手を離せ、撃て、目を閉じて

@asakusan

放たれた弾丸は止まっている


 マーシィ、マルシィ、マルセル、あいつの名前。完全なる沈黙のあとに轟音が鳴る。俺があいつを助けると、あいつはいつも俺の手の辺りを見て礼を言った。マーカス、マルコ、マルチェロ、どこに行ってもあいつは似たような綴りの偽名で俺の前に現れた。祖国の大統領が初めて女になった14歳の夏、東の果ての黄金郷が真っ赤に染まった17歳の秋、大国の運命が個人の手に握られた21歳の冬、人類が月の先を目指した24歳の春とそして夏。俺が職業に手を染めてからの10年、あいつが俺の前から姿を消すまでの10年。


「ーーませ!【ベンチレーター】の感度を上げろ、目を覚ませ!負け犬!ドブに顔突っ込んで死ぬ気か!起きろ!」


 ヘッドセットから屍食性昆虫の羽音にまみれた上司の怒鳴り声が聞こえる。全身を覆うスーツの大半が【沼】にはまっていた。俺は失った平衡感覚を取り戻そうと【ベンチレーター】のパラメーターを確認する。感度を上げると、意識が戻るのを感じる。自分の置かれている状況。ここは元NYの地下道。俺は汚染地域に閉じ込められた【人々】を回収する作業員。いま俺は、精神汚染をダイレクトに受けて気絶していた。真っ暗になったスクリーンに自分の顔が歪んで反射している、黒くねじれた髪、丸い目、あいつが褒めてくれた黒い瞳。空間と時間のずれに滲み出る【沼】に触れると、スーツを着ていない人間は【内破】する。スーツを着ていても、空間から汚染を除去するための【ベンチレーター】が効かなければ、いずれ結果は同じことだ。溢れ出した自分の意識に飲み込まれながら【沼】の中で立ったまま溺れ死ぬ。


 スーツのモニターを再起動すると、地下道には至る所に【沼】が発生していた。


 あらゆる通信が遮断されたこの地域では、適正化されたAIが俺たち作業員の上司だ。それぞれのスーツにインストールされた上司は、作業員が最も意識を明瞭に保てるよう、適度な嫌悪感と怒りを覚えられるように言葉を選ぶ。


「目を覚ましたか、このゴミクズ、お前の命よりも大切なスーツを持って帰るまで死ぬんじゃないぞ、このスーツはお前の命よりも数倍高価なんだ」


「わかってるよ。【人々】はどこだ?」


「お前の目と鼻の先だ」


 距離と人数を把握すると、俺は【上司との通信】のタイマーをセットして、オフにする。ここから先は記録に残せない。俺の職業のための時間が始まるからだ。【人々】は【沼】の中に折り重なって畳まれている。その中に俺の今回のターゲットがいる。生きているからには、どんな形であれ死んで償いをしてもらうしかない。ギャングの情婦に手を出したのか、それとも銀行の「手をつけてはいけない金」に手をつけたのか、あるいは閉ざされた国と国の密約を別の国に漏らしたのか。どんな事情であれ、俺には関係がない。俺は【ベンチレーター】の感度をもう一つ上げて、ドロドロと動く【沼】へ向かった。


 14歳の時に初めて人を殺した。恨みがあったわけでもない、金が欲しかったわけでもない、性欲を満たすためでもない、ただ「頼まれたから殺した」それだけだ。報酬は俺がクソみたいに寒い倉庫で凍った魚やエビを運んだ給料の一年分で、それから俺はそれを職業にした。3人目を殺した時に一緒に現場へ出たのがマーシィだった。俺より二つ年上で、赤茶色の髪にそばかすの青い目。


「オセロー、いいか? 殺しってのは芸術なんだ、他人と同じ殺し方じゃだめさ、ブランド力がない。だからといって特殊な殺し方ばかりじゃ警察に目をつけられる。オセロー、プロにしかわからない印を残すんだ、わかるやつにはわかる、FBIの捜査官とか」


「言ってることはわかるよマーシィ。だけど俺の名前はオセローじゃない」


「白いものも黒くする、それがお前の力だよ、マルコムX」


 8人目を殺す時に、俺はヘマをした。倉庫の屋根の上を走らされたのは一生のうちでもこの一度だけだ。じっとりと湿気た八月の夜、風もなく昼にたっぷりと焼かれた鉄の屋根が熱い。必死で殺した8人目の臓物の中に獲物をなくした俺は、ただ走って逃げた。俺の隣でマーシィは銃を撃ち、追ってくる奴らを一人、また一人と殺して倉庫の下に落とす。


「まるでビデオゲームだな、アンクルトム!」


「俺の名前はトムじゃない!」


「あと一人だ!俺は鹿狩人だ、ハイホー!」


 銃声が鳴る。追手は喉から血を流して倒れ、屋根を転がり落ちる。気を抜いたマーシィが足を滑らせて俺の目の前から消えた。俺はその腕をつかんで、熱く焼けた屋根に這いつくばる。吹き出した汗で濡れたシャツから湯気がたつ。気の抜けた笑い声を立てて、マーシィは屋根を這い上がり、俺の隣を通り過ぎる。俺は汗で濡れた手をズボンで拭い、膝立ちになって振り向く。生温い風がゆっくりと屋根の上を走る。見上げるとマーシィは親指の付け根を噛んで震えを抑えていた。いつもまっすぐ見つめる青い目を伏せて、俺の手の辺りを見ながら、あいつは口から手をちぎるように離すと「ありがとう」と呟いた。


 あいつがいなくなって2年が経った。出会ってから12年。あいつの残骸が【沼】の中で蠢いている。マーシィでもあり、マルセルでもあり、マーカスでもあり、マルコでもある存在。同時にあらゆる時間と空間に位置しながら、あいつと俺の世界は二度と接することはない。


 17歳の秋に触れたあいつの指がねじれて7つの面を俺に向けている。21歳の冬に噛み付いた肩がめくれて5度の角度で回り続けている。24歳の春とそして夏、何時間も見つめあった青い瞳が等高線のように重なって彼方まで広がっている。


 スーツを脱げば【沼】はたちどころに俺を飲み込み、事象の地平にも似た崩落面で、俺たちの体を重ね合わせるだろう。【ベンチレーター】の感度を二つ上げる。鼻血が吹き出し、モニターの下部に赤い点を垂らす。


 確かめたいことはいくつもある。なぜ【沼】に飲み込まれたのか。なぜターゲットに選ばれたのか。なぜ俺の前から去ったのか。だが俺は、スーツを脱がない。これで終わりだ。


 ゼノンと書かれたパッケージをポーチから取り出し【沼】へと飲み込ませる。発射されたまま停止した弾丸が、あらゆる時空へと展開していく。完全なる沈黙のあとに轟音が鳴る。24歳のあいつの額に穴が開く。21歳のあいつの胸から血が溢れ出す。17歳のあいつの後頭部が落としたトマトみたいに弾ける。14歳のあいつが屋根の下へと落ちていく。焼けるような痛みが、あいつをつかんだはずの腕に突き刺さる。それはやがて12年前の古傷へと変わり、引きつるような鈍い痛みに変わる。


 あいつの存在が全ての時間から消えていく。赤い髪も、青い目も、そばかすの浮いた肌も、何もかもが消えていく。マーシィ、マルセル、マルコ。


 タイマー通り「上司との通信」が復活する。意識を覚醒させる不愉快な声が、俺の健康を気遣いながら帰り道を指示してくれる。言われた通りに歩けば道に迷うことはない。俺はスクリーンをオフにして真っ暗闇の中を歩く。目の前のスクリーンには知らない男の顔が映っている。黒くねじれた髪、丸い目、黒い瞳。誰のものかもわからない、知らない顔。


 俺はゆっくりと目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手を離せ、撃て、目を閉じて @asakusan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ