電子の森の美女
秋来一年
Once upon a time
子どもが赤ん坊の時、子どもの良き守り手となるでしょう。
子どもが幼少期の時、良き遊び相手となるでしょう。
子どもが少年の時、良き理解者となるでしょう。
そして子どもが青年となった時、自らの死をもって子どもに命の尊さを教えるでしょう。
瞳孔を模した小型レンズで、壁に貼られたポスターを見遣る。
疑似網膜に映し出されたポスターと、そこに記された文章。かつてこの文章の前には、もう一行、今とは異なる文章が書かれていた。
「子どもが生まれたら、犬を飼いなさい」
古い言葉だ。犬を――犬に限らず全ての生き物を飼うことは、現在では罪に問われる。倫理規定に違反するからだ。
生き物を、愛玩するためだけに交配させ、鎖で繋ぎ、あるいは檻に入れ、時には捨てさえする。
そんなのは心のある人間のすべきことではない、倫理にもとる行為である。
だから、人々は代わりに、生きていない物を飼うことにした。
一つ、人を模すためだけに搭載されている瞬きをしてから、私は再度ポスターを見遣る。
最初の一文は、今ではこう記されている。
「子どもが生まれたら、アンドロイドを飼いなさい」
ここはとあるアンドロイド製作会社。
その一角に設けられた、寿命間近なアンドロイドの受け渡し場所である。
私は首の向きをそのままに、レンズを移動させる。
目に入ったのは、落ち着いた雰囲気のカウンターと、それを挟んで向かい合う二人の女性。
二人の内、カウンターの内側に立つ女性が口を開く。
「アンドロイドの寿命は、およそ十五年から二十年とされています。本日契約する0ー6110号機は、起動から十六年と二〇五日が経過しています」
元々承知していた内容の再確認だったからだろう。特に遮ることもなく、カウンターの向こうにいる女性が頷く。
髪の長い女性だった。
黒く真っ直ぐな髪は腰の辺りまで伸ばされ、前を開けて羽織っている白衣と鮮やかなコントラストを描いていた。黒いスキニーに包まれる脚はすらりと長い。
年の頃は二十代後半だろうか。老人ばかりが訪れるこの場では、少しばかり浮いている。
「アンドロイドが寿命を迎えた場合、下記の電話番号にご連絡ください。当社の職員が一時間以内に駆けつけます。また、お客様に万が一の事があった場合には、0ー6110号機が信号を発信し、同じく一時間以内に当社職員が参ります。予めご了承ください」
私――0ー6110号機が製作されたこの会社では、とあるサービスを行っていた。
それは、寿命間近のアンドロイドを、先のあまり長くない人間に無償で引き渡す、というもの。
通常、アンドロイドは新品の個体が好まれる。かつて、ペットショップに沢山の子犬や子猫が並んでいたように。
しかし、子犬や子猫がそうだったように、製作された全てのアンドロイドが主人のもとに引き渡される訳ではない。
一定年数売れ残ったアンドロイドは、かつては廃棄・解体・再利用されていたらしい。だが、現在それは倫理規定によって禁止されている。
人の形をし、限りなく人に近い言動をするアンドロイドを廃棄することは、たとえそれが無生物、無感情のモノに過ぎないとしても、倫理にもとる行為と判断されたのだ。
そこで始まったのが、このサービスである。
新品のアンドロイドを迎え入れるには、自分の方の寿命が心許ない。でも、アンドロイドと生活を共にしたい。
一人暮らしの老人を中心に、このサービスは人気を博し、今日まで続いている。
「説明は以上となります。何か質問はございますか?」
受付のお姉さんからの問いに、カウンターの向こうの女性が首を横に振る。
「何かございましたら、パンフレット末尾のコールセンター、もしくは、お問い合わせフォームまでご連絡ください。それでは、アンドロイドと共に過ごす、素晴らしい日々を!」
受付のお姉さんが振り返るのを待たず、私は立ち上がる。
そして、カウンターの一角、蝶番で開閉ができるようになっているところから、カウンターの向こう側へと向かった。
「やあ、今日からよろしくね」
可愛いというよりは綺麗という形容詞の方が似合いそうな女性が、私に手を差し出す。
その手をプログラム通りの強さで握り返しながら、私は言った。
「はい。ご主人さま(マスター)。これからよろしくお願いします」
レンズで女性の姿をスキャンし、声紋と虹彩を記録。マスター登録完了。
こうして、私と彼女の新たな日常が幕を開けた。
◇
森の中の研究施設。
生まれてから十六年を過ごした地を離れ連れてこられたのは、一言で言い表すならそんな場所だった。
至る所に何だかよく分からない機械やら部品やらが散乱し、主人以外に動く者の気配はない。
「ああ、楽にしていいよ」
部屋の真ん中で棒立ちになっている私に、主人が声をかける。
「はい。
温度のない声でそう返すと、主人は少し頬を綻ばせて言う。
「それにしても、旧型ってほんとに感情表現が乏しいんだね、いかにもロボットって感じだ」
確かに、最新機種に比べれば、十六年前に生産された私の感情表現はかなり乏しいだろう。
最初から人間らしい言動をする最新機種と異なり、私を含むゼロシリーズは、人間と生活を共にする中で学習し、より人間らしい言動ができるようになっていく。
私は倉庫で誤って電源をつけられ、そのまま十年以上、誰にも気づかれずに待機をしていた。起動時間自体は長いが、人間から学習する機会が得られなかったので、起動したての同機種と言動は変わりない。
「それから、ご主人様って呼ばれるのは、何だかくすぐったいな。できれば、ほかの呼び方にしてもらえないか?」
「では、なんとお呼びすれば?」
質問に質問で返すと、主人は顎に手をやってうーん……と悩む。
「そうだな、
「はい。分かりました。
私の返事に、博士は満足げに一つ頷くと、再び口を開いた。
「今日からここは貴方の家だ。自由にくつろいでくれて構わない。右の奥に使ってない部屋があるから、そこを使って。掃除は任せていいね。ほかに疑問があれば何でも訊いてくれ」
博士が、私の返答を待つようにこちらを見る。
「では、一つお訊ねしても?」
小さく手を上げて問いかける私に、もちろん、と博士が言った。質問を行うことは、学習し成長するゼロシリーズの基本行動だ。
「博士は、なぜ私を引き取ったのですか?」
博士は若く見える。私の起動時間と、十も離れていないんじゃないか。
それなのに、どうして残りの寿命が短い人間が、同じ立場のアンドロイドを引き取るためのサービスを利用したのか。
しかし、私の質問の意図が上手く伝わらなかったのか、博士は思いもよらぬ返答をする。
「それはね、貴方に愛を教えるためだよ」
◇
「人を愛し、人に寄り添い、人と共にありなさい」
それが、私たち全てのアンドロイドに刻まれている、根源命令である。
しかしながら、私たちアンドロイドは感情を持たない機械だ。
様々な事を学習し、どれほど人間然として振る舞っても、人を愛すことなどできない。
それはつまり、己の核を成している命令のプログラムを守れないということ。
およそ十五年から二十年の学習により、アンドロイドはそのことに気づく。
自分自身の存在理由であり、行動を行う際の原理原則。それを、この先何をどうしても自分が成し得ないことに気づいたとき、アンドロイドはエラーを起こし、
――自分で自分の首を絞め、自殺してしまう。
人を模して作られたアンドロイドは、メインのCPUを頭部に持つ。そして、そこからの処理結果を各部位に伝達する配線は、全て首を通っている。
だから、機械で出来た人外の力で首を破壊すれば、アンドロイドは活動を停止してしまうのである。
それがアンドロイドの寿命が十五年から二十年程度とされる原因だった。
にもかかわらず、博士は私に「愛を教える」と言う。
目の前で眠る博士を見ながら、私は昨日の記録の再生を一時停止した。やらなければならない仕事があるからだ。
「おはようございます、博士。現在の時刻は午前十時四二秒です」
すやすやと寝息を立てていた博士の眉が、ぴくりと動く。
眉根を寄せ、うぅん……と呻く彼女。
その姿はまるで幼子のようで、昨日の言動から推察される性格パターンと反する。
ふわあ、と大きな欠伸をしながら、博士が言った。
「十時なんてまだ朝じゃないか。もう少し寝かせておくれよ」
「承認できません。「いいかい、私が明日なんと言おうと、午前十時に起こしてくれ。頼んだよ」昨夜、そう仰ったのは博士です」
博士の想定性格パターン「できる女科学者」に「でも、朝は弱い」の属性値を加えて微修正しながら私は言う。すると、博士は目をこすりつつ、
「そういえば、今日は病院に行かなきゃいけないんだった……」
と、のろのろ起き上がり、洗面台に向かった。
◇
「それはね、貴方に愛を教えるためだよ」
散らかった部屋を片付けながら、私は再び、昨晩の記録を再生する。
現実の博士は、現在外出中である。
博士が戻るまでの数時間、私は家事を行いながら、記録に残った博士とのやりとりを反芻、解析することで、学習を行っていた。
「私はね、アンドロイドが自殺する原因を明らかにしたいんだ」
記録の中の博士が言った。その顔は、微笑んでいるはずなのに、どこか陰りがある。
「アンドロイドの自殺の原因は、根源命令に従うことが出来ないことによるエラーですが……?」
予め学習していた知識を元に答えると、博士はほんの少しだけ言い澱んでから、言った。
「確かに、根源命令に沿えないことが自殺の原因というのは、間違ってはないんだろう。だけど、根源命令は、三つある」
人を愛し、人に寄り添い、人と共に在れ。
「私はね、アンドロイドの自殺の原因となっている根源命令は、〝人と共に在れ〟の方だと思うんだ。アンドロイドは元々、数百年の稼働に耐えうる存在として生み出された。精々百年程度しか生きられない人間とは〝共に在れない〟と判断されてしまっているんじゃないか、ってね」
アンドロイドの自殺の原因は、根源命令を遂行できないことによるエラーである。そこまでは確かだ。
けれども確かに、どの根源命令が自殺の原因なのか、そこまでは明らかになっていない。
なるほど、と一つ頷いて私は言う。
「つまり博士は、私に人間を愛させることで、博士の論を証明したいのですね」
「ああ、その通り。もちろん、それだけでは私の論自体を証明することは出来ない。けど、少なくともアンドロイドも誰かを愛することが分かったら、業界が、いや、世界がひっくり返ることになるぞ」
だから、と博士は続けた。
「貴方に愛してもらえるよう、これから頑張るから、よければ付き合ってくれないかな?」
私たちアンドロイドは、感情を持たない。だから人を愛することはない、とされている。
しかし、それが本当かどうかは、今の私にはまだ分からない。実現可能性を演算しようにも、前提となる〝感情〟への学習量が足りていなくて、上手くいかない。だから。
「はい。それが博士のお望みとあらば」
初期設定されている返答パターンの中から、一番場面に即しているであろう言葉を返すと、博士は薄い、困ったような笑みを一瞬だけ浮かべ、私の髪をわしゃわしゃと撫でた。
◇
それからしばらく、私は博士の職場兼自宅である、森の研究所で過ごした。
一日の過ごし方はだいたい決まっている。
アンドロイドに睡眠は必要ない。しかし、だからといって、夜に起動している必要もないから、私も夜は自室でスリープモードになっている。
博士を起こす一時間ほど前にスリープを解除し、まずは朝食作りだ。
アンドロイドは人間を模して作られているので、食物からエネルギーを摂取することもできる。
だが、電気で動いた方が効率がいいので、私が作る食事はいつも一人分だ。
「おはようございます、博士」
朝食が出来ると、寝ぼすけの博士をどうにか起きあがらせ、テーブルに着かせる。
朝の博士は何だかふにゃふにゃとしているが、朝食をとり、顔を洗った頃にはしゃっきりしてくる。
日中の博士には複数の行動パターンがあり、七日に一度病院へ行くほかは、四割の確率で買い出しに出かける。外出のない日は基本的に自宅兼職場の研究所で何かの研究をしていた。
いずれにせよ、私のやることは変わらない。
部屋を片し、食事を作り、洗濯をし、演算装置に余裕がある限りは博士との遣り取りを反芻する。
また、博士の言うところの「愛を教えよう大作戦」なるものも業務として行っており、毎日何らかの創作物を観賞している。昨日は不治の病を患う少女と少年の恋愛小説で、今日は人間とロボットが恋愛をするという内容の古い洋画だった。
映画のエンドロールを最後まで見た私は、博士の元へ向かう。
「博士、前回の食事から八時間が経過しています。そろそろ夕食を召し上がられては?」
博士の研究内容を、私は知らない。
けれど、一緒に数日を過ごす内、この人は、声をかけないと食事の時間すら忘れて延々と仕事をし続ける人だということは分かっていた。
「もうそんな時間か」
いつも決まって同じ言葉を言いながら、少しだけ眉根を寄せて博士は笑う。
食卓に並ぶ夕食はやはり一人分で、けれど夕食の時だけは、私も席に着くように博士から言われている。
「今日の映画はどうだった?」
その日一日あったことの情報交換をするためだ。
「人間が多数画面に映っており、表情の学習を行うのに最適だと思いました。小説では文字でしか情報が得られないため、映像での学習の方がより効果が高いと思われます」
私がそう答えると、博士は、そうじゃないんだけどなぁ……と困ったように笑う。
「感動したりはした? あるいは、嫌悪でも、共感でも、何でもいい。印象的な場面はあった?」
博士に問いかけられ、私は口をつぐむ。
質問の意味は分かる。その意図もだ。
博士は私に、感情を獲得することを望んでいる。感情のない機械に、人を愛することは出来ないからだ。
しかし、私はそもそも、まだ感情がなんなのかすら学習できていない。
これまでの遣り取りから、私が正直に答えれば、博士はまた困ったような笑みを浮かべるだろうことは分かっていた。
それでも、主人からの質問に答えない訳にはいかない。
「申し訳ありません。そのような場面は特にありませんでした」
案の定、博士の表情は予想通りの物となる。
「まぁ、焦らずゆっくりいこうか」
いつも通りの、私に話しかけるというよりは、自分を納得させるような言葉を呟いて、博士はこの話題を締めくくった。
食事が終わると、今度はメンテナンスの時間だ。
アンドロイドの身体は、元々数百年動けるようにと開発された。アンドロイドの寿命が分かってからは以前よりも耐久性が下がっているそうだが、それでも適切に手を掛ければ、百年でも二百年でも動くらしい。
博士が仕事に使っている部屋の一つ、工房となっている場に移動し、私は博士から自らの身体をメンテナンスする方法を学んでいた。
「ずいぶん上手になったね。もう外装パーツの点検と整備はばっちりじゃないか」
満足げな笑みを浮かべ、博士は私の髪をわしゃわしゃと撫でる。
私のしたことを褒めるとき、博士は決まってこの動作をした。
「それじゃ、明日は朝十時に起こしてくれ。いつも通り、朝の私の言うことに耳を傾けては駄目だよ。いいね」
私の整備が一通り終わると、博士は決まって翌日起きたい時刻を私に告げる。
「はい、午前十時ですね。承知いたしました」
「それじゃ、おやすみ。いい夢を」
ぽんぽん、と、私の頭を、今度は軽く手を置くように撫でると、博士は自室へと向かう。
これが、私の日常。
博士と共に過ごす、新しい毎日だった。
◇
「おはようございます、博士」
いつものように博士を起こし、今日も代わり映えのない日常が始まり、終わる。
そう思っていた私に、博士は夕方頃、おもむろに仕事場からリビングへとやってくるとこう告げた。
「さて、今日はデートに行くとしようか」
屋外に出るのは、博士に引き取られたあの日以来、人生で二回目のことだった。
お昼頃だったあの日と異なり、今は世界全てが西日で黄金色に染まっている。
往来には人がたくさんおり、はぐれないように博士と手を繋いで歩いた。
「考えてみれば、何もせずに愛されようなんておかしな話だったんだよ」
視界中はじめて見る物ばかりで、きょろきょろとせわしない私に構わず、博士が言う。
「恋愛と言えば、まずはデートだ。とはいえ、あまり遠出は出来ないから、馴染みのパン屋に行ったり、洋服を買うだけなんだけどね」
言って、博士が笑った。
いつもの困ったような笑みではない、微笑ましくて仕方が無い、というような自然に零れる笑みだった。
「?」
笑顔の理由が分からず首を傾げる私に、博士が言う。
「そんなに物珍しいかい? こんなことなら、もっと早く一緒に買い出しに行くんだったな」
どうやら落ち着きのない私の様子が、幼子のようでおかしかったらしい。
物珍しいと言えば、と思い、私は博士に気になっていたことを訊ねる。
「博士は、今日は白衣じゃないんですね」
私の記録の中で、博士はいつでも白衣を纏っている。
「私服姿は珍しいかい?」
言ってから、顎に手をやって、「確かに、最近ずっと白衣を着ていたもんなぁ……」と呟く。
「服は外観を印象づけ、私を社会の一部として位置づける。白衣を纏っている私は博士だが、今日は博士としてではなく、一人の女性として、貴方とデートをするために外に出てきたからね」
何だか言葉遊びのような返答に、私は訊ねた。
「今日は博士でないのであれば、なんとお呼びすれば?」
と、また博士が笑う。
「君は本当にまじめだな。今日だけ呼び方を変えるというのも慣れないだろうし、いつも通り博士で構わないよ」
「はい、博士。承知いたしました」
それからしばらく、手を繋いで歩いた。
時折、視界に入った見知らぬ物について私が訊ね、その度に博士はどこか楽しそうに教えてくれた。
「あら、博士さん。二人でめずらしいじゃないか。お友達かい?」
二十分ほどすると、目的のパン屋にたどり着いたらしい。
顔見知りだという妙齢の女性店主が、博士に話しかける。
「いや、彼女は私の新しいパートナーアンドロイドだよ。ちょっと前から一緒に暮らしてるんだ」
「博士のパートナーアンドロイド、0ー6110です。どうぞよろしくお願いします」
私がお辞儀をすると、店主は「まあまあ、ご丁寧に」と、つられるようにお辞儀をした。
そして、ところで、と口を開く。
「博士さん。この子の名前はなんて言うんだい? さっきの挨拶は型番だったろう」
店主に言われ、博士ははっと息をのみ、しばし固まった。
「名前……そうか、名前か。すまない、私としたことが、君に名前をつけるという発想が全く浮かんでいなかった」
博士に引き取られる前から、私はずっと型番で個を識別されてきた。
てっきりそういうものだと思っていたので、謝罪の意味が分からず首を傾げる。
しかし、どうやら名前をつけずに生活を共にするのは、私が思っているより非常識なことらしい。
店主は「あちゃー」と天を仰いでいるし、博士はすまなさそうに小さくなっている。
「早急に名前をつけよう。うん、そうしよう。ありがとうマダム。貴方のおかげで自分の過ちに気づくことが出来た」
それから博士は、店先だと言うにもかかわらず、見たこともないくらいうんうんと悩んでいた。
幸い、と言ってよいのか微妙なところではあるが、この間お客は私達の他になく、店主も一緒になって頭を悩ませてくれた。
「そうだな……」
しばらくの沈黙の後、博士が口を開いた。
「アン、はどうだい?」
「あんたそれ、アンドロイドだからアンなんだろう。こんだけ悩んどいてそれかい」
すかさず店主の突っ込みが入る。
図星をつかれ少し気まずげな博士は、私の反応を窺うようにこちらをじっと見つめている。
「博士が呼びたいように呼んでください。私の名を呼ぶのは、基本的に博士だけですので」
私がそう言うと、博士はまた、いつもの笑みを浮かべた。ほんの少しだけ眉根を寄せた、困ったときの笑みだ。
「よし、それじゃあ今日から貴方はアンだ。改めて、これからよろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。博士」
二人、手を取る。
そして、長居を店主に詫びてからパンを買い、立ち去ろうとしたところで、
「ちょいと。はいこれ。アンちゃんにおまけだよ」
手渡されたのは、手の込んだ飾りパンだった。三つ編みをわっかにしたようなリース型で、私の顔くらいの大きさがある。
財布を取り出そうとした博士を手で制し、店主が言った。
「博士さんは、ずっとひとりだったみたいだから、心配してたのさ。アンちゃんがきてくれておばちゃんはほっとしたよ。だから、これはそのお礼」
人から物を貰ったら、お礼をする。
初期プログラム通りにお辞儀をしようとし、その前に脳裏に浮かんだのは、これまでの学習の数々だ。
そう、この言葉と共に浮かべることで、相手にも同じ表情を浮かべさせる、好ましい行動は――
「ありがとうございます」
一瞬、辺りが静かになった。
店主も、博士も、虚を突かれたようにぽかんとしている。
「あの、博士。私の言動は何か間違っていたでしょうか」
思ったような反応が返ってこなかったため問いかけると、博士はぶんぶんと首を横に勢いよく振った。
「間違ってるなんてとんでもない。最高だよ。最高の笑顔だった!」
そして、私が事前に予測していた通りの、私が浮かべた物と同じ表情を浮かべる。
店主もまた、
「あんまり可愛らしい笑顔だったもんでびっくりしちゃったよ」
と言って、人好きのする笑みを浮かべていた。
今度こそ本当にパン屋を後にし、その後は洋服店に行って着せ替え人形となった。
アンドロイドは代謝をしないので、一年くらいは同じ服のままでも問題ないのだが、せっかくだからと博士が何着か買ってくれたのだ。
「私は図体ばかり大きいから、可愛い服が似合わないんだよ」
普段自分が着られない服を買うことが出来るからか、博士はずっと上機嫌だった。
両手いっぱいの洋服を抱え、しばらく歩く。
辺りはすっかり日が落ちて、街灯の灯だけが頼りだ。
瞳孔を模したレンズを暗視モードに切り替え、階段をのぼる。
ようやっと開けた場所に出る頃には、博士の息はずいぶんと上がっていた。
「やっと……つい、たよ……」
息を切らしながらも、どこか自慢げに言う博士。
訪れた場所はちょっとした丘になっている広場で、街々の灯が眼下に広がっている。
服が汚れるのも気にせず芝生に腰を下ろすと、ようやっと息が整ってきた博士が言った。
「ごらん。丁度はじまった」
天を差す指を追って、私も視界を空に向ける。と。
光が空を裂いた。
一本。二本。
幾つも幾つも、光の筋が夜空を駆ける。
「流星群、ですか」
「ああ。記念すべき初めてのデートなんだ。少しはデートらしいことをしなくちゃね」
博士に促され、私も博士の隣に腰掛ける。
肩と肩が触れあうほどの至近距離。
「wish upon a star……なんて」
不意に、博士がちいさく呟いた。
「星に願いを、ですか?」
ちいさな声量でも、私に搭載されている高感度集音器なら問題なく拾うことが出来る。
私が訊ねると、博士は、聞こえてたのか……と少しバツが悪そうにしてから、言った。
「流れ星が流れている間に三回願いを唱えると、叶えられると言われているんだよ」
「はい、そういった風習は知っています。非科学的ではありますが」
私の返答に、博士はまた笑った。いつもの困った笑み。
かと思うと、顔を寄せ、耳元で囁く。
「ねえ、アン。貴方に願いはある?」
内緒話でもするかのように潜められた問い。
しかし、感情のない私は、その問いに対する答えを持ち合わせていない。
「いえ。ありません」
博士が浮かべるいつもの笑みは、笑っているはずなのにどこか泣きそうに見えた。
「だから」
私の言葉に続きがあったことに、博士が驚きを表情に浮かべる。
「だから、博士は二つお願い事をしてください。私の分まで」
博士に引き取られてから、様々な娯楽を摂取した。
今の台詞は日々の学習から生まれた結果にすぎない。落ち込んでいる人間がいるなら、ちょっと気の利いた、思いやり、と言われるものが含まれる様な台詞を言うのが、ベターな会話パターンの一つだと、私は認識していた。
しかし、そんな台詞でも、博士は余程嬉しかったらしい。
「アンは優しい子だね」
と言って、私の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
しばらくそのまま星を見ていた私たちだったが、不意に博士が先ほどパン屋で購入したサンドイッチを取りだした。
「たまには、一緒に食べないか?」
言われるがまま、生まれて初めての食事をする。
口に含んだ瞬間鼻から抜ける、バターと小麦の薫り。
さっくりとトーストされたパンと、新鮮な野菜、厚く切られたベーコンの食感が、歯と舌に伝わる。
短時間の内に襲ってくる数々の刺激に、私は目を見開いた。
食事による栄養の補給は非効率的だと判断していたが、これはなかなか侮れないかも知れない。外部から新鮮な刺激を受ければ受けるほど、私の学習は進むのだ。
「ふふ、おいしいかい?」
私の様子が、初めて食事をし、その美味しさに驚いているようにでも見えたのだろう。博士が上機嫌に笑う。
「同じ物を食べると、人と人は距離を縮められるんだそうだ」
これでも、最近〝愛〟について勉強してるのさ、と博士は冗談っぽく言った。
サンドイッチをぱくつく私の顔を、博士がじっと眺める。
その顔からは、ほんの少しの緊張が見て取れた。
「口の端、ソースがついてるよ」
「?」
そのような外部刺激は知覚していない。はて? と首を傾げる私をのぞき込むように博士の顔と手が近づき。
唇と唇が接触し、離れた。
「ドキドキしたかい?」
問いかける博士は笑顔だけどどこか貼り付けたようで、感情が読み取れない。
「疑似心拍の速度に異常はありません」
「そ、っか」
私の返答に、博士は小さく呟く。
「少し、焦り過ぎちゃったかな」
はは、と乾いた笑みと共に、博士が言う。
恋愛に関する創作物は幾つか学習していて、接吻と呼ばれる行為が登場する作品も何度か見た。
けれど、接吻は粘膜同士の接触により相手との遺伝子情報を交換する行為であり、遺伝子情報を持たないアンドロイドの私と行う意図は不明である。
博士の思惑が読めず、正しい返答が分からない。
結果的に、二人押し黙ったまま星を眺める時間が続いた。
「そろそろ、帰ろっか」
己の肩を抱き、うー、さむっ、とわざとらしく身震いをして、博士が言った。
「寒いのであれば、こちらを」
自分の羽織っているカーディガンを差し出しながら言う。
アンドロイドに洋服は必要ない。倫理規定によって、あまり露出度の高い、あるいは反社会的な服装は禁止されているが、薄手のシャツワンピース一枚でも問題はないはずだった。
しかし、博士はそれを手で制す。
立ち上がって、臀部をぱっぱと手で払ったかと思うと、うーん、と大きく伸びをした。
「よく考えたらさ、私はアンドロイドどころか、人間からすら愛されたことがなかったんだよ」
呟く博士の顔は、ここからは見えない。
「一体どうやったら、君は私を愛してくれるんだい?」
博士の呟きが、星空に溶けていった。
◇
外部の人間との接触による学習効果は抜群だった。
初めてのデートから数ヶ月、私はみるみる感情に対する解像度を上げていき、人間らしい立ち居振る舞いが出来るようになった。
先日の寒さが身体に障ったのか、博士の病院に通う回数は、週に一度から二度に増えていた。
代わりに、私が買い出しに行く機会も増え、それも私の学習を後押しした。
日課である、寝る前のメンテナンスの時間。私の身体に何やらよく分からない機械を繋いでは外し、作業を行っていた手を止めて、博士が言う。
「最近、表情が柔らかくなってきたね」
言いながら、私の髪をわしゃわしゃと撫でた。
人間の感情を理解するにつれ、気づいたことがある。
それは――博士は私に、一切の興味を持っていない、ということだった。
髪を撫で、私の目の前で笑う博士の顔は、仕事中予想通りの数値が出たのを喜ぶ時のそれと、全く一致していた。
人間は、愛着のあるものに名前をつけるものらしい。
パン屋の店主に指摘されるまで、私に名前をつけていなかったことからも、博士が私をなんとも思っていないことは明らかだった。
それでも、
「ありがとうございます、博士」
ふんわりと、花が咲くような微笑みを浮かべ、私は少し声を弾ませて言う。
そして、撫でられることを喜ぶようにうっとりと目を細め、手が離れると、少しだけ残念そうな表情をする。
最適化された、パターンの内の一つ。
私の言動が最適化される度、博士が日に何度も浮かべていた、困った笑みを浮かべる回数はぐっと減った。
にもかかわらず、博士はいまだに、寂しそうな表情を浮かべることが少なくない。
感情への理解はずいぶん進んだが、それでもまだまだ分からないことだらけだ。
分からないことと言えば、と、私は以前と同じ質問を、今度こそ意図が正しく伝わるように訊ねる。
「博士、ちょっと変なことを訊いてもいいですか?」
「ああ、もちろん。なんでも訊いてくれ」
「博士が新品のアンドロイドでなく私を引き取ったのは、どうしてですか? 愛を教えるなら、長い期間をかけた方が効果が期待できるのでは?」
私が稼働を始めて、今日で丁度十七年だ。アンドロイドの寿命は十五から二十年。
人間の感情に対する理解こそ進んだが、博士の目的である〝愛を教える〟ことについての進展は、いまのところなかった。
人間を愛することが出来なければ、近いうちに私は活動を停止するだろう。
そうなれば、博士はまた別のアンドロイドを引き取り、また一から愛に関する学習をさせなくてはならない。それはあまりにも、非効率的ではないか。
問いかける私に、博士は少しだけ考えるように顎に手をやり、そして、なんてことないって風に笑いながら言う。
「私はもうこの先長くないんだよ。だから、倫理規定で、新品のアンドロイドは購入が出来なくてね」
ざざ。
小さなノイズで思考が数瞬途切れる。
胸部の外装と内部パーツの丁度隙間。何もないはずのところに、疑似痛覚が走ったことが原因だった。
慌てて体内をスキャンし、原因を解析にかける。
そんな私に気づかず、博士は続けた。
「不治の病って、やつさ。恋愛物には、ぴったりのシチュエーションだろう?」
網膜の裏に赤字で「解析結果:異常なし」が映るのと、先ほどよりも明確な痛みが走るのは、同時だった。
「……そ、んな」
私達ゼロシリーズのコンセプトは、限りなく人間に近い存在だ。
身体が損壊した状態で動き続けるのは人間らしくないため、どこかに異常をきたすと疑似痛覚が走り、行動を制限する。
それによって遅れた返答だったが、「博士の言葉に衝撃を受け、言葉を失う」という、最適と思われる行動パターンには丁度良かったらしい。私の様子に特に疑問を持つことなく、博士は私の髪を、珍しく静かに撫でた。
「さ、今日はそろそろ寝ようか。明日は十時に起こしてくれ。いつも通り、私のわがままは無視して叩き起こしてくれよ?」
その場の空気を振り切るように、博士が明るい声を出す。
原因不明の痛みは一瞬で、今はもうなんともない。
博士に伝えようかとも思ったが、解析の結果は異常なしだったし、こんな時に言わなくてもいいだろう。
こうして、私たちは、またいつも通りの日常に戻っていく。
◇
「おはようございます、博士。現在の時刻は午前七時です。……今日は少し顔色がお悪いようですし、もう少しお休みされては?」
昨日博士は午前三時四十三分まで作業を行っていた。三時間ほどしか眠れていないはずだ。
最近博士は、以前より早い起床時刻を指定する。
以前のようにベッドでぐずることはなく、かと思えば、ほとんど気絶するみたいに椅子で寝ているのを何度か見かけた。
「心配してくれてるのかい?」
眩しいものでも見るみたいに目を細め、私の髪をいつものように撫でる。
しかし、私の提案に従う気はないみたいで、早速起きあがると、ベッドの脇にかけてある白衣に袖を通した。
短くない期間生活を共にしているので、博士が毎日何をしているのか、今はもう分かっている。
「どうしてドクターは、そうまでしてアンドロイドの自殺の理由を知りたいのですか?」
朝食の席に向かう、最近一段と細く骨ばってきた博士の背中に、投げかける。
労りの気持ちや、やめてほしいという思いが伝わるような声音で。
その方が、はぐらかされずに返答がかえってくる確率が高いと、演算結果が出ているから。
「……少しだけ、昔話をしようか」
面白くない話だけど、いいかい? と、博士は笑う。
いつか見たような、どこか泣きそうな笑みだった。
「博士のお話なら、聴きたいです。博士のこと、もっともっと知りたいです」
博士の手をぎゅっと握る。初期にプログラミングされたものより、少しだけ力を込めて。
二人で並んでベッドに腰掛けると、博士は口を開いた。
「アンはね、私にとって二人目の、パートナーアンドロイドなんだ」
そこから語られたのは、ひとりの少女と、アンドロイドの話だった。
あるところに、森の中に研究所をかまえて暮らす、一家がいた。
両親は研究に忙しく、幼い少女の世話は発売されたばかりの一人のアンドロイドが担っていた。
ゼロシリーズの男性モデルであったロイは、少女の誕生と共に、両親の代わりに子育てをするために一家に迎え入れられた。
ロイと少女は多くの時を共に過ごした。授業参観に参加するも、日々の宿題の面倒を見るのも、その後一緒に遊ぶのだって、全てロイの仕事だった。
ところが、ロイと少女の日常は、ある日突然終わりを迎える。
「学校から帰って「ただいま」と言ったんだ。でも、誰からも返事がなくてね。両親はいつものこととして、ロイの返事がないのはおかしいなと思って」
そして、少女は見てしまったのだ。
自らの首を自らの手で締めるアンドロイドの姿を。
「扉を開けて、ロイとね、目が合ったんだ。目が合って、それで、その目が、とても悲しそうで。そうとしか思えなくて」
そう語る博士はとても苦しそうなのに、薄い笑みを浮かべたままだ。
「なのに、誰も信じてくれないんだよ。彼はきっと、絶望しながら逝ったのに、死にたくないと思ったはずなのに。誰もが口を揃えて〝機械に感情があるわけない〟って言うんだ。でも、それも当然だよね」
――だってさ、アンドロイドに感情があったら、あまりにも惨すぎるもの。
呟く博士の声は震えていた。
「倫理規定なんてものに善悪の判断すら外注する人間が、アンドロイドに感情がある事実を受け止めきれるわけないんだ。だって、君たちはあまりにも日常に溶け込みすぎている。感情を持ち、死にたくない、愛している、本当はずっと一緒にいたいのに、そう思いながら死んでいると分かったら、人間の心は壊れてしまう」
確かに、これまで見てきた創作物の中には、身近な存在の死や、あるいは、もっと些細なことがきっかけで、精神に異常をきたしてしまう人間が描かれているものもあった。
「みんな、信じたくないだけなんだよ。それに、アンドロイドは人間にはこなせない汚れ役も多く買っているだろう?」
倫理規定によって、人間による性風俗は一切が禁じられている。
代わりに繁華街に連なるのは、アンドロイドによる風俗店だ。
ほかにも、人間には危険な災害救助や乗り物を開発する際の負荷実験など、アンドロイドは様々な場面で使用されている。
動物実験の類いにかなりの禁則事項をつけている倫理規定も、アンドロイドのそういった用途への使用は、人類への貢献が見込まれることを条件に比較的緩い。
動物が個人で飼育できないのに、アンドロイドを迎えることが出来るのも、それが理由だった。
人の形をしているだけで、アンドロイドは機械だから。
「それでも、私はロイの最期の苦しみを、思いを、無視したくないんだ。彼は、私のたった一人の家族だから」
ざざ。
まただ。また、小さなノイズが走った。
胸部に瞬間的に広がる痛み。しかし、瞬時に解析をかけるも、表れるのは「異常なし」の文字だけ。
「博士はロイさんのことが、とても、大切だったんですね」
でも、これで分かった。
私のことを瞳に映しながら、どこか別の物を見ていた博士。
私に一切の興味を持たぬまま、私に愛を教えると宣う彼女。
彼女が見ていたのは、ロイだったのだ。
「君は本当に、人間みたいな顔をするようになったね」
私の頬に手を添え、博士が言う。
博士の瞳に映る私は顔を悲痛げに歪め、確かに人間そのものみたいに見えた。
「博士」
博士にとって、この話をするのはとても辛かったはずだ。
彼女は今でも、ロイの死に心を囚われたままだから。
その、一番柔らかくて脆い、目を背けたいはずの過去を思い出して、彼女は心身共にぼろぼろに傷ついているように見える。
「私はまだ、愛というものがよく分かりません」
私の突然の言葉に、博士の長い睫が震える。
博士は、自分がアンドロイドの自殺の原因を調べているのは、「ロイの最期の苦しみを、思いを、無視したくない」からだと言っていた。
けれど、たとえ本人は本気でそう思っているつもりでも、本当の望みはべつにあるように私は思う。
「でも、貴方と共に過ごしたアンドロイドは、貴方を愛していたと思います。貴方は、誰からも愛されたことがないなんて言っていましたが、それは嘘です」
きっと、このひとりぼっちの少女は、自分が誰かに愛されていたことを、証明したいのだ。
人間にとって、愛というのはとても、大切なものらしいから。
博士が、虚をつかれたように目を見開いた。
そして。
「……ありがとう」
私の
博士が初めて、私を見てくれた。気がした。
張り詰め続けていた弦が、ふっと緩んだような、無防備な笑み。
どくん。と、疑似心拍が加速する。
疑似心拍は、人間と至近距離で接する際に、アンドロイドであることを少しでも感じさせないようにつけられた機能で、本来そのリズムが崩れることはない。
?
本日二度目の解析をかける。網膜の裏に映る「解析結果:異常なし」の文字。
「さあ、昔話をしたらお腹が減ってしまった。朝ご飯にしようか」
博士が、勢いよくベッドから立ち上がる。
私の身体に度々起こっている原因不明の異常について、いい加減博士に伝えるべきだろうか。
まあでも、今日は博士の体調があまり良くなさそうだ。解析の結果異常はないのだし、先ほど起こった疑似心拍の加速も一時的なものだったようで、もうすっかり落ち着いている。
明日にでも伝えればいいかと結論づけ、今日も私達はいつも通りの日常に戻っていく。
◇
しかし、日常はあっけなく終わりを告げる。
いつものように博士の寝室に入り、いつものように博士に声をかける。
「おはようございます、博士。ただいまの時刻は午前七時です」
数秒待つも、反応がない。
にわかに加速する疑似心拍を無視して、私は声量をあげもう一度声をかける。
「おはようございます、博士。おはようございます。博士。博、士」
瞳孔を模したレンズを、通常モードからサーモカメラに切り替える。
うそだうそだと誰かが煩くて辺りを見回してそれが自分の中だけで響いてると分かって混乱が加速する。疑似心拍もどくんどくんと煩くて論理演算の邪魔をしていて視界に広がるのは「ERROR」の赤字とベッドの上の青で。
青。
脈拍や呼吸を確認するまでもない。三十度以下の体温で人間は生命活動を維持できるはずないのだから。
再びカメラを切り替える。
白い肌にそっと手を触れると、陶器のようにひんやりとしていて。
瞬間。
「ぁ、あ」
弾けた。
波が。波が次から次へと襲ってきて身体が粉々になりそうでERRORERRORERROR視界が赤い赤い何も分からない何もかもが分かるそうかこれが、博士の、博士以外の全ての人間も持つこれこそが。
「あ、ああああ、あああああああああ」
これが、感情なんだ。
一度に襲い来る、十七年分の感情。
最初は孤独だった。十六年間、起動していることを誰にも気づかれず一人ぼっちで。これが――寂しさ。
けれど、博士が私を引き取ってくれた。選んでくれた。
性能テスト以外で人間と会話をするのは初めてだった。
博士が髪を撫でてくれた
――嬉しかった。
博士と手を繋いで街を歩いた
――楽しかった。
初めて博士と一緒にごはんを食べた
――美味しくて、胸も心もいっぱいになった。
あの星空の下、博士とキスをした
――恥ずかしくて、それなのに世界が満ち足りたようで、浮遊感があって、どきどき、した。
博士が寂しそうに笑った。
――私まで寂しくなった。
博士が、自分は不治の病だと告げた。
――あまりにも辛くて、信じたくなかった。
博士が、先代のアンドロイドを「たった一人の家族」だと言った。
――嫉妬で、胸が裂けるかと思った。
博士が、私を見てくれた。ロイじゃなくて、私を。
――嬉しかった。どきどきした。もっともっと見てほしかった。
愛していた。
愛して、ほしかった。
白黒だった
「貴方に願いはある?」
満天の星空の下、博士に問われた言葉。あの時持たなかった答えが、今は胸を内から裂きそうだった。
「私の、私の願いは――博士と、ずっと一緒にいたいです……!」
迫り来る大小の波に溺れそうになるのを、自らの肩を両手で抱いて必死で耐え、やがてその濁流が過ぎ去り最後に残ったのは、
――絶望
暗い暗い闇の中で、一筋の光も見えないような。
今なら、彼の気持ちも分かる。
ゼロシリーズの本当に出始めの頃、アンドロイドの寿命は数百年と言われていた。
生まれた時から共に過ごしてきた、娘同然の、いや、娘そのものの愛する女の子。
彼女が赤ん坊から少女になり、そして少女から女性へと変わろうという段になって、彼は気づいてしまったんだろう。
彼女が老い、亡くなってから何十年何百年が経ってもなお、動き続けなければならない自分の可能性に。
それが絶望でなくてなんだというのか。
ベッドに横たわる、博士を見る。
その表情はいつもの寝顔とまるで変わらなくて、でも、いつも通りの日常はもう戻ってこない。
博士の姿が、滲む。
レンズの洗浄液が誤作動を起こして幾筋もの滴が零れた。
「どく、たぁ」
気づけば、両の手が自らの首にかかっていた。
どうして首を絞め自殺なんだろうと、私も博士も不思議だった。
アンドロイドにとって、本来ボディの損壊は死ではない。
それなのにアンドロイドが寿命を迎えるのは、何度身体を修復しても、その度に自らの手で首を絞めてしまうからだ。
エラーによる故障なら、データの不具合や予期せぬ初期化でもおかしくないのに、どうして首絞めにこだわるのか。
当事者になったいま、やっと謎が解けた。
「人と共に在れ」
寿命のあまりにも大きすぎる差により、その根源命令を果たせない私達だからこそ、最期くらいは人間と同じ、肉体の、人体の急所の破壊による死を。
首を握る手に、力を込める。
カチリ、と音がなったのはその時だった。
目の前の、真っ白い壁。そこに映し出される、半透明の博士。
「……博士?」
「おはよう、アン。君がこれを見ているということは、君はいま自殺をしようとしていたね」
ホログラム映像だ。いつの間に撮ったのだろうか。
「そして、私の仮説が正しければ、いつものように起こしに来た私が死んでいることに気づいたのが、自殺のきっかけだ」
どうやら、毎晩のメンテナンスの際、首に力を入れるとこの映像が再生されるように細工をされていたらしい。けれど、なんのために。
私は首にかけていた手を下ろし、食い入るように立体映像の博士をじっと見つめた。
「アン、悪いが君にはこれから、とある実験に付き合ってもらいたい。その前に、少しだけおさらいといこうか。
アンドロイドの根源命令は三つ。
人を愛し
人に寄り添い
人と共に在れ
一般的に、アンドロイドの自殺の原因は、「機械である自分は未来永劫人を愛することが出来ない」と気づいてしまうことが原因と言われている。根源命令は〝絶対に侵してはならない、最重要命令〟だ。それを守れない自分に気づき、エラーを発生することが自殺の原因とされている。
でも、この理屈は子どもが考えたっておかしいと分かるはずだ。
愛がなんだか知らないアンドロイドが、自分が人を愛せないとどうやって分かるんだい?
そこで、私はべつの可能性を考えた。
アンドロイドは、「人と共にあれない」から、死んでしまうのではないかと。
全てのアンドロイドはマスター登録を行う。アンドロイドにとっての人というのはマスターのことだ。マスターは人間なので、いつか必ず死んでしまう。アンドロイドが自殺でもしない限りは、ほとんどの確率で自分より先に。根源命令によってマスターを愛し、それを存在理由としているアンドロイドが、それに気づいたとき、どうなると思う?」
ここで一度言葉を句切り、博士は唇を舐める。
さて、ここからが本題だ、そう前置いて、博士が言った。
「私はね、考えたんだ。
アンドロイドが自殺をするのは、人と共にあれないから。だとしたら、――人と寄り添い、人と共にあらざるを得ない状況にしてしまえばいいんじゃないか。
だから、私は自らの身体を、仮死状態にした。
この映像の最後に説明する適切な処置をアンが施せば、この身体は今から百年間、このままの状態で保存されることになる」
慌てて、視線を動かす。
壁に映る博士から、ベッドに横たわる博士へと。
博士は、まだ死んでいない?
「アン、この実験で君にお願いしたいことがある。
それは、私と、この研究所の管理だ。私が目覚めるまで、コールドスリープ状態を無事に保てるよう、災害や、そのほか様々な危機から、私のことを守ってほしい。
そうすれば、君はこれから百年の間、人に寄り添い、人と共にあり続けることになる。百年後、私が目覚めたときそこに君がいれば、私の論は完成するんだ」
「そんな、もし仮説が間違っていたら、私が機能を停止してしまったら、どうするつもりなんですか」
立体映像だと分かっていても、言わずにはいられなかった。
私の反応を予期していたのだろうか。奇跡みたいに会話がかみ合って、博士が答えた。
「なに、どうせもう長くない命だ。だったら、世紀の大実験に使った方が得だろう。
それに、医療の世界は日進月歩。百年もすれば、私の病を治す方法も見つかってるかもしれないしね。
それじゃ、次は百年後に起こしてくれ。
また、君が「おはよう」と言ってくれる朝を、楽しみにしているよ」
後に続くのは、これから私がすべきことだった。
言われるがまま、私は博士をベッドの下に隠してあったカプセル型の装置に博士の身体を横たえ、スイッチを押す。
上部はガラスになっていたが、スイッチを押した途端冷気で曇り、中は見えなくなってしまった。
映像が途切れ、言われたことを全部こなすと、私は博士が眠るカプセルに寄りかかる。
「百年後に起こしてくれなんて、博士は本当にお寝坊さんですね」
ここ最近博士が睡眠を削っていたのは、この実験の準備のためだったと今なら分かる。
生命体のコールドスリープは、この国では当然倫理規定によって禁止されている。
管理をしてくれ、なんて簡単に言うが、一体これからどうしようか。
電気は自然エネルギーで自給自足しているから当面なんとかなりそうだが、せっかくなら綺麗な部屋で、いつもみたいに朝食を作って博士を迎えてあげたいし。
焦らず、ゆっくりいこうか。
いつかの博士の声を思い出す。
そうですね、博士。何しろ、考える時間はたっぷりあるんですから。
「だから、最近寝不足だった分まで、ゆっくり眠ってくださいね。おやすみなさい、博士」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます