第31話 重篤のアナスタシア
「呼吸困難と頭痛を訴え、泡立った喀血と嘔吐を繰り返しています」
蒼ざめた顔のルーシーは淡々とした口調でそう話した。
葵もルーシーも宮殿の廊下を駆けていた。
「何という病気なんですか」
「ルシファーです。分かりますか?」
「死神…?」
「はい。まさに、その通りです。疫病にかかってしまわれたのです」
「まさか…アナスタシア様は…」
それには答えず、目に涙を浮かべ、口元を押さえながらルーシーは走っていた。
ルーシーに伴って訪れたのは、アナスタシアの部屋ではなく、皇室専用病棟の特別室だった。
皇帝ニコラスとミランダ王妃がベッドに横たわるアナスタシアに寄り添っていた。
その周りを帝医と治癒魔導師がアナスタシアを取り囲んで魔力治癒を行っている。
首を横に振る帝医に、ニコラスは両手で顔を覆っていた。
ルーシーに伴われた葵に気付くと、近付いて来たニコラスが葵の手を取った。
「
「皇帝陛下……」
だが、葵はニコラスから顔を背ける事しか出来なかった。
アナスタシアを助けたいのは葵も同じだ。
(あんな別れ方をしたままでは、嫌だ!)
しかし葵もどうしたらいいのか分からなかった。
気持ちが混乱していた。思考力が常時の半分にも満たなかった。
こんな時、最も頼れるのはスルーズだった。
スルーズはきっと今、アサシンスタイルで採掘現場にいるはずだ。
葵は黄色の魔石を額に当てた。
《葵様、何かありましたか?》
通じた。
葵は
〈どうすればいい?〉
《葵様、落ち着いて考えてください。冷静になって頂けますか?》
〈分かっているんだ、それは。でも、心が乱れて考えが浮かばないんだ〉
《葵様の記憶、いえ、知識と言った方が正確かな。それから考えて、その病気はペストじゃないでしょうか?》
〈ペスト……?〉
ルシファー(死神)と呼ばれるそれは、元居た世界で言う所の黒死病という事なのか。
《葵様、思い出してください。家庭教師で教え子だった
〈玲奈ちゃんのことを思い出す……?〉
久遠寺玲奈は名門の私立中学の三年生で、成績は優秀。両親とも大学病院の医師で、彼女も医師を目指している。
「葵先生、これもらってください」
家庭教師の折、玲奈は時々医薬品を葵に押し付けてきた。
「葵先生
「いらないよ。何に使うんだよ、これ」
「なかなか売ってないんだよ。この薬はなんにでも利くの。咽頭炎・オウム病・角膜炎・骨髄炎・コレラ・肺炎・ブルセラ症・扁桃炎・リンパ管炎・ペストなどなど」
玲奈にもらった薬は葵のリュックの、これまた玲奈からもらった、薬箱の中に押し込んでいたはずだ。
薬の名前は……確か……。
〈ビブラマイシンだ!〉
《思い出しましたか?》
〈ああ、思い出した。ありがとうスルーズ。キミはやはり頼りになるよ〉
《そんな事より、アナスタシア様の症状からして肺ペストのようだから、四十八時間以内に治療を施さないと大変なことになります》
〈そうだったな。ありがとうスルーズ。また後で連絡するよ〉
黄色の魔石を額から離すと、葵はリュックの中の薬箱を取り出した。
そしてゴチャゴチャと入った錠剤の中から、ビブラマイシンを探し出した。
「軍師殿……!? もしかしてそれはキミの居た世界の薬なのか?」
葵の手にする錠剤を目にしたニコラスが身を乗り出して聞いた。
「…ええ」
「なら、早くアナスタシアに飲ませてやってくれ!」
だが、ここにきて色んな懸念が葵の頭をもたげた。
(そもそもアナスタシアの病気が、本当にペストなのか?)
まったく違う病気なのかもしれない。だけど、それを検証しようにも、葵には医学の知識が殆どなかった。
「何をしている。早く薬を渡しなさい」
苛立つニコラスに葵は口を開いた。
「この薬はわれわれの世界の人間に処方されたものなんです。ですから、こちらの世界の人間に処方して、同じ効果が得られるとは限らないんです。きつい薬は毒にもなります。これがもしアナスタシア様に合わなかったら、毒を飲ますに等しいことなんです……。アナスタシア様に、更なる苦痛を与えるかもしれないのです」
そう言いながら、葵は己の非力さを痛感した。
「チッ……」
ニコラスは舌打ちをして俯いた。
「孔明……」
横たわっているアナスタシアが声を出した。
気が付いたのだ。
「薬を…わたしに…くれないか」
アナスタシアは小さな声で呟いた。
「アナスタシア様……でもこれには多くの危険が…」
「聞いていたよ…」
アナスタシアは目蓋を薄っすらと開け、頭を傾けて葵を見た。
「このままでは…どの道…助からないのだろ…? それなら…少しでも…助かる方に…賭けたいのだ…。わたしには…まだ…やらねば…ならないことが……。頼む、薬をもらえないか…」
そうなのだ。放って置いても助からない。それならば……。
「頼む…」
懇願するアナスタシアを見つめて、葵はゆっくりと大きく頷いて見せた。
「……分かりました」
葵も覚悟を決めた。
(もし、この薬が彼女の毒になったら、ぼくもこの薬を飲む)
処方箋の冊子を隈なく見てビブラマイシン錠百ミリグラムを二錠取り出した。
葵は帝位に委ねようとしたが、アナスタシアが葵の手を握った。
「キミが…飲ませてくれ…ないか」
「分かりました」
葵は小さく頷くと、アナスタシアの体を起こして、水の入ったコップを彼女の唇にあてた。
「少し含んでください」
アナスタシアが水を口に含んだ後、葵はビブラマイシン二錠をアナスタシアの唇の中に押し込んだ。
「さあ、もう一度水を、今度はタップリ飲んでください」
アナスタシアはゴクゴクと喉を鳴らせながらコップの水を飲み干した。
葵に出来るのは、たったこれだけだった。
「安静にして休んでください」
葵はニコラス達に気を使ってベッドを離れようとしたが、アナスタシアが手を離さなかった。
「孔明…何処にも…行かないで…くれ。何処にも…いくな」
言いながらポロポロと涙を流した。
「軍師殿。傍にいて上げて」
ミランダ王妃が葵にそう言った。
「孔明。わたしからも頼む。アナスタシアの傍にいてやってくれ」
ニコラスも涙ぐんでいた。
「アナスタシア様」
葵はミランダに差し出された椅子に腰を下ろした。
「ぼくは何処にも行きません。ずっとアナスタシア様の傍にいます」
「ありがとう…孔明……」
アナスタシアは静かに瞼を閉じた。
間もなく軽い寝息を立て始めた。
帝医と魔導師たちが顔を見合わせた。
「こんなに早く薬が効いたとは思えない。きっと、軍師殿が傍にいて、安心なされたのだろうな」
帝医はそう言うと葵の肩を叩き、魔導師と共に部屋を後にした。
「孔明。すまないが、傍にいてやってはくれないか。強がってはいるが、アナスタシアはすごく寂しがり屋なんだよ」
「ええ。存じています」
「軍師殿。アナスタシアを頼みましたよ」
ニコラスとミランダも部屋を出て行った。
アナスタシアの軽い寝息の他は、静寂そのものだった。
背後にいるルーシーの視線を何とはなく感じていた。
昨日の事を
「開発地区のアランに聞いたんだが、疫病は貧困層よりこっちではうつらないと聞いていたんだけど」
「ルシファーの事ですか? ええ、理由の程は分かりませんが、ここにいる限り発病はしません。でも、外で発症した者がここに戻って来ても、もうそれは治りません。わたしは侍女長になってまだ一年なんです。それまで侍女長をしていたエミリア様が、そのルシファーでお亡くなりになられたのです。丁度この部屋で、アナスタシア様が三日三晩寝ずの看病したにもかかわらず、エミリア様は他界されたました。アナスタシア様はそのことをとても悔やんでおりました。当時アナスタシア様は公務に追われていて、貧困層の仕事をしばらくエミリア様にお願いしていたのです」
「エミリアさんは貧困層でルシファーに感染したんだね」
「はい。くしくも昨日がエミリア様の命日だったのです。葵様もお考えがあってのこととは思いますが、あのタイミングであんなことを言われては、アナスタシア様はきっとエミリア様を思い出されていたに違いありません。あれからも、ずっと塞ぎ込んでいましたから……」
葵は何も言い返せないでいた。
薬が効いたのかどうかは分からない。
死んだように眠るアナスタシアの顔は、何処か安らかだった。
葵はアナスタシアの右手を両手に包み込んだ。
沢山の物を背負い、いつも気丈にふるまっている、繊細で馬鹿みたいに心優しきこの皇女の事を、葵は愛しいと思った。
(アナスタシア様……どうか、帰って来てください)
祈りとは、こう言う事だと初めて知った。
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