第16話 カフェオレとミルクティ
和睦から二日後、催涙ガスの負傷者の回復を待って、アナスタシアは全軍を以てマイストールへの入城を果たした。
ゴーランドの息のかかった者達が出て行った事でかなりの空き部屋はあったが、三千人の部隊全員の収容には至らず、千人ほどが城内の広場にて、交代で野営する事になった。
「一部の住民に、しばらくの間シュバルツの森のログハウスに移ってもらって、部屋を開けてもらいます」
シャルルはそう提案したが、アナスタシアは住民に不便を掛けたくないと拒否した。
そしてマイストール入場の際、
「略奪や横領。婦女子へのわいせつ行為は断罪とする。肝に銘じて行動するように」
アナスタシアは兵士全員の前で警告した。
ともあれ、アナスタシアに従軍した兵士達の素行は良く、懸念されていたトラブルは全く起こらなかった。
「アナスタシア様は兵達の人望が厚く、また御自身も兵士たちを大変信頼しているようですね。将と兵卒との良き関係が窺われます」
「キミの才覚は軍略だけではなく、その舌先も大したものだな」
葵は苦笑いをした。
「手厳しい評価ですね。それは一応、誉め言葉と受け取っておきますよ」
「い、いや……」
アナスタシアは少し気まずいような顔を見せた。
「すまない、孔明。気分を害する言い方だった。折角キミに褒められたのに素直に受け止められなかったのだ。悪く思わないでくれないか」
アナスタシアは真っ直ぐな性格の持ち主だと葵は知っている。
今の言葉も嫌味ではなく、照れ隠しの一種だったのだろう。
葵は笑って受け止めた。
今宵はアナスタシアの野営の番だった。
ルーシーも止めたし、シャルルも自分の屋敷の一番いい部屋を用意すると言ったのだが、アナスタシアは皇女の特権を振りかざすのを嫌ったようだ。
「皆と同じようにしたいのだ。わたしを特別扱いしないでくれ」
凛とした眼差しでそう言われては誰も逆らえなかった。
でもその後でアナスタシアは、葵の前で十七歳の女の子の顔を覗かせた。
「本当のところ、野営は初めてなんだ。何だろう。ワクワクするのだ」
と好奇心一杯に目をキラキラさせていた。
夜になるとアナスタシアの従者が葵を呼びに来た。
「粗末な物しか用意できませんが、お食事にいらしてくれませんか?」
「伺いましょう」
葵はアナスタシアの誘いに応じた。
アナスタシアがテントを張っている教会前の広場に来てみると、帝国軍兵士達が星空の下で火を囲んでバーベキューをしていた。
「来たか、孔明。肉と魚と野菜がある。どれでも好きなものを食べてくれ」
相変わらず男装衣のアナスタシアが、串に刺した焼き立ての食べ物を、木皿に入れて持ってきてくれた。
(男装の麗人とは彼女のことだな)
飾らない女の色気を葵は感じていた。
「恐れ入ります。皇女様にそのような接待をしてもらっては…」
「またそのようなことを言う。皇女様は止めてくれと言っているだろ」
アナスタシアは頬を脹らませた。
「分かりました。遠慮なく頂きます。アナスタシア様」
「それでいい」
とアナスタシアは葵の前で初めて満面の笑みを浮かべた。
葵はアナスタシアから頂いた木皿を手に取ると、教会の階段に腰を下ろした。
「隣に座っていいだろうか?」
アナスタシアが葵の隣りに目をやった。
「ええ、どうぞ」
「では、失礼する」
右隣にアナスタシアが座った後、葵は背中のリュックに手を突っ込んでまさぐった。
「これいかがですか?」
と葵はリュックから取り出したペットボトルを差し出した。
「これは? 飲み物なのか?」
「はい。ぼくのいたの世界のミルクティという飲み物です」
葵はペットボトルのキャップを開けてからアナスタシアに手渡した。
少し戸惑いながらも、アナスタシアはその形のいい唇をペットボトルの口に添えた。
「美味しい……!」
アナスタシアの素直過ぎる反応に葵はつい笑ってしまった。
「な、何が可笑しいのだ」
アナスタシアは頬を赤らめて、照れたようなそれでいて困った顔をした。
生真面目なアナスタシアらしい反応だった。
「いえ、失礼いたしました」
「でも、これは本当に美味しい。わたしが一人で頂いていいのか?」
「どうぞ。構いませんよ」
葵が元居た世界で、山口桐葉のために買ってリュックに入れていた物だった。
間もなく、
「葵…いえ、孔明様。ここにいらしたんですか? 探しましたよ」
スルーズが少し尖った物言いをした。
そしてアナスタシアに軽く会釈をした後、彼女の飲んでいるそれを見て、葵に流し目を送った。
《ズルいですよ。アナスタシア様ばかり》
〈大丈夫だよ、ロゼ。もう一本あるよ〉
葵はもう一本あったミルクティをリュックから取り出して、スルーズに手渡した。
「ありがとうございます」
スルーズの表情が和らいだ。
「いただきます」
《あっ、これ美味しい》
スルーズも年頃の少女の反応を見せた。
〈キミもそんな表情をするんだね〉
《葵様は、意地悪ですね》
スルーズは拗ねた仕草を見せながらも、葵の左隣に座った。
(確か…市販のクッキーがあったな)
葵はもう一度リュックの中をまさぐり、小さなクッキーの箱を取り出した。
賞味期限を確認した後、箱を開けた。
「アナスタシア様。ロゼ。どうぞ食べてください」
「なんだこれは? 食料なのか?」
アナスタシアが好奇の目を向けた。
この世界の住民には馴染みがないようだ。
「クッキーなんですね」
とスルーズ。
葵の過去の記憶を共有するスルーズに説明はいらなかった。
「アナスタシア様。召し上がってください」
儀礼上、葵はアナスタシアを優先した。
「クッキーというお菓子ですよ」
「頂いてもいいのか?」
「はい」
「それではひとつ」
とアナスタシアはクッキーを摘まみかけたその手を一度止めて、スルーズに目をやった。
「スルーズ、キミも一緒にどうだ。キミの世界の懐かしい味なのだろ?」
「はい。それではご一緒に」
アナスタシアとスルーズは、葵の膝の上に置いてあるクッキーに手を伸ばした。
そして、
「美味しい!」
ほぼ同時に声が漏れた。
「クッキーとミルクティは相性がとてもいいんですよ。試してください」
葵が促すと、アナスタシアとスルーズはクッキーをかじった後、ミルクティを飲んだ。
「本当だ。クッキーとミルクティーは最高だ」
「おっしゃる通りです。わたし、これ大好きです」
「わたしもだ。こんなに甘くておいしい食べものは初めてだ」
アナスタシアとスルーズは、間にいる葵の事などすっかり忘れたように、ガールズトークモードに入っていた。
(この二人はきっと、いい友達になれるだろうな)
スルーズが誰かと楽し気に話している姿を見るのは初めてだった。
アナスタシアの事はよく分からないまでも、スルーズの読心魔法とシンクロした時の印象では、笑顔など見せないのではないかと思える程に彼女の心はいつも張り詰めていた。
(アナスタシア様もきっとこんな笑顔は久しぶりなんだろうな)
宿命を背負った二人がこんな風に出会ったのも、これもまた宿命なのかもしれない。
駆けてくる足音が近づき、アナスタシアの前で止まった。
「アナスタシア様、
血相を変えたルーシーがそう言い、葵に睨みを利かせた。
「孔明殿。あなたはまだ正式に軍師と認められた訳ではないのです。アナスタシア様を勝手に連れ出されては、極刑だってあり得ますよ」
「よさないか、ルーシー。孔明はわたしが招いた客人だ。取り敢えずキミもこれを頂くといい。落ち着くぞ」
アナスタシアが差し出す最後の一切れを、ルーシーは眉を
「美味しいぞ」
「た、食べるんですか?」
「まずは、飲み物でもどうですか?」
ミルクティはもうないので、葵のお気に入りの缶カフェオレをルーシーに手渡した。
開け方の分からないルーシーに代わって葵がプルトップを開けた。
甘い香りが拡散した。
アナスタシアが隠せない興味を
「これは何だ? ミルクティとは違うようだが?」
「カフェオレです。ぼくはこちらの方が好きですが」
「ほお……これは、いい香りですね」
香りに誘われるよう、ルーシーは唇を寄せた。
「お、美味しい…! 何なんですかこれは!」
一口飲んだ後、ルーシーは缶カフェオレを改めて眺めた。
続いてクッキーを頬張ると「言葉には出来ない」と言わんばかりに目をウルウルさせていた。
その後アナスタシア達三人は、ミルクティーとカフェオレを交換して飲み比べて、互いに感想を言い合ったりしていた。
(まるで女子会だな)
葵は小さく笑った。
「後は皆さんで楽しんでください」
葵は最後の一つとなったスナック菓子を三人に預けると、何か言いたげなアナスタシアを残して席を立った。
(和やかな雰囲気だな)
葵はバーベキュー会場となった教会の広場を見回した。
アナスタシアの兵だけでなく、いつの間にかマイストールの住民も何やら持ち寄ってバーベキューに参加していた。
酒が入って、無礼講とばかり賑やかだったが、羽目を外す者はいなかった。
「まるでお祭りだな」
とシャルルが隣に立った。
「悪くない雰囲気だな。このまま全て丸く収まればいいのだが」
「ああ……ぼくも、そう願うよ」
「そう…だな」
何か付け足したい言葉はあったようだが、シャルルは敢えて言葉にはしなかった。
きっと葵と同じ胸の内だっに違いない。
(このまま上手くいくのだろうか)
アナスタシア兵とシャルル兵が、肩を並べて談笑している様子を眺めながら、これがつかの間の平和でない事を、葵は心より願った。
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