第85話 止まらない涙





 シュバルツの森は静かだった。

 葵の住むログハウスには二つのベッドが置かれていた。

 一つは葵のベッド。もう一つには永遠の眠りに就くアナスタシアが横たわっていた。

「マリ―。今日も美しいよ」

 葵の朝は、アナスタシアの枕元にミルクティを供える所から始まる。

 ハルの冷凍魔法は、触れば冷たいが、見た目には生前と変わらない肌の色艶いろつやがあった。 

「明日は新しい紅茶を用意するよ。キミのためのキミだけの紅茶だ。マリーティーと名付けてもいいかな。キミのことだから、恥ずかしいと言って怒るかもしれないね。アハハハ……」

 アナスタシアの葬儀も行われないまま一週間が経っていた。

 葵はまだその死を受け入れられないでいた。

 窓際の机の上には、アナスタシアを死に至らしめた短剣と、腕にはめられていた憎愛の腕輪と強化の腕輪が置いてある。

 魔導書庫に通っていたハルの知識からそれらの作用は判明していた。 

 スルーズが以前、契約の腕輪に支配されてシャルルの兄を殺した事は、アナスタシアも知っていた。

 アナスタシアの死は状況から見て自殺としか考えられなかった。

「辛かったよな……マリー」

 あの日以来、葵は涙に明け暮れる日々を過ごしていた。

 葵を守るためにその身を犠牲にしたアナスタシアの気持ちを思うと、滝のように涙が溢れ出るのだ。

(マリーを殺したのはぼくなのかもしれない)

 その思いが頭をもたげた。

「ごめんね、マリー……」


 何故アナスタシアが自殺しないといけなかったのか?

 ミハイルやビルヘルの死も含めて、隔離施設内で何が起こったのか?

 それらについて、葵に代わってスルーズが、皆の前で推理を披露した。

「マリー様に装着された二つの腕輪の契約者は、ミハイル殿下だと思います。ビルヘルム様がそこにいたのは、エルミタージュからマリー様を転移魔法で連れ出したからでしょう。ミハイル殿下には誤算がありました。マリー様が人を憎まない御仁であることに気付いていなかったのです。あの方の慈愛の心にミハイル殿下も含まれているとは、考えもしなかったのでしょうね。強化の腕輪はハモンドやわたしへの対策だと思います」

 契約が成立した瞬間、真っ先に殺されたのがミハイルとビルヘルムだった。

 契約者が死んだ以上、契約解除出来る者がいなくなった。そこへ葵や街の人達がアナスタシアを救おうとしてやって来たのだが、それが却ってアナスタシアを追い詰める結果になってしまったのだ。

 そう言った説明を、スルーズは出来るだけ淡々と、誰かが責め苦を追わないよう、客観的視点を超えない範囲で皆に伝えた。

 それでも事実は事実。

 仲間を守るため自刃を選んだ事実は変えられなかった。

 皆の心のある自責の念を払拭するには程遠かった。

 分からない事が一つだけある。

 契約の腕輪をはめられた者が自殺する事は出来ない筈だ。

 アナスタシアの胸に深く刺さっていた短剣には特殊なエンチャントが施されてあったが、それが自殺を可能にする物かどうかまでは分からなかった。

 ハルもそれについてはまだ学んでいなかったようだ。


 シャルルやミシェールも毎日片道二時間も掛けて、沈んでいる葵に会いに来てくれた。

「孔明、気晴らしに狩りでも行かないか?」

「以前、孔明様がおっしゃっていた銭湯と言うものをマイストールに作ってみました。一度試されてみてはいかがですか?」

 二人は口々にそう言ったが、葵は軽く笑って首を横に振るだけだった。


「何時までそうしているのさ、軍師殿」

 ストレートに入って来るのはリンダだけだ。

「そんなんじゃ、アナスタシア様だって悲しむよ」

「分かっている……そんなの……分かってるよ……」

 アナスタシアの事に触れられると、葵は涙が止まらなくなる。

 涙を拭おうと目元まで上げた手が小刻みに震えて、上手く出来なかった。

 葵のそんな様子にリンダも辛そうな顔を見せ、部屋を出て行った。


 代わる代わる葵を気遣って誰かが部屋に入って来る。

 その行為を有難いと思わなくもないが、それ以上に疎ましかった。

(一人にしてくれよ。マリーと二人きりでいたいんだよ)

 その気持ちは相手にも伝わる。

 訪問者はやがて、食事だけ置くと立ち去るようになっていた。


「葵様、お食事ですよ」

 スルーズが食べ物を持って入って来た。

 スルーズはアナスタシアに対して、葵の世界の伝統的拝礼を済ませると、葵の前に座った。

「何か食べましょうよ、葵様」

「いいんだ。欲しくないんだ」

「葵様、少しは食べないと」

「食べたくないんだ」

「食べないと体に良くないですよ」

「死ねるんならそれでもいい……マリ―の所に行けるのなら………。マリーに逢いたい……逢いたいんだ……」

 また泣いてしまう。

〈ロゼたちの気持ちは、痛いほどよく分かる。ありがたいとも思っている。でもぼくは、もう立ち上がれない……マリーのいないこの世界で、どうやって生きて行けばいいのか分からないんだ。頼む……そっとして置いてくれないか〉

《分かりました。でも、いつかきっと立ち上がってくださいね。マリー様のためにも》

 葵は思念を閉じる事しか出来なかった。


 それからも葵の引きこもり生活は続いた。

 永遠とわに眠るアナスタシアの傍を離れる事が出来なくなっていたのだ。

 クロノスの世界に来て、心を取り戻し、シャルルと出会いロゼにも出会った。

 その中でもアナスタシア・マリーとの出会いは衝撃だった。

(自分の身を削ってまで人々を助けようとする人間がいるなんて……)

 そんなアナスタシアの事が気になり、力になりたいと思った。

 アナスタシアの目の動きや、一つ一つの仕草が気になった。

 手の温かさやその肌の香りに胸が高鳴った。

 舞踏会後のベランダで突然のファーストキス。

 いつもいつも驚かされてばかりだった。

 ミルクティが好きで、人の笑顔が好きで、街の人達が好きだった。

 泣いたり笑ったり怒ったり……。表情が豊かで、何よりもはにかんだ時のアナスタシアのしどろもどろの仕草が、葵は可愛くて仕方なかった。

 そんな毎日の中で葵は気が付いてしまった。

(ぼくはアナスタシア様が好きだ)

 どんどん膨らんで行く思いに、初めての恋と知った。 

(愛している、マリー)

 自分の想いを確信した。

 そんな二人の時間がこれからも続くと信じていた。

 アナスタシアとの婚約が許され、まさに有頂天だった。

(それなのに……)

 安らかに眠るアナスタシアの顔を葵は覗き込み、胸の刀傷に目をやった。

 自ら刃を当てる瞬間のアナスタシアの気持ちを思うと、体が震え、また涙が溢れた。

(怖かったよな……苦しかっただろうな……)

 葵は固く冷たいアナスタシアの体を抱きしめた。

「マリ―……キミに会いたい……マリー……!」

 葵は殻を破る術を見失っていた。

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