夜風に秋を感じる頃に

鏡水たまり

第1話

 僕は「虚無」と暮らしている。サッカーボール大の真っ黒な生き物のようなもので、いつも床から二、三センチ浮いている。

 僕がどうやって虚無と出会ったかというと、虚無が道端に捨てられているのを拾ったとかではなく、ある日僕の体から出てきたんだ。そういえば、虚無が僕の体から出てくる二週間くらい前に資格試験の模試が返ってきて、合格がE判定だった。それからすっかりやる気をなくしてしまって、僕は頑張ることに疲れてしまった。ちょうど休日だったその日も、朝起きて、最低限の身支度をして、それからは何もする気になれなくて、ベッドに座ってぼーっとしていた。

「せめて誰か側にいたらな」

 僕は、いたこともない恋人を想像してみた。さらりとした、長い髪でふんわり笑う。きっと僕を優しく励ましてくれる。そんな夢はすぐに弾けて、口からは大きなため息が出た。その僕の勢いのないため息に合わせて、胸のあたりからころりと虚無が出てきたんだ。

 その時から僕はこの不思議な生き物のようなものと暮らしている。



 今日は運悪く、休日だ。出勤日は心を空っぽにして仕事をしていたら、上司に怒られたり、客に文句を言われたり、同僚に無視されたり色々あるけど、時間は過ぎていく。前はできるだけ早く帰って、資格試験の勉強をしていた。だけど、あれからやる気のない僕は仕事をテキパキとこなすことなく、なんとなく仕事をして過ごしている。そうして家に帰ると、一日は終わる。

 問題は今日みたいな休日。もう、なんのやる気もない僕は、日が暮れて明日になるのをただ息をして待っている。クーラーで締め切った部屋はより一層重苦しい空気を醸し出している。

 だけど、虚無が現れてからは、僕の休日は息をすることの他に、虚無を観察することで時間を潰すことができた。虚無は常に二、三センチ浮いているのもあってか、常に上下にふわふわ漂っている。そして時たま部屋の隅に音もなくささっと移動したり、天井付近まで飛び上がったりしている。要するに見飽きないのだ。


 今日も虚無の動きをぼーっと見ていると、前触れもなしに、虚無が部屋の隅に向かって移動した。虚無の向かった方向に視線を滑らすと、部屋の角に指先くらいの大きさのホコリがあるのを見つけた。そういえば掃除してないな。そう、気づくけど、今から掃除をしようという気は起こらない。そんなふうに虚無を見ていると、虚無は、髪の毛も入り混じってる汚いそれにひっつくように近づいた。

「汚いよ」

 僕は、虚無に向けて声をかけた。すると虚無は、ふわんとホコリをつけたまま回転した。そして、僕はホコリと向かい合った。そしたら虚無にひっついたホコリがどんどん小さくなって、なくなった。


「え」

 僕は、思わず声を出して驚いた。虚無は、ぽよんぽよんと二回跳ねた。そういえば、後で掃除しようと思っていた食べこぼしや、排水口がきれいになっていることを思い出した。毎日をただ消費するだけで時間の感覚が鈍くなっていたから、気にしてなかったけれど、そういえば虚無が現れてから掃除をしていないのに不快に感じない。

 もしかして、さっきのホコリみたいに虚無が?

 そう、考えを巡らせていると、虚無は声をかけられたからか、僕の足元まで近寄ってきていた。僕は寄ってきたし、なんとなく手を伸ばしてみた。

「ふわっふわぁ」

 僕は下ろし立てのタオルの手触りが一番好きなんだけど、虚無の手触りはしっかりと厚みのある下ろし立てのタオルのような手触りだった。

 僕は少し、虚無に愛着が湧いた。

 僕が、その手触りに浸っていると、虚無がまたひゅーっと机の上に行った。机の上には昨日食べっぱなしの弁当が、残飯と共に残っていた。虚無はまず蓋に近寄った。そうして虚無が蓋に触れたかと思うと、蓋がさっきのほこりのように小さくなっているではないか。

「まった!」

 僕が思わず鋭く声を上げると、虚無はまた、そのどこが正面かわからない体をくるりと回転させた。そうして、蓋と僕は向かい合った。

「それはペッしなさい。僕がご飯あげるから」

 そう言うと、虚無は蓋を机に落とした。やっぱりあそこが口なのか? 食べてたのか? と、疑問は尽きることがない。

 机の上には形はそのまま、だけど一回り小さくなった状態の蓋が残っていた。



 僕は、冷蔵庫を開けた。そこには飲みかけの飲料類の他には、ハムが一パックしかなかった。僕は、二枚だけを残し、残りを皿に入れ虚無の前に置いた。

「ほら、これを食べるんだ」

 虚無は、じっとこちらを見ていた。しばらく様子を伺っていても虚無が食べる様子がないので、僕は自分の分の食事を用意することにした。夕方なのに今日はまだ一食も食べてないことを思い出したのだ。

 冷蔵庫には何もなかったので、棚から即席麺を出す。鍋に湯を沸かし、麺を入れた後、残していたハムを二枚のせた。火から下ろし、段ボールで鍋敷の代わりを作り、その上に鍋を置く。割り箸を割り、食べようとして、虚無がまだ動いた様子がないことに気づいた。

 僕は自分のハムを一枚箸で摘み、虚無に見せるように食べた。そうすると、虚無は僕が食べるのをまるで待っていたかのように、ハムをどこかわからない口に咥えた。そうしてハムは他のホコリや弁当の蓋のように、まるで画像の縮尺を小さくするように音もなく小さくなって、なくなった。

虚無がハムを食べる様子をじっと見る。何度見ても、小さくなって虚無に食べられていく様子は不思議だ。そんなふうに思っていたが、いつまで経っても虚無が微動だにしない。

 いつも同じ位置にいてもふわりふわりと微妙に動いているのに、こんなに静止しているのは初めて見たんじゃないか……

 突然、虚無が飛び跳ね始めた。

「虚無、ど、どうしたんだ」

 三十センチ以上の大ジャンプを続ける虚無に、僕は驚いた。そのまま連続して十数回飛び跳ねたかと思うと、虚無は二枚目のハムを秒で食べた。まるで吸い込まれるような速さに、僕はまた驚いた。

 そして、皿には三枚目のハムだけが残った。虚無はまた飛びつくように咥えようとしたが、そのまま停止ボタンを押したように固まっていた。最後の一枚だというのに気付いたからなのだろうか? やがて、ゆっくりハムを咥え、味わうようにゆっくり食べていた。

 僕は、虚無が最後のハムを食べ始めたところで、ようやく虚無の観察をやめて、自分の分を食べることにした。麺をすすると、それは出来立ての、舌が火傷するんじゃないかと思うほどの熱さではなくなっていた。


 僕が中身を半分ほど減らしたところで、虚無がハムを食べ終えたようで、僕に擦り寄ってきた。よっぽどハムが美味しかったのか、何度も何度も体を僕に擦り付け、喜びを僕に伝えてくる。

ハム数枚でこんなにも喜んでくれるなんて……

 これからはちゃんと僕がご飯を用意してあげよう。僕は自分の腕や足に擦り付けられる、ふわふわのタオルの感触を享受しながらそう心に決めた。



 また、休日がやってきた。僕は先週と同じように、ベッドに座って時間が経つのを待っていた。

あの日から、虚無に食事を用意するようになった。と言っても、僕の分を少し分けているだけなんだけど……虚無は気付くとホコリを食べようとしたり、ゴミを食べようとしたりするので、僕はその度に止めていた。そうすると、次第に虚無も理解したのか、水曜日あたりからホコリやゴミを食べなくなっていた。

 すりすりと足に気持ちいい感触が擦りつけられる。見ると、虚無が僕の足に擦り寄ってきていた。僕がなでると、虚無は僕の手を引っ張った。あまりに何度も引っ張るので、僕は虚無に引っ張られるように立ち上がった。そうすると、虚無は、ぴょーんと跳ねて進んで行った。

 虚無が連れてきたのはキッチンだった。そういえば、今日はまだ虚無にご飯をやってなかったなと思う。時計を見ると、もう正午を過ぎていた。

「お腹が減ったのか?」

 僕は虚無にそう話しかけた。虚無はぴょんぴょんと数度跳ね、今度は机の前に居座った。どうやら食事ができるのを待つようだ。僕は虚無に促されるまま、食事を用意をしようとした。しかし、冷蔵庫を開けるとそこには何もなかった。即席麺は先週食べ切ってしまったし、今日の昼食と夕食を考えると自炊をしようか……僕は買い物に行くことにした。

「虚無、買い物に行くな」

 僕は虚無に声をかけた。虚無は僕の言葉を解っているのか解っていないのか、机の上で、ぽよんと跳ねた。


 少し外に出ただけなのに、汗で体がしっとりとしている。昼食はすぐに食べれるようにと、パスタを茹でた。虚無はパスタを啜れないようで、初めは一本ずつ、縮小するように食べていた。しかし、しばらくして皿の上に纏まっているパスタの大部分を口に貼り付けたかと思うと、丸ごと縮小するように食べた。

 僕は呆気にとられて口を開けていた。パスタソースで虚無が汚れたかと思ったが、どんなに見ても、虚無が汚れている様子はない。パスタとソースは一体となって縮小して、虚無に食べられていた。


 食事を終えて、僕は掃除をすることにした。実は、虚無が昼食を待つために机の前に座ったときから、机の上のゴミが気になっていたのだ。前は、知らないうちに虚無がゴミを食べていたからか、そんなに部屋の汚れに気づかなかったが、どうやらゴミの他にも部屋の隅にホコリが溜まっているようだ。

 僕が掃除を始めると、虚無も僕の後ろをついて回る。

「虚無、ホコリやゴミを食べたらダメだぞ」

 念のため、もう一度虚無に言い聞かせる。虚無は、ぽよんと跳ねた。

 ゴミを捨ててから、部屋に掃除機をかける。単に掃除機をかけるだけだったから、一時間もしないうちに掃除は終わった。虚無は念押ししたからか、ホコリやゴミを食べることはなかった。

 部屋の掃除を終えて、すっきりとした気分で後ろを振り返ると今度は虚無の体にホコリやゴミが絡まっていた。僕がやっと視線を向けたのに喜んだのか、虚無が体にゴミやホコリを貼り付けたまま擦り寄ろうとしてきた。

「ちょーっと待った! 汚い! 洗うからこっち」

 虚無がゴミを僕に擦りつける前になんとか止め、そのまま風呂場へ虚無を連れて行く。虚無は初めて入った風呂場に興味津々のようで、洗い場の中央でキョロキョロとするように左右に揺れていた。

 僕は洗面器に入れたお湯を掬って虚無にかける。虚無は初めてのお湯に驚き、びくっと震え、後ずさっる。様子を見て優しく何度もお湯をかけると、だんだん慣れてきたのか、機嫌よくふわふわと漂いだした。僕は虚無がお湯に慣れてきたので、虚無を持ち上げて洗面器の中に入れた。虚無は水面すれすれに浮かんでいたが、次第に高度を下げ、最終的にお湯に浸かった。

 僕は初めて虚無が浮かばずに、洗面器の底に接しているのを見た。

 不思議なことに、お湯に浸かったはずの虚無の毛はへたることもなく、至っていつものままだった。ただ手触りだけが、濡れていることを証明している。僕はむずむずするような違和感を抱いたまま虚無を石鹸で洗う。泡立てられて白くなっていく虚無が、なんだか本当にペットみたいだ。虚無がふるふる震え、泡が飛び散って僕にかかった。


 綺麗になった虚無をタオルで拭くが、それでもまだ水気がある。ドライヤーなんてものはないからどうしようかと思う。

 虚無は洗濯物じゃないんだけど、僕は他に思いつかず、まだ日のあるベランダに連れて来た。

「虚無、乾くまでそこで浮いてられる?」

 と、僕が言うと、虚無は、ぽよんと跳ねた。


 虚無をお風呂に入れ終えて、僕はまたベッドに座った。そこで、またぼーっとしながら、今日のことを振り返る。休日なのに、掃除をした。虚無をお風呂に入れた。休日に何かしたのは久しぶりだ。一日を活動して過ごした小さな満足感が僕の中に立ち込める。そういえば、毎日必死に勉強してる時はいつも寝る前に気持ちいい疲労感に包まれていたなと思い出す。

 気づくと、虚無が部屋の中に入っていた。どうやってベランダから部屋に入ったんだろうと思うけれど、まぁ虚無だしな、と僕は考えることをやめた。虚無は僕が虚無に視線を向けていることに気付いたのか側に寄って来た。ほどよく日光に当たって、ほかほかと日の温かみを感じられる虚無は部屋に取り込みたてのふわふわのタオルそのものだった。僕は虚無を思わず抱きしめていた。

 日光浴した虚無を堪能した後、虚無にご飯を要求される前にと、夕食の準備を始めることにした。簡単な野菜炒めとソーセージ。そんなものだけど、スーパーの惣菜でもなく、コンビニ飯でもなく、カップ麺でもないのはいつぶりだろう。

 ご飯ができたのを察してか虚無がまた、机の前に待ち構えている。僕は、なんだか虚無との生活も板についてきたなと、この奇妙な暮らしにどこか心が満ちるような気がした。



 次の日からまた仕事だ。夏の暑さだけでも仕事に行く気力が奪われるのに、休み明けなのも加わって、いっそう職場へ向かう足取りが重くなる気がする。そうして、また上司に怒られたり、客に文句を言われたり、同僚に無視されたりして日々を過ごす。

 なんだか、以前は心を無にしてやり過ごせていたが、最近は理不尽なことに対して腹が立つようになった。上司は自分のミスを僕に擦りつけてくるし、客はありえない納期を要求してくるし、同僚は僕の根も葉もない悪口を広めている。僕はあんなに嫌だった休みが待ち遠しくて仕方なかった。こんな職場で余分な時間を少しも過ごしたくなくて、僕は最近退社時間が早くなった。


 今日は本当に最悪だった。お昼過ぎに客が午前中が納期なのにまだなのか、と怒鳴り込んできた。しかし僕には寝耳に水だった。とりあえず、周りに迷惑をかけて夕方までには間に合うことができたのだが、客からのクレームが酷かった。

 もう、日付も変わる頃に最寄駅に着いたので、スーパーは閉まっていた。仕方なくコンビニに寄って食べるものを買う。虚無はどうしているだろう。夜の職場で、僕は仕事を片付ける意識の片隅でずっと虚無のことを考えていた。

 マンションのドアを開けると玄関口に虚無がいた。

「遅くなってごめんな」

 そう、言って虚無を撫でくりまわした。虚無は僕が帰って来た嬉さが覚めやらないようで、テーブルに向かう僕の足に纏わり付きながらぴょんぴょん跳ねている。

レンチンして温めたものをテーブルに置いて、深夜の食事をする。すぐに食べ終わって、早く片付けて寝ないと、明日も仕事もあるのにと思うが、疲労が溜まって動けない。

「今日は散々な1日だったよ」

 と、テーブルに両腕を重ねて、頭を乗せる。

「納期が早まったとか聞いてないし……」

 僕は夢現のまま、虚無に今日の出来事を愚痴った。


 結局、あの日は寝落ちしてしまい。気付いたらベッドの上だった。僕の意識は机の上で途切れているのに、自分で移動したのか、はたまた虚無が移動させてくれたのか。いや虚無はないなと僕は思い直した。

 家に帰るといつもと同じように虚無が部屋でコロコロ転がっていた。

 今日も買ってきた食事を用意する。僕が半分も食べない前に虚無は食べ終わるが、いつも僕が食べ終わるまでは待っていてくれる。僕は食事の途中で、箸を止めた。

「この前、遅くに帰って来た日。覚えてるか?」

 虚無は分かっているのかいないのか、特に反応を返さなかった。僕は、そんな虚無を視界に半分くらい映しながら話を続けた。

「あの日、納期が早まったのを知らなくて……納期過ぎてるからとにかく急がなくちゃならないし、クレームになるわで大変だったんだ。それでな、その原因がいつも俺の根も葉もない噂を立てている同僚だったんだよ」

 箸で行儀く、食べ終わった梅干しの種を突きながら話を続けた。

「まぁ、その同僚もわざとじゃなかったんだけどな、簡単な伝達忘れだよ。ほんと困ったもんだ」

 僕は、梅干しの種を突きの刑から開放して、箸を置いた。

「上司も上司だよ。電話を受けた同僚に納期前倒しの許可を出しておいて、進捗の確認は皆無。おかげて俺は納期が早まったことを当日まで気づかなかったって訳」

 しばらく、その日を思い出して憂鬱と鬱憤に浸っていた。やがて、僕は箸持ち上げ、完食した。

「はぁ~。転職したいな」

 お茶を飲み干した勢いで、そう言った。ふと、視線が偶然か必然か、部屋の隅の視界に入らないような場所に置いてある教材の方に向いた。模試の結果が悪かった時から辞めてしまった試験勉強。始めたきっかけは転職をするためだった。

 今の職場にこのままずっといるのか、もう一度努力をして長い道のりを再スタートするのか。

今の僕には決断できそうになかった。


 次の休み、僕は参考書を手にとった。ペラペラとめくってみて思い出すのは答えではなく、過去の自分が頑張っていた時間。僕は捨てられなかったE判定の通知書を引っ張り出した。改めて見るとあの時感じた無力感や悔しさが込み上げてきて、辛くなってくる。

 その思いと比べるように、職場のことを思い出す。クレーマーの客、無能な上司、イヤな同僚。その象徴のようなこの間の出来事。ひたすらに謝って、尻拭いをしたというのに、平然としている上司と同僚。職場での僕は、ただ自分をすり減らすだけの存在だ。

 職場でのあれこれを思い出して辛くなっていたら、虚無が擦り寄ってきた。そのふわふわした感触が僕を現実に呼び戻す。

 僕の本当にしたいことは何だ。


 誇りを持って仕事をすること。


 資格を生かした仕事をして、自信を持って仕事をしたい。

 僕は虚無を抱きしめた。剥き出しの腕に下ろし立てのタオルの手触りが心地いい。

「もう一度頑張ってみるよ」

 僕は、E判定の通知書を壁に画鋲で止めた。


 次の日、朝起きると虚無はいなくなっていた。虚無がどこかに行ったなんて考えられない。僕も連れ出さなかったが、虚無は決してこの部屋から出ようとしなかったのだ。

 僕は、必要最低限の身支度をした後、朝食も食べずに遅刻ギリギリまで探した。けれど、結局虚無は見つけられなかった。僕は始業に遅れそうになりながら仕事へ向かった。


 仕事中も虚無のことが頭から離れず、普段しないミスを数度してしまった。そのせいで、退社がいつもより遅くなってしまった。手っ取り早く、コンビニで夕食を買い帰宅した後、急いで家中を探し回る。しかし、やはり虚無はいない。代わりに見つけたのは、赤い色をしたきのこだった。

いなくなった虚無、突然現れたきのこ。

 僕は、虚無を探すのをやめた。


 虚無がいなくなってしまったけれど、僕は虚無に宣言した通り、もう一度試験勉強を始めていた。忘れて解けなくなっている問題もあるけれど、なんとなく覚えている箇所もある。これなら二週間もすれば、これまでの分は取り返せる。その見通しがついた頃には、僕はここ数週間がウソのようにやる気に満ち溢れていた。


 気づけば季節も進んだのか、涼しくなってきた。きのこはすっかり大きくなって、立派な赤い傘をつけていた。僕は窓を開けて涼をとる。そこから外にきのこの胞子も旅立っていくだろう。

 もしかしたら、虚無もどこかへ旅立ったのかなと思った。そういえば、虚無がいなくなったのは僕がもう一度試験勉強をしようと決めた日だった。

 決心だけじゃなくて、今日みたいに実際に勉強しているところを虚無に見せてあげたかったな、と思った。

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