第21話 きいちゃん
一人になると考えてしまう。俺が余計な事を言ったばかりにやり直し前の記憶を吐露することになった咲子ちゃん。かさぶたを剥がすように痛みを感じていたであろう彼女を前にして俺が取り乱す訳にはいかなかった。幸いあの後もとりとめのない談笑が続き夕食も大変美味しく頂いたのであれ以上に思考が進む事も無かったが。
家に帰る道中。歩く以外にすることがないというこの状況は実に厄介だった。嫌でも考えてしまう。考えないようにしていた事が。歩みを進める度にその先が見えてしまう。記憶の蓋が開いてしまう。
あの天使はおちゃらけていたが本当に親切だったのだ。人生をやり直しさせてくれるだけでなくご丁寧に幸せに生きる上で不都合な記憶を誤魔化してくれていた。実際咲子ちゃんというイレギュラーがいなければここまで辿り着くこともなかっただろう。
あらゆる事象にはそれが生じる要因がある。例えば咲子ちゃん。彼女が何歳からやり直しをしているのかまでは聞いていないがおそらくは俺より早い年齢だろう。そして彼女は料理を続けていたのだ。だからこそあれ程のレベルの料理を作ることができた。天使は親切だ。普通に頑張れば成功出来るだけの時間を遡らせているのだろう。
……俺の場合。天使は言った。15年以上遡らないと貴方は死ぬと。15年が示す意味。高校生からやり直すことと中学生からやり直すことの決定的な違いは何か。
答えは一つだ。高校生からではやり直し前の妻に100%出会う。彼女と出会ってしまえばその瞬間に俺は全てを思い出していただろう。そして諦めることが出来なくなる。もう一度。息子と会うことを。起きうるはずのない70兆分の1の可能性に掛けて。あり得ない幸せな未来を夢想して。
俺が奇跡の存在を否定するのはナンセンスだろう。身を持って体験しているのだから。一度起きたなら二度目だってあるかもしれない。それでも。……例え奇跡が起きたとしても。
……俺の息子は。きいちゃんは、大人になれずに死ぬのだ。
俺が死んだ時に息子は既にこの世にいなかった。優しい天使は都合良く俺の記憶を書き換えてくれていた。
原因の分からない病気。もしかしたら。もう少し俺が生きていれば医者がある程度の答えを出していたのかも知れない。そしたらこのやり直しの人生において俺は迷わず医者を目指しただろう。
……とにかく。俺はきいちゃんが死んでからまともに眠る事が出来なくなっていたのだ。だから死んだ。絶え間無く襲ってくる後悔。きいちゃんはかなりの偏食だった。もっとバランスの良い美味しい食事を与えていれば病気にならなかったんじゃないか。なったとしてももう少し長生きできたんじゃないか。俺は仕事が忙しくて平日は遅くまで仕事をしている事が多かったのだが大抵は俺が帰ってきた時にまだ息子は起きていた。睡眠時間は足りていたのか。ストレスはどうか。きいちゃんからは妻に良く怒られるという話を聞いた。
……妻は子育てが好きではなかった。結婚した当初は気にならなかった。普通に家事もしたし料理も上手だった。状況が変わったのは子供が出来てから。いわゆる産後うつなのだろう。俺が転勤族なのも良くなかった。周りに助けを求める事も出来ない。俺は極力妻の負担を軽くしようとした。朝と夜の自分のご飯は自分で用意するようにした。子供のお風呂も俺が入れていたことが多い。出社前に洗濯をしてから会社に行くようにした。休日は出来るだけ息子を外に連れ出して一緒に遊んだ。その間は妻には好きにさせた。ストレス解消が必要だと思ったのだ。でも俺がいない平日がどうだったのかは分からない。
妻は息子の偏食に対してどうにかするつもりがなかった。保育園に通わせていたから早く寝せなければいけないのだが自分が寝るタイミングまで寝させようとしなかった。休日でストレスが発散しきれないのか息子へ怒ることも減っていないようだった。
……俺が出来た事。他に、何があっただろう。例えば会社に頼み込んで定時で帰ることができれば。出世の道は閉ざされたかもしれないが少なくとも朝と夜は俺がバランスの良いご飯を作れば良いし夜ちゃんと寝せることも出来る。それによって更に妻の負担が減れば結果的にきいちゃんが怒られることも減っただろう。そうだ。なんで怒られるのかを良く聞いてそうならないようにどうすれば良いか息子に教える事も出来たかもしれない。子供について妻とは頻繁に衝突していたが俺がもう少し大人だったら。感情的にならずに妻と話せていれば上手いこと子育てをやらせることが出来たかもしれない。会社を辞めて妻の実家の近くに引っ越すという手だってあったかもしれない。
……俺は。最善を尽くせていたか?
それが出来ていたところできいちゃんが病気で死ぬ運命は変わらなかっただろう。そうだとしてもせめて。生きている間は幸せでいてほしかったのだ。ああ。俺のせいだ。
妻とは息子が死んでからすぐに離婚した。向こうから言ってきた。俺は知っていた。俺が休日に息子と遊んでいる間に妻が何をしていたのか。ストレス発散から恋や愛に発展することもあるのだろう。理解できなくもない。妻の事をちゃんと構っていたと自信を持って言える訳でもない。知っていたがどうにかしようとも思わなかった。きいちゃんの母親は一人だけなのだ。父親も俺だけだ。離婚なんて選択肢は最初から無かった。責めてもしょうがない。
そうだな。そういう所なのかもしれない。俺がもっと妻の事を愛せていたら。もう少し違う未来もあり得たのかもしれない。
自分の至らない点を挙げればキリがない。とても最善を尽くせていたとは言えない。
でも。
でもさ。
ごめん。きいちゃん。少しだけ言い訳をさせてくれ。俺も大変だったんだ。いつだって仕事で疲れていて家事もやる。休日もずっときいちゃんと遊ぶ。息子のことは好きだ。愛している。それがストレスになっていたとは絶対に言わない。ただ事実として俺に休息はなかった。あれ以上が難しかったことも確かなんだ。
普通、というのは難しい。何が普通なのか分からない。女性に対してで言えば結局は自分の母親が基準になる。うちは裕福じゃなかった。俺の母は三人育てながら仕事もしていた。家事もちゃんとしていた。俺もグレる事もなくそれなりに良い大学も出れたし就職先も大手だった。母が偉大なだけかもしれない。普通はそんなに頑張れないのかもしれない。結婚をしたのも子供を作ったのも俺の判断だ。相手に求めるべきじゃない。
でも。
きいちゃんが死んで。夜も眠れなくて。無駄に余った時間で良くないことを考えてしまう。
俺は稼ぎが良かった。妻は専業主婦だ。その上で俺は多くの事を手伝い妻に負担が掛からないようにしていた。きいちゃんを幸せにするために。ちゃんと成長できるように。
俺は頭が良かった。根性もあった。ストレスにも強かった。妻の分まで自分が頑張るのは当然だと思っていた。そうするべきだと思ったのだ。こうなってしまったのは全て俺の責任だ。
……本当に?
妻が無能だっただけなんじゃないのか?なんで俺ばかりが我慢しなければならないのだろう。俺の一番のミスは、妻と結婚してしまったことだ。もっと色々な事を考慮して。最低限普通の事が出来る人間を見極めるべきだったのだ。
世の中には、一人ではどうしようもないことがある。時間は有限だ。出来ることと出来ない事がある。子育てはその最たる例だろう。俺は安心してきいちゃんを任せられる頼れる妻が欲しかった。
綾香ちゃんママの予想は当たっていた。俺が結婚相手に求めている条件は自分のためじゃない。子供のためだ。俺が妻に求める幻想。切望。いや結局は自分のためか。
美人な母。美味しい料理を食べさせてくれる。家事も育児も出来る。きいちゃんが寂しい思いをすることもない。毎日笑っている。きっと幸せだろう。それだけで良い。
だが。そんな相手と結婚してどうする。結婚して子供が出来る。それはきいちゃんではない。前の嫁とでなければ確率は70兆分の1ですらなく。正しくゼロだと言うのに。
このまま今のペースで嫁探しを続ければまず確実に幸せな未来が掴めるだろう。
そうなったとして。
……きいちゃんがいない世界で俺が幸せになる事に、いったい何の意味があるんだ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます