歪み
大月クマ
第1話 忘れていたもの
一目惚れだったのかもしれない。
友人には妻もいて、かわいい子供が学校に入った、と喜んでいる者もいる。私はというと、正直、女性は苦手であった。そのため、10の位が片手で足りなくなるという歳で、私は独り身のままだ。恋愛というのが、どうもいまいち、判らなかったのだ。
それに、近づいてくる女性たちは私個人よりも、私の資産に惚れている……そう感じていた。
私自身を見てはくれない。母親がそうであったように……。
彼女達は母と同じで、自分の家や自身の出世ための道具とでも思っているのか。
そんな私が、今日、安酒場に入ってきた彼女を見て、すっかり酒から醒めてしまった。初めて人を恋しいと感じた……いや、そんな感情を私は忘れていただけかもしれない。
奇妙なのは、私を引きつけるほどの彼女が、年老いた
――老婆ひとりよりも、うら若き美人を連れてきたほうが財布の紐も緩む、と思ったのか……。
彼女の歳は私より一回りは下であろう……いや、もっと下かもしれない。貴族の中には娘を『花嫁修業』の名目で、教会に預ける場合があるという。彼女もそんなひとりであろうか? だが、この地区の治安を考えると、彼女の両親の判断に疑問が生じる。
長身ですらりとした立ち姿は人目を引いた。異国人のように黒い髪は長く艶やかで、光に当たると深い紫色に輝いて見える。そんな髪をなびかせ、私の前を通り過ぎていく。そこから醸し出す薫りは私を引きつけ、落ち着かせてくれた。切れ長の目に灰色にも見える青い瞳。一瞬冷たく、人を寄せつけないような壁を作っているようにも感じた。肌はおよそ人間とは思えない、陶器のような滑らかさで白く見える。
ただ安酒場の少々下品な客が、一瞬、彼女を見ただけで手にしたジョッキに向かう。
――なぜであろうか?
私は心の中で問いかける。
しばらくすると、その理由が分かった。私は彼女の顔の片側だけ、右側しか見ていなかったのだ。見えていない左側の顔は、非道い傷の痕があった。もう片方の左頬には、刃物で切られたような深い傷。それに左の目にも浅い傷が見られる。同じ刃物によるものだろう。恐らくそちらの目は機能していないようだ。白く濁っていた。
――人と壁を作っているように感じたのはこのためか……。
確かに傷のある女性では、普通の男は興味を無くしてしまうだろう。だが、私は違っていた。彼女の肩が少しでも動くだけで、興味がそそられる。
もう少し、彼女に覚られないように、彼女を見つめていたい。
教会への『花嫁修業』とはいっても、形式的なものだ。それなのに、両親は娘にちゃんとした衣服を持たせなかったのか。貴族の娘にしては着ているものが、みすぼらしく思える。それに彼女の両腕は、ダラリと無気力に下されたままだ。注意して見ていると、手袋をしている。それもかなり長いものだ。その白い手袋は、手首をこえて、袖の奥の方まで続いていた。
顔の傷にでも関係しているのだろうか? 機能していないわけではなさそうだ。動いているのが目に入る。
これは私の推測でしかない。
少々、過剰になってしまうが、女の嫉妬というものは怖い。私でさえ目を引かれた彼女が、別の女性にでも襲われた。その者に押し倒され、手にした刃物を、無残にも何度も振り下ろされた。なんとか命だけは助かったが、顔には傷が、両腕には防御痕があるのであろう。手や腕まで隠しているのも、その時の傷を見せたくはない。そんな心理が働いているのか。
そして、両親は自分の娘を、街の片隅の教会に厄介払いをした。傷物にされた娘に、嫁のもらい手は、よっぽどでもない限り現れないであろう。
――これは勝手な想像だ。
確かにそうだ。
しかし……他の男たちがどうあれ、私が彼女に目を奪われたことは確かだ。
「ご寄附をお願いできないでしょうか?」
気が付けば、わずかな小銭が入った缶が私の前に差し出されていた。
よほどこの教会は金回りがよくないのであろうか。食事も満足に取れず、老婆の手は痩せこけている。それに、寄附を集める缶は使い古され、わずかばかりのはした金しか入っていない。
このあたりの地区の人々が、あまり裕福でないことは知っていた。
祖父がこの酒場の近くで、銃器を扱う店をしていたからだ。幼かった私は、祖父の元を訪れると、この地区を遊び場としていた。
今はその店もないが、祖父は亡くなるまでこの地区に住んでいた。
――子供の頃を思い出す。
そう……たまにこの地区に来て、この安酒場で少し飲む。
私をどうもここの地区の者達は、子供の頃に見たことのある謎の紳士『坊ちゃん』と呼んでいるそうだ。私はそれを愉快に思い、仕事の間の
「――ご寄附を……」
気が付けば、尼僧は寄附の缶を振って見せた。少ない
私が金を出す様子も無く、追い払う事もしないので、不審に思ったのであろう。
「寄附? ああ、寄附ね……」
私は懐から無造作に財布を出しかけた。だが、先ほど話したとおり、この地区は治安がいいとは言えない。そこでポケットには、最小限しか入れないことにしている。銀貨と銅貨を数枚程度……酒場の支払い分ぐらいだ。
このふたりはまだしも、誰が見ているか判らない。金を持っていることが判れば、後を付けられて追い剥ぎに遭いかねない。まあ……顔見知りが多いので、そういうことは起きないとは思うが……。
しかし……しかし、ここで「持ち合わせがない」と、追い払うのはどうか?
――彼女にいい格好を見せたいだろ?
そうだ。
この老尼僧よりも、彼女がどんな顔をするのか、私は怖くなった。声をかけたこともない、初めて会う彼女であるが、印象を悪くしたくない。
「すまない。手持ちがこれしかない」
上着の隠しポケットに一枚だけ金貨を入れていた。何かあった時のために準備してあったものだ。それを私は古びた缶に投げ入れた。
金貨に驚いているのか、老尼僧が目を丸くしているようだが、どうだっていい。
声を出さない老尼僧の代わりに、彼女の声を聞けた。
「……あっ、ありがとうございます!」
透き通るような声……私には天使の声のように思えた。
彼女の笑みを見られたのだから、それで十分だ。
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