禱れや謡え花守よ 外伝 『さらば偽主の道』

水本由紀

第1話 その男、偽者につき。

慶永七年、初夏。


例年の夏より陽射しが早く照り付け、人の肌を焼く。


陽炎かげろうが立たぬが救いだろうか。


燦然さんぜんと等しく降り注ぐ太陽の光の下よりこの物語は幕を開く。


「………。」


口を、開くでもなく寡黙かもくに。

眼鏡をかけた男が道中を行く。


目指すは――無い。


目的を探す旅の一つでもあり、見聞を深める為の旅ですらある。


気付けば、随分と来た物だ。


地図を頼らず、人を頼り。


出来るだけ己が二本の足で踏みしめるを望む。


慣れ親しんだ夕京こきょうを離れ、異国でこそないが、見知らぬ地。


過去の己からすれば、まさか花守はなもりとして歩いた日々が足腰を作っていたとは夢にも思うまい。


「…今日は。この辺りにするか。」


昼下がりの商店、露天で賑わいを見せた場所にて。


今宵の宿を探すべく、視線を周囲へと。


―――向けたまでは、良かったのだ。


「ひっ!」


視線が合った宿の者が、中へ引っ込んでしまった。


「此ればかりは。幾分いくぶん慣れてはいるが時間はかかるな…」


眉間にしわを寄せたよう、睨み付けた様に見える己が風貌ふうぼうの者が声をかければ、まともに話を聞いて貰えるまでが一苦労だ。


「あ、あのう…」


すると、おずおずと遠慮がちに尋ねてきた者が居た。


「私かね。」


「は、はい!宿を、お探しですか?」


如何いかにも。」


「その、大きい所ではありませんがっ、ウチにお泊まりになられませんか?」


物怖じしながらも、そう告げてきた。


「…願ってもない申し出だ。宿の方から、逃げられいささか困っていたゆえに。」


その主人に、眼鏡の男はこうべを垂れる。


礼には礼を。尽くすが、道理。


「有難う御座います!御一人様御案内おひとりさまごあんないです!」


………。


誘われ、案内された宿の見てくれは確かに大きくない、が―


決して小汚ないと言う事はなく、手入れは行き届いているのが見てとれる。


「……さて。」


通された部屋にて、腰を降ろす。


思わず、以前の名を帳簿に記してしまった。


御影瑞己みかげみずき


つい数ヶ月前まで己が名乗っていた名だ。


借り物の名であり、その名は本人に返した。


功績を上げた立役者として。


名も無き己には今や、過ぎた名である。


「…目的より先に。名前を決めなければならぬか。」


符号、呼び名。


その音は、人生の上で避けては通れぬ部分だが。


…なまじ十数年借り受けた名が、そう簡単に綺麗さっぱりと抜け落ちてくれる筈もなくー――


――ガシャン!!


そんな独白どくはくを知ってか知らずか、耳に届く位の音が響いた。


続いて、怒声。


経験上、十中八九厄介事である。


首を突っ込めば、ロクな事にはならない。


タン


徐々に聞こえてくるその声。


タン


男の部屋に近付いて来てるのか、鮮明になってゆく。


タン


否。


此処で、御影瑞己みかげみずきと名乗っていた偽者について語る必要がある。


「オラァ!酌をしろと言ってるだろ!」


「やっ…い、痛っ…」


宿の女性客に絡み、その細腕を掴んだ様が見てとれる。


「お、お客様!他のお客様のご迷惑に…」


「うるせぇ、黙ってろ!」


あろうことか、足蹴にされた主人が宿の壁へと激突をし――


ガッ


――なかった。


目を閉じていた主人がゆっくりと目を開くと。


「平気かね、ご主人。」


眼鏡の男がその身を受け止めていた。


「あっ、有難う御座います…!」



「何余計なことしてんだ、お前!」


たわけが。余計な事をしているのは貴様だ。」


「なにぃー!?」


怒りに身を任せ、高圧的に眼鏡の男へ迫り来る男は、女性客の手を離していた。


そう言えば未だに話は途中であった。

この男、偽者につき……


を見てさざるは勇無ゆうななり


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