第18話 皇帝ニコラス・ダリ・ロマノフ
帝都エルミタージュに到着したのはその日の夕刻だった。
歩兵に合わせて行軍するので十二日の行程となった。
馬車で五日。走竜でも三日の距離だ。
馬車の窓越しにエルミタージュの五十メートルの城門が見えた。
停止する事なく、馬車は開門された城門の下を通り抜けた。
(ようやく到着したのか……)
「大丈夫か、孔明」
「ええ……何とか生きてます」
アナスタシアが心配気に葵の顔を覗き込んだ。
乗り慣れてない馬車に葵は酔ってしまっていた。
「皇帝への拝謁は明日に伸ばしてもらう。今日は部屋でゆっくり休んでいてくれ」
「申し訳……ありません」
「いらぬ気づかいだ。それよりキミの体の方が心配だ。キミの部屋に帝医を向かわせるから、それまで辛抱してくれないか」
「ありがとう……ございます」
男言葉を使い強い口調で話すアナスタシアだが、その心はとても繊細だった。
(いい人過ぎる……為政者には向かないだろうな)
そう思わずにいられなかった。
馬車が止まると、アナスタシアとスルーズに支えられながら葵は帝都の石畳に降り立った。
見上げると壮大と言わざる得ない絢爛豪華なエルミタージュ宮殿がそびえ建っていた。
「アナスタシア様、いけません」
ルーシーがアナスタシアの前に立った。
「皇太女殿下がなさる行為ではありません。わたしにお任せください」
ルーシーにそう言われたアナスタシアは、渋々といった風にルーシーと交代した。
「きっと皇帝陛下も心配なされております。お顔を見せてあげてください。後はわたし達に任せてもらえば大丈夫ですから」
「……分かった」
アナスタシアは一度背を向けたが、再び振り返った。
「孔明。
手短に言い、
葵が用意されたのは第二宮殿にある客室だった。
「ルーシー様、ありがとうございます」
葵をベッドに寝かせた後、スルーズがルーシーに礼を述べた。
「スルーズ殿、軍師殿のことよろしく頼みましたよ」
それだけ言うと部屋を出て行った。
葵も一言礼述べたい気持ちはあったのだが、体が言う事を聞いてくれなかった。
「葵様、大丈夫ですか?」
スルーズの心からの心配が葵に伝わった。
「単なる乗り物酔いだよ。ゆっくり睡眠を取れば治るよ」
「悔しいです。わたしが治癒魔法を使えれば良かったのに」
「スルーズ。キミが気に病むと、ぼくも辛いよ。気にしないでくれ」
「はい……」
トン・トン・トン
ドアを叩く音がした。
「どうぞ」
スルーズがが答えるとドアが開き、頭に被り物をした四十代半ばくらいの立派な身なりの男性が入って来た。
(アナスタシアが言っていた帝医か?)
「そなたが諸葛亮孔明か?」
と尋ねた。
「はい。少し体調が悪いので、このまま失礼させてもらいますね」
「ああ、構わんよ。そなたの治療をしに来たのだから」
男は穏やかな笑みを浮かべてベットに横たわる葵に近づいた。
(やはり帝医なのか)
葵はそう思った。ところが……。
《葵様…!!》
冷静なスルーズには珍しく張り詰めた声が葵の心に響いた。
〈どうした?〉
《この御仁……皇帝ニコラス・ダリ・ロマノフ様です!》
〈えっ?!〉
《慌てないでください。葵様はお顔をご存じないのです。正体を知っていたら逆に怪しまれます。普通になさってください》
〈分かった。普通だね〉
「皇女殿下が仰っていた、帝医殿ですね。よろしくお願いいたします」
「これはご丁寧に。では、仰向けになってゆっくり息を吸って止めてくだされ」
「はい」
葵は男の言われるままの姿勢を取った。
男はポケットから青色の魔石を取り出すと、握った右手ごと葵の額に軽く押し当てた。
葵の目の前で、淡く蒼い光が揺らいで見えた。
僅か数秒だった。
「こ、これは……!」
その男・ニコラスが掠れた声を出した。
「どうかいたしましたか?」
「い、いや、気分はどうかね? 回復しているのかね?」
少し慌てたような、どうにも頼りない口調だった。
だが、気分はスッキリと晴れていた。
葵はベッドの上で起き上がった。
「ありがとうございます。スッキリしました。でも、随分早い治癒魔法ですね」
「驚いているのはこっちだよ。今の魔法は通常数分かかるのだか、どうしてか分からないが、効き目が早すぎたのだ」
(成程、そういうことか…)
葵のシンクロ魔法が発動して治癒効果を早めたようだ。
《話してあげたらいかがですか? それくらいは知られても問題ないでしょう》
〈キミがそういうなら大丈夫だろうね〉
「シンクロ魔法……。あまり知られていないユニークスキルだな」
ニコラスはその魔法を知らなかったようだ。
葵自身まだよく分かっていない事を告げた後、その魔法の名前をミシェール・ボルジュから教わったと告げると、ニコラスは目を見開いた。
「ミシェール・ボルジュ……! S級魔導師ロベス・ボルジュの娘のことだな」
「ご存じでしたか」
「成程、ロベスの娘なら魔法について詳しい筈だ」
と言っておいて、少し離れた所に立つ、ガーデニングキャップとサングラスを付けたスルーズに目を向けた。
「彼女が、ミシェールかな?」
「いえ、彼女はスルーズと言って、同じ世界から来たぼくのサーバントです」
「サーバント? 彼女はキミの何なのだ?」
「ぼくの用心棒です。アサシンなので常に目元は隠していますが、剣を持てば無双です」
と顔を隠している言い訳も添えて紹介した。
「ほお」
ニコラスの目がキラッと光った。
「近々マーシャルアーツ・カンパテーションが開催されるから、それに参加してみたらどうだろう。賞金も出るぞ」
「皇帝陛下!!」
とドアをノックもせずに飛び込んで来た者がいた。
アナスタシアだ。
「帝医殿が広間にいたのでよもやと思いここに来てみれば…やはりそうでしたか」
アナスタシアのその言葉を合図に、葵とスルーズは床にひれ伏した。
「皇帝陛下とは知らず、ご無礼の数々、申し訳ありませんでした」
「いやいや、気にする事はない。たった一つしかないわしの魔法だ。たまには発動しないと腕が鈍るというのに、皆が遠慮して治癒させてくれぬのだ」
そう言って笑うニコラスの前をアナスタシアが通り過ぎた。
「孔明、元気になったのだな。よかった」
ひれ伏す葵の前で立ち止まり、安心したように小さく笑みを浮かべた。
「アナスタシア様のご配慮と皇帝陛下のご慈悲に、感謝の意を表します」
「気にするな。キミが元気ならそれでいい」
ニコラスが咳払いをした。
「マリー、えらくご執心だな」
「陛下! そんなことはございません! ご戯れはよしてください」
目を大きく見開いて慌てたように言うアナスタシアに、ニコラスは軽く笑った。
困ったようなアナスタシアの顔に葵も小さく失笑してしまった。
「なによ、孔明まで…」
その一瞬少女の言葉遣いと表情を見せた。
が、すぐ顔を引き締めた。
「我が軍師の心配をするのは当たり前だ」
ニコラスはそんなアナスタシアの様子を穏やかな顔で見つめていた。
(子を思う親の顔ってこんなのかな)
振り返ろうにも、葵は両親がどんな顔をしていたのか、それさえも思い出せないでた。
(皇帝としての資質は分からないが、アナスタシア様にはいい父親何だろうな)
《そればかりではないと思います》
とスルーズが入って来た。
《葵様を気に入られたからですよ。ご自分もですが、アナスタシア様がそうであることにホッとされているようですね》
〈どういうこと?〉
少し間があった。
《葵様は何でもご理解いただけるのに、そういうことだけは苦手なようですね》
〈だからそれは……スルーズ?〉
スルーズはそれには答えないで、葵の間合いから後ろに下がった。
アナスタシアが葵に手を差し伸べた。
「帝都エルミタージュへようこそ。わが軍師孔明」
葵は自分を真っ直ぐに見つめるアナスタシアの手を取ると、立ち上がった。
(この人はどうして、こんなに真っ直ぐ人を見つめることが出来るんだろう)
その黒い瞳に葵はこれまで感じた事のない思いが込み上げていた。
でもそれが何なのか葵はまだ気づいていなかった。
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