第84話 あなたを 愛しています





 止めどなくあふれる涙を、葵は憎らしく思った。

 涙の出ない自分を嫌悪していた筈なのに、今はそれが疎ましかった。

(こんな涙なんて、知らなくてよかった)

「何でだよ……何でだよ、マリー……」

 物言わなくなったアナスタシアをただ抱きしめる事しか出来なかった。


 何があったのか?

 どうしてこんな事になったのか?

 殺されたのか?

 それとも自ら命を絶ったのか……?

 だとしたら何故?


 いろんな思いが頭の中を交錯したが、何を知った所で亡くなった人は帰らないのだ。

 頬を流れる涙を止める術を知らないまま、葵はアナスタシアをひたすら抱き締めるだけだった。

「葵様!」

 肩で息するスルーズが部屋に飛び込んできた。

「……マリー様……そんな……!」

 しばらく立ち尽くしいたスルーズは、アナスタシアの傍によると、開いたままの瞼をそっと閉じた。

「何が……あったのですか?」

「分からない……分からない…んだよ…」

 また涙が溢れて、言葉が詰まった。


「アナスタシア様!! イヤよ!! いゃぁぁぁぁ!!」

 ハルと一緒に到着したハモンドとルーシーの悲鳴が聞こえた。倒れ込むルーシーを支えるハモンドがいた。

 皆、悲しみの中に埋もれていた。

「そうだ、ハル」

 悲しみの中で葵はハルに目を向けた。

「治癒魔法だ。ぼくとシンクロして治癒魔法をしてくれ」

「に、兄さん……ぼくに蘇生は出来ないんだ……」

 ハルは首を横に振った。

「治癒魔法は……生きている人間にしか…できないよ。アナスタシア様はもう……」

「そんなことない! もしかしたら生き返るかもしれない! ハル、早く! 早く治癒魔法を!」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「頼む、ハル! 早く! 早く!」

「止めないか! 軍師殿!」

 アナスタシアの膝元にうずくまっていたリンダが起き上がり、ハルを庇うよう両手を広げた。

「ハルだって目の前で姉さんが殺されたんだろ? 蘇生魔法があるなら、その時に使っていた筈だ。気持ちは分かるけど、無茶言うんじゃないよ!」

 葵の脳裏にエミールの最期が過った。

「す、すまない……ハル」

 目の前で凶器に倒れたエミールを助けられなかったハルの気持ちが、今になってよく分かった。

「ごめんね、マリー。ぼくは……ぼくは……キミを、守れなかった」

 葵はアナスタシアに縋って再び泣き崩れた。



 そんな中で、冷静に周りを見ていたハルが、机の置かれてあるビデオカメラを取り上げた。それは葵がアナスタシアに預けていた物だった。

「兄さん、これ……。もしかしたら……」

 放心していた葵だが、ハルの意図はすぐ伝わった。

 葵はハルに頷いて見せた。

「ああ……頼む、ハル」

「任せて、兄さん」

 ハルはビデオカメラの電源を入れた。

「あった…これです」

 数分前に録画したデーターがあった。

 ハルはみんなの見える所に、ビデオカメラの小さなモニター画面を向けるとパネルをタッチした。



 画面には、少し戸惑ったようなアナスタシアが映っていた。

『映っているのかどうかは分からないけど、わたしはキミ達には伝えたいことがある。上手く操作出来ているのかどうかは不安だけど、時間もないので話を進めるとしよう』

 アナスタシアは深く息を吐いた。

 そしてこんな状況だと言うのに、笑顔を見せた。

『ルーシー、大変世話になった。キミには感謝しかないよ。わたしのために尽くしてくれたことは、いつまでもずっと忘れない。ありがとう』


「アナスタシア様ぁ……」

 ルーシーは泣き崩れてハモンドの胸の顔を埋めた。



『ハモンド。ルーシーはわたしの大切な友人なのだ。そんな大切な友を、よろしく頼んだよ。幸せにしてやってくれ』



「はい。必ず幸せにします。必ず……必ず…」

 ハモンドはルーシー抱いたまま、こうべを垂れて嗚咽した。



『二人の可愛いバルキュリア達は、これからもスルーズと葵を助けてやってくれ』



「分かりました」

「ええ、任せください」

 メリッサとポーラだった。



『ギルバート。わたしに協力してくれて感謝しているよ。ありがとう』



「お姫様。おれが転移魔法で宮殿に連れて行かなければ……うああああ」

「そんなことないよ。あんたのせいじゃない」

 うずくまり泣き咽ぶギルバートの背中をリンダが軽く叩いた。



『リンダ。キミはとても役に立つ人間だ。そして誰よりも心優しい。これからも葵達の力になってやってくれ。ありがとう』



「アナスタシア様ぁ……うあああああ」

 リンダもギルバートの隣りで床に座り込んだ。



『エリーゼ、そしてハル。キミ達はいいコンビになると思うよ。究極のアンチ魔法と究極の魔導師がダッグを組めば、どのような世界が広がるのだろうな。とても楽しみにしていたんだけれど、見届けられないのが残念だ。これからも葵と共に歩んでくれ』



「アナスタシア様ぁ……」

 ハルとエリーゼは肩を並べてしゃくり上げた。



 アナスタシアの笑みが少し複雑に揺れた。

『ロゼ。キミはわたしにとって最大のライバルだった。剣においても、そして……』

 と言いかけて言葉を切った。

『葵を頼んだぞ。葵は掴み処がなく無感情のように見られるが、彼の心はとてもとても繊細だ。誰かが傍にいないとダメになってしまう。それが心残りで仕方がない。でも、わたしにはもうどうすることも出来ない。これから先、葵に寄り添ってやれるのは、ロゼ、キミしかいない。葵のこと、くれぐれもよろしく頼んだぞ。キミのことは大好きだった。ありがとう、ロゼ』

 アナスタシアは満面の笑みを見せた。



「マリー様……。うぅぅ……」

 スルーズは両手で口を押えると、声を押し殺して嗚咽した。



 モニターの中のアナスタシアの表情が変わった。

 そして最後のメッセージを告げようとしている相手が誰なのかは、皆も分かっていた。

『葵……』

 その名を呼んだ瞬間、それまで堪えていた涙がポロポロと溢れた。

 アナスタシアは詰まらせた声を取り戻すべく、小さく咳払いをした。

『何から話せばいいのだろうな……。キミには最大限の感謝しかない。わたしがこの胸を痛めながら、ずっと思いあぐねていた貧困層の救済を、キミの力で成すことが出来た。まだ完全とは言わないが、貧困層と呼ばれる人たちはエルミタージュからいなくなったのは事実だ。―――本当、キミには驚かされることばかりだったな。シンクロ魔法の途方もないアシスト……。紅茶やコーヒーと言った、心豊かにしてくれる飲み物との出会いは、わたしの張りつめた心に安らぎとゆとりをもたらせてくれた。この一年足らずの間に、どれだけキミはわたしを驚かせ、楽しませてくれたことか……。そして何よりもわたしに寄り添ってくれた』



「マリ―……。行かないでくれ。ぼくの傍を…離れないでくれ…」

 もう無理だと分かっている。それでもそう願わざるを得なかった。



『キミと出会って、わたしはキミに恋をし、そしてキミを愛した。出来ればその先の未来も、共に…歩みたかった…』

 アナスタシアの両手がその口を塞いだ。

 想いの深さが伝わって来る。

『今までわたしは、皇女に生まれたその責務に誇りを以て生きてきた。でも……』

 アナスタシアが寂しそうな笑みを浮かべた。

『……今は少し違う。死を目前にしたこの瞬間になって、わたしは町娘に生まれたかったと思う。―――街のカフェでキミと出会い、恋をし、結婚して所帯を持ち、子供が生まれ、裕福ではないけど、幸せな家庭を築き、そしてキミと一緒に年を取り、共に終焉を迎える……そんな平凡な人生でありたかった……』

 アナスタシアの瞳から再び涙が溢れた。

『ありがとう、葵。全霊を捧げたこの思いの相手がキミであったことに、わたしはこの上ない感謝を捧げたい』

 止まる事のない涙をアナスタシアは拭うと、少女のような恥じらいた顔を見せた。

『桐葉葵さま。わたくしアナスタシア・マリー・ロマノフは、心よりあなたを愛しています』

 そう告げるとアナスタシアの右手がモニターに向かって伸び、画面が大きく揺れ、動画は終了した。



「マリー……ぼくもキミを愛している。愛している……」

 アナスタシアの頬には涙の痕が残っていた。

「それなのに、何で……何で、死んでしまったんだ……」

 その疑問だけが残っていた。

 何故アナスタシアが死んだのか、死ななければならなかったのか、分からない事だらけだった。

 それを知った所で何も変わらなかった。

 アナスタシア・マリー・ロマノフの死を変える事は、もう誰にも出来ないのだから。

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