第33話 ルシファーの隔離施設
一抹の不安はあったが、ミシェールにコピーしてもらった薬は、間違いなくビブラマイシンだった。
メテオラ採掘場の岩盤採掘と、開発地区のメテオラバラスの敷き詰め作業は、それぞれの責任者に任せて、葵はスルーズと採掘場の手の空いた女たちを連れて、隔離施設に泊まり込んでいた。
「気にすることはない。薬を飲むくらい、もう一人でも大丈夫だ。それよりあの者たちを助けてやってくれ。契約農場の取引はルーシーに頼んでおいたから、後顧の憂いはない。だから孔明、しっかり頼むぞ」
アナスタシアにそう言って送り出された葵に、文字通り「後顧の憂い」はなくなった。
それでも十万人近い患者達に薬を飲ませるのは簡単な事ではなかった。
十五歳以上を目安に、その症状によって、ビブラマイシンの与える数を一錠あるいは二錠をと定めていた。
年齢だけではない、十五歳に達していても体重五十キロに満たない者には一錠しか与えないよう指示していた。
年齢がそれ以下の場合は、初日こそ一錠与えたが、二日目以降は半錠与える判断を
それでもビブラマイシンが万民に有効な薬とは限らないし、未成年に有効なのかどうかも分からない。
(この薬の弊害による犠牲者が、出るかもしれない)
そんな思いをはらみながらも、放っておいたら死んでしまう施設の人達に、他の手立てはなかった。
久遠寺玲奈のくれた薬の短い注意書きだけが、ビブラマイシン錠
成人は初日に1回2錠を1日1回、または1回1錠を1日2回服用し、2日目から1回1錠を1日1回服用します。 なお、感染症の種類および症状により適宜増減されます。 必ず指示された服用方法に従ってください。
その短い文章を頼りに、命のやり取りをしなくてはならないのだ。
今まで逃げて生きて来た葵が、初めて立ち向かう現場がいきなりの修羅場だ。
個々の患者の症状も医学知識のない葵が判断しなくてはならなかった。
と言っても出来る判断は、初日に一錠を二回飲ませるか、二錠を一回飲ませるか、それだけだった。
注意書きにあるような、感染症の種類および症状による服薬の調整なんかも、殆どが手探りでの判断だった。
そして一番難しいのが、いつまで服薬させるかであった。
副作用についての記載はなかった。だが、きつい薬である以上処方を間違えれば副作用が出るのは必至だった。
かと言って経口を止めれば、耐性菌を作る事になりかねない。
その分からない指針を、アナスタシアが今、身を以て示してくれようとしているのだ。
昨日から始めているビブラマイシンの経口投与だが、大筋において重篤患者には顕著な効き目が見て取れた。
だがその一方で、二百人を超える死者が二日続け出ていた。
葵がビブラマイシンを与える以前の死者が百人前後だという事を考慮すれば、副作用で亡くなった者がいる事は否めなかった。
年配者や子供にその傾向が窺えた。
二日目からは皆一様に一錠の服薬と定めた。もちろん年少者は半錠だ。
難しいのは、その症状が病床によるものか、薬の副作用なのか、いずれの判断も出来ない事だ。
でも迷ってはいられない。肺ペストなら放置していれば二日か三日で危篤となるのだ。
薬の危険を周知した上で患者達に経口投与しているが、拒否権を持てない彼らの任意は、自ら引き金を引くロシアンルーレットに等しかった。
「死にたくないよ」と泣きながら頷く子供たちを見るのが辛かった。
それでも回復を見せてくれたらそれは喜びと変わったが、巡回時に息をしなくなった子供を見つけた時は、地獄に叩き落とされた思いだった。
寂しさの中で死んだのだろう、頬に涙の痕を見つけた時、葵はその子を抱きしめて、呆けたように座り込んでしまった。
「葵様…!」
駆けつけたスルーズが子供ごと葵を抱きしめた。
「葵様は、よく頑張りました。葵様のせいじゃありませんよ」
葵はスルーズの胸に抱かれたまま放心してしまった。
「葵様は休んでいてください。わたしが巡回いたしますから」
そう言って、息をしなくなった子供を葵から受け取った。
だが……。
(ここで、へこんではいられない)
葵の胸の奥から突き上げてくる思いがあった。
(アナスタシア様は、ずっと、この苦しみと闘ってきたんだ)
アナスタシアの真っ直ぐな瞳の裏に、貧困層の人達への強い思いがあるのだ。
(こんなに、辛く悲しいものを、一人で背負っていたんだ)
改めてすごい人だと思った。
葵はそんなお方に仕える軍師である。
(逃げてはいけない!)
葵は立ち上がると、スルーズを抱きしめた。
「ありがとう、スルーズ。それにゴメンね、へこんだりして」
「葵様…」
「ぼくはもう大丈夫だ。その子はぼくが安置所に連れて行くよ」
葵はスルーズから死んだ子供を受け取った。
「葵様は…」
スルーズが眩しそうに葵を見つめた。
「本当に変わられましたね」
その言葉だけ残してスルーズは隣の部屋に移動した。
葵達は巡回の途中なのだ。
「助けられなくて、ゴメンな」
葵は名も知らなかった少年にそう告げると、死体安置所足を向けた。
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