとかそういう争いに食い込む訳もない故か、割とみんな仲良くしてくれる。
「あっ今日チカさんのところでやってもらった?可愛いね!」
きらきらしたネイルを施した爪が綺麗な手で、自身の両頬を押さえながら頬杖をついているエリちゃんが私の顔を見てそう言った。私よりよっぽど可愛くて綺麗なエリちゃんに可愛いと言われることにどこかむずがゆさを感じてしまい、ありがとうと言ってから更衣室へ逃げるように向かった。
服を脱いでお店から貸し出してもらえるドレスを手に取ったとき、下着姿の私が鏡に映る。右の脇腹から骨盤まで斜めに引かれるように出来た傷跡が目に入った。
「これいつ出来たんだろうなぁ……。」
もうずっと前から体に刻まれている、古い傷跡を指で撫でながら呟く。確か両親が離婚したときには既に出来ていた傷だけれど、どうにもこの傷が出来た原因の記憶がない。
気づいたときに刻まれ、消えなくなった傷を見るたび妙に感傷的な気持ちが自身の中で生まれる。そんな思いを抱えながらドレスを身に纏い、今履いている汚れたスニーカーから、ロッカーに入れているハイヒールのパンプスに履き替えた。
この仕事を始めて早四ヶ月。最初はまるで履けなかったハイヒールも、すっかり慣れてしまった事実が悲しい。
「そうそう、新しいボーイ入ったんだけど葵ちゃん知ってる?」
更衣室から出た途端ソファーに座ってテレビを見ていたらしいエリちゃんが、ソファーの背もたれにしがみつくような体勢でこちらを見た。
「ボーイ?会ってないかも。」
「あ、本当?めちゃくちゃかっこいい人だよ。背も高くて、いい感じに筋肉ついてて、それで顔が芸能人並み。」
その三点セットを聞いて思い浮かべたのは一条さんのこと。あの人も背が高く、筋肉も付いているし、顔も芸能人並みに整っている。まさかそんな人がまだいたとは。世界は広いな、なんて思いながら出勤前に水を飲むためにウォーターサーバーへ近寄る。
「なんか反応薄くないー?」
「えっ?あっごめん、うちの大学にも似た人いるなぁって思ってて。」
「まじか、すごいな名門大……。」
紙コップに水を注ぎ、ぐっと一気に飲んでテレビを見る。丁度出勤五分前で、私とエリちゃんは出退勤管理表に出勤時間を記入してから表へ出た。
今日は昼のアルバイトがなかったとはいえ、講義の合間も昼食すら摂らず本を読んでいたのが災いしたのか、それとも昨日も飲んだせいなのか少し体調が悪い気がする。
指名した女の子を待つ間のお客さんにお酌をしながら、話を合わせて適当に笑っておく。あまり頭が働かない、もしかすると結構お酒が回っているのかも。
はぁーやだなぁ、これ明日もしかすると二日酔いになるかも。確か講義は二限からだし、多分平気だけど。
「葵ちゃん、ご指名入りました。」
店長に耳打ちされ、私はお客さんにいつもの文句を言ってから指名した人の席へ向かう。
向かった席に座っていたのは、私をよく指名してくれるお客さんの中野さんで、また来てくれたんですねー!と頑張って元気な声を出した。ああ、向かないなぁこの仕事、本当に向かない。
「葵ちゃんって今日の夜……。」
「ん?あ、ごめんなさい。私アフターやってないんです。」
だからここでいっぱい話しましょうね、なんて気持ちの悪いことを言って、中年太りしている中野さんの太ももに少し手を置いた。気持ち悪い、早く辞めたい。
それからしばらく中野さんと話して、帰ったらまた次のお客さんについて、そんな時間を過ごしているうちに私の上がり時間が来ていた。
「お疲れ様でした。」
目眩がする中裏にいた店長に声をかける。店長は雨の中、外で蹲っている私を気にかけてくれて、明らかにこの仕事に向いていない私にも優しくしてくれるいい人だ。
髭面で、くだびれた雰囲気漂う推定四十代の店長だが、割と整った見目とその優しさから結構人気だ。でも物言いがあれだから、みんなからはツンデレ店長と呼ばれて慕われている。
「おっすー。今日サロン行ったんかお前、珍しいことすんな。」
「急な課題があって……じゃあ失礼しますね。」
ロッカーに常時置いているコートを羽織り、トートバッグを肩にかけた。
「しかも化粧したまま帰るのか、本当に課題大変なんだな。明日の出勤どうする?罰金取らないでやるけど。」
「大丈夫です。お金ないし。」
店長は私の言葉に顔を歪め、はぁーと深いため息を吐く。全く、そういう女の子達を言い方は悪いけれど搾取してる側なんだし、優しさをもう少し捨てたらいいのに。
「お疲れ様でーす!あ、葵ちゃんも退勤?一緒帰ろ!」
くたびれた私と店長とは違い、元気なエリちゃんがお客さんとの相手を終えたようでお店の裏にやってきた。エリちゃんがクローズまでいないとは、結構珍しいな。
待ってるね、と告げて帰ろうとしていた体をソファーまで持って行き、そのまま腰を下ろす。
「エリカちゃんと仲良くやってるみたいだな。」
「家も隣ですし、なんとなく気が合って。」
だろうな、と店長は笑って、私は店長の言葉に首を傾げるしかなかった。
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