第25話 スルーズの涙





「スルーズ。こんなことになって申し訳ない」

 会場を出た後、宮殿に向かう廊下でアナスタシアがスルーズに詫びた。

「アナスタシア様、おしになってください。皇女殿下が無闇に臣下に頭を下げるものではありません」

「しかしスルーズ…」

「わたしは孔明様のサーバントであることに変わりはありません。皇帝陛下も仰っていたじゃないですか。孔明様はアナスタシア様に従属されたのです。孔明様の主となった皇女殿下はわたしにとっても主にございます。わたしはアナスタシア様のサーバントでもあるのです」

 葵のサーバントである事は譲れない。でも葵の立場を考慮すればアナスタシアのサーバントも兼任した方が得策だと思った。

「確かに、理屈ではその通りだ」

 アナスタシアは少し考えを巡らしているようだった。

「それじゃこうしよう。これからは孔明もわたしと行動を共にすることになるから、表向きはわたしのサーバントを名乗ってくれたらいい。その実は今まで通り孔明を支えてやってくれ。それでどうだろう」

 アナスタシアは目をキラキラさせてスルーズを見つめた。

 スルーズは、眩しいと思った。

「アナスタシア様がそれでよろしければ」

「大丈夫だ。自分の身ぐらいは自分で守れる。守ってやらねばならないのは、むしろ孔明の方だ。違うか?」

「おっしゃる通りですね」

 スルーズはアナスタシアにつられて笑った。

「キミは確か、アサシンと言ったな」

「はい」

「だからいつも肩口まである帽子を被り、黒い眼鏡をして顔を隠しているのだな」

「はい」

「今すぐとは言わないが、いつの日か、わたしのことを真に心許せる相手だと思った時、キミの素顔を見せて欲しい。もちろん強制ではない。これはお願いだ」

 何処までも真っ直ぐに相手を見つめるアナスタシアの黒い瞳だった。

「承知いたしました。それでは失礼いたします」

 アナスタシアを部屋の前まで送り届けると、スルーズは一礼して背中を向けた。

 スルーズはやはりアナスタシアを苦手だと思った。

(葵様はきっと、ご自分では気づいていらっしゃらないと思うわ)

 悲しいけど、葵様の目は、いつもアナスタシアを追っていた。

 葵はアナスタシアに惹かれていた。

 出会ったばかりの頃、葵の心には色がなかった。

 怒りも、喜びも、悲しみなど……どこかに感情を置き忘れたような人だと感じた。

 生きていく事さえどうでもいいといった風だった。

 そんな葵がアナスタシアと出会って変わった。

 今までどうでもいいと投げ捨てていた自分の心に、葵は目を向けようとしていた。 

 そしてそれは葵だけではなかった。

 アナスタシアの瞳も葵を追っていた。

 誰かと話している時も、食事をとっている時も、離れている葵の横顔をいつも見つめていた。

(お二人は…出会ってしまったのですね……)

 スルーズは溜息を吐かずにいられなかった。



 スルーズは葵に告げていない事があった。

 ロマノフ帝国の跡継ぎ問題について、皇帝ニコラスの心の内をスルーズはすでに覗き見ていた。 

 嫡男だったトーマス・ミラーの戦死によって、たった一人の直系の血脈であるアナスタシアが唯一の皇位継承となっていた。

 ロマノフ帝国二千年の伝統の中で皇女が帝位に就くのは初めての事だ。

 その中で、帝国に延々と継承されている黒髪・黒瞳の血統の存続を重んじる中で現れた葵の存在は、ニコラスにとって千載一遇のチャンスだったに違いない。

 ニコラスは葵を真に軍師として要しいるわけではないのだ。 

 葵の事は黒髪・黒瞳の血統を守るための子種としか見ていなかった。

 とは言え、いくら帝国の存続のためでも、好まざる相手との契りを強要するのは、娘を愛する父として心が痛んだ。

 どうすればアナスタシアの心がその男に向くだろうか。

 およそ、人の世の父親とは相反する悩みを抱えざる得なかった。

 が、案に反して、アナスタシアは葵に興味を持ち始めていた。

 葵が帝都に来て日は浅いが、アナスタシアの彼に向ける眼差しに、ニコラスはホッとしながらも、自分の下を離れて行く寂しさも感じた事だろう。

 それでも黒髪・黒瞳の男が、アナスタシアの好意の対象であるのなら、帝位継承の安寧と、アナスタシアの女としての幸せの、そのどちらも叶える事が出来るのだ。

(アナスタシアの母には可哀そうなことをしたが、アナスタシアには、その分幸せになってもらいたい)

 ニコラスの切なる思いが伝わった。


(となると、いずれわたしは邪魔になってくる)

 軍師孔明のサーバント、とスルーズは答えてはいるが、ニコラスはそれを全面的に信じてはいないだろう。

 この大会でスルーズの実力が知れた以上サーバントである事は一応認められたようだが、軍師の恋人疑惑は、本命から外れていなかった。

 ともあれ、今は表立った行動に出るとは考えにくい。

 野放しにしていても害はないと踏んだのだろう。

 今の所、何か事を起こす気配は感じられなかった。


(葵様にはご報告するべきなのかもしれない……)

 スルーズの客観的思考はそう告げていた。

 だけど、スルーズの女としての思考がそれを阻んでいた。

(アナスタシア様がご自分のお相手として選ばれている事を知ったら、葵様はどう感じるだろう…)

 葵だって悪い気はしない筈だ。

 いや、率直に言って葵には拒む理由はなかった。

(だって葵様は、アナスタシア様の事が……)

 アナスタシアのその美貌に、真っ直ぐな心に、見つめ合える瞳に、彼女の全部に……スルーズは嫉妬していた。

 バルキュリアであるスルーズは同時にサキュバスでもあった。

 二人の姉も気に入った男をその魔性の瞳で虜にせしめて、身ごもったのだ。

 スルーズにもその能力は備わっている。

 だが葵にはそれは使えない。

 魅了する前に共に気を失ってしまうのは実証済みだ。

 それにスルーズは葵にサキュバスの力を使って籠絡したいのではなかった。

 スルーズはただ葵と見つめ合いたかった。

 魔力や特殊能力ではなく、アナスタシアのような自身の魅力で、振り向いて欲しいのだ。

 葵とは読心魔法で心で会話ができるし、相手の本音を聞く事も出来る。

 理解に無駄がない。

 誤解も生まれない。

 これ以上ない効率のいいコミュニケーションと言えるだろう。

(だけど……)

 相手の心が分からないから、伝えきれない思いもあるだろうし、誤解もすれ違いもあるだろう。

 それでも、互いの心の底まで知り尽くすよりも、知りえないからこそ、まなこと言葉を以て、懸命に伝えようとする、その不器用さがいとおしくも尊いのだ。

 効率が悪くても構わない。そのもどかしさの中で、悩み足搔あがきながら、大切な何かをはぐくんで行けるとしたら……。

 最貧民集落で見せた、声を詰まらせ涙しながら訴えるアナスタシアの姿が、スルーズの胸に深く刻み込まれていた。

 とてもかなわないと思った。

 溢れんばかりの感情を以て、懸命になって相手に気持ちを伝えようとするアナスタシアをスルーズは羨ましいと思った。

(わたしだって、それが出来たら…)

 読心魔法とかシンクロ魔法とか関係なく、普通の男女として目と目で見つめる合う事が出来たら……。



「ロゼ、帰って来たのか」

 スルーズの部屋の前で葵が立っていた。

「葵様……」

「優勝おめでとう。多分キミが勝つことは分かっていたよ。部屋に入っていいかな? 渡したいものがあるんだ」

「は、はい」

 スルーズは部屋の鍵を開け葵を招き入れた。

 部屋に入った葵はリュックの中から紙袋を取り出して、スルーズの前に差し出した。

「優勝祝いだよ」

「わたしにですか? ありがとうございます。開けてもよろしいですか?」

「ああ、いいよ」

 袋に手を入れると、フサフサとした滑らかで柔らかな感触があった。

 取り出してみると、亜麻色のカツラだった。

「こ、これは……」

「ほら、先日最貧民街に行っただろ? 一人で歩いている時、膝下まで髪を伸ばしている十歳くらいの女の子がいてね。何でそんなに伸ばしているのかと聞いたら、髪を切ってくれる人がいないからと言ったんで、手持ちの金貨三枚で肩から下の髪を譲ってもらったんだよ。それをカツラ職人に頼んで仕立ててもらったって訳だよ」

「金貨三枚も!?」

「えっ? 多かったのかい?」

「相場は銀貨五枚ですよ。つまり金貨半分でよろしかったのに。でも、どうしてカツラをわたしに?」

「ずっと気になっていたんだよ。いつも帽子を取れないでいるから辛いだろうってね。カツラにすれば少しは窮屈な生活から解放されるんじゃなっいかと思って」

「葵様…わたしのこと、気を掛けていてくれたんですね」

「それともうひとつある。これはぼくの友人の物なんだが、もう返す当てもないのでキミに使ってもらおうと思うんだ」

 葵が手渡してくれたそれは青色のカラーコンタクトレンズだった。

 使い方は何となく理解していたし、葵の友人と言うのが山口桐葉なのも知っていた。

「これでキミはサングラスからも解放されるよ」

 スルーズは言葉が出なかった。自分でも分かる程に肩が震えていた。

「それに、最近キミは読心魔法で話しかけてくれないから、少し気になっていたんだよ。ぼくのしたことで何か気に障ったのなら、話してくれないかな? 悪い所は直す……ん? ロゼ?」

 スルーズは胸一杯になった気持ちをぶつけるよう、葵に抱きついた。

(わたしのことも考えてくれていたんだ……!)

「ごめんなさい、葵様……」

 スルーズは葵の前で初めて涙をこぼした。

「ロゼ? どうしたんだい?」

「なんでもありません。本当に、なんでもないの……」

 涙が止まらなかった。

「葵様のプレゼントが嬉しいだけなんです。本当にありがとうございました。とても、とても、嬉しいんです……」

 いつまでもこうしていたいとスルーズは願った。

 そして読心魔法がなくても、葵とは上手くやって行ける。

 きっと大丈夫だ、とスルーズはそう信じる事にした。

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