第三章 北の王国 ローグレス 6

 無音の世界に、薪のはぜる、ぱちぱちという音が次第に近づいて来る。

 意識が浮上し、目を覚ました時、そこがどこなのか直ぐにはわからなかった。

 「…ソール?」

フリーダの声だ。起き上がろうとしても体に力が入らない。そちらに顔を向けたソールは、瞳に涙を溜めた少女の姿を見つけた。

 「ここは?」

 「城の中よ。良かった、目を覚ました…」

涙を拭うために手を顔に挙げる。その時はじめて、ソールは、自分が眠っている間ずっと手を握っていてくれたのだと気が付いた。

 「ひどい吹雪で、もう誰も戻って来ないと思われてたの。でも、キミが死んだりするはずないって、見張っててもらって…そしたら、ハルベルトを背負って戻って来たの」

 「俺、ちゃんと辿り着けたんだな」

おぼろげに記憶が蘇ってくる。閉ざされた門の前までたどり着いた時、門が開いて、中から人々が駆けつけてきたのだ。吹雪の風圧が消え、城壁の内側に引きこまれた瞬間、体じゅうの力が抜けて地面の上に倒れてしまった。――覚えているのは、そこまでだ。

 「指、動く?」

 「ん」

ソールは、毛布の下から引っ張り出した手を確かめた。包帯がきつく巻きつけられているが、動かすことに問題はない。

 「酷い凍傷だったのよ。足も、手も、指が何本か死に掛けてて…あ、大丈夫よ。私が治癒の魔法で治したから」

 「そうか、…」

包帯の下の指は、今はなんともない。フリーダは、廊下に出て、誰かに暖かい食べ物をと命じている。きっと外に控えていた召使いだろう。彼女の後姿を横目に見ながらゆっくりと体を起こしたソールは、ふと、辺りがやけに静かなことに気がついた。

 ティキがいない。

 ぱちぱちと音を立てて明るく炎の燃えている暖炉の縁には何もおらず、部屋の中を見回しても、どこにも姿がない。

 「ティキは?」

 「あ、…うん。オラトリオのところよ。少し弱ってたみたいで…落ち着いたら、あとで会いに行きましょうか」

無理に明るくしようとしているのは分かったが、フリーダの声の動揺は隠しきれていない。

 「ヤルルとアルルは」

 「他の妖精たちのところで手当てを受けているわ。今はまだ動けないけれど、命に別状はないって。暖かいところで少し休めば魔力も回復するはずだって、オラトリオが」

ベッドの脇に腰掛を寄せ、フリーダは、そこに腰を下ろした。

 「ハルベルト義兄さまはまだ目を覚まさないの。一体、何があったの?」

 「…多分、待ち伏せされた。町に付いた途端、吹雪になった」

そう、思い起こせば、あれはいかにもタイミングの良すぎる吹雪だった。分断され、閉じ込められた三日間。その間に人間たちは体力と気力を奪われ、戦う力を削がれていった。そして、ハルベルトたち司令塔を失い、どうしようもなくなった時に攻撃が始まった。

 「ほかに助かった人間は?」

 「……。」

フリーダは、静かに首を振る。

 「誰も?」

 「ええ。全滅よ…」

では、あの時一緒に遠征に出た人も馬も、すべて吹雪の中に失われてしまったのか。

 記憶に焼きついている、冷たく凍りついた――物言わぬ体。誰一人、逃がすことが出来なかった。

 愕然としているソールの耳には、扉をノックする音も、話し声も聞こえていない。フリーダが湯気のたつ盆を手に戻ってきてようやく、我に返った。

 「暖かい飲み物と、あと、ミルク粥ですって。体が温まるわよ」

 「……。」

 「どうしたの? 食べて。キミだって死に掛けたのよ。まずは自分の体力を取り戻すことを考えて」

暖かい椀を手にとると、湯気がふわりと立ち上った。口につけた食べ物が体にしみこむように腹へ落ちてゆく感触。少なくとも、自分は生きている。目の前には、春の色をした瞳が心配そうにこちらを見上げている。

 でも――

 多くが命を落とした。

 「……。」

椀の中身を一気に流しこむと、ソールは、体を引き剥がすようにしてベッドから起き上がった。

 「あ、待って。まだ起き上がっちゃ」

 「ティキに会いに行く。オラトリオのところだよな?」

椅子にかけてあった上着をとりあげ、枕元に置いてあった鎚を手に取った。一瞬、別のものを手にしたのかと思ってしまうほどに重たく感じる。だが、そう思っていることを悟られないように、ソールは平静さを装って手早く身支度を整えた。部屋を出ようとすると、慌ててフリーダが彼の腕を掴む。支えるつもりなのか、或いは、逃げ出さないようにか。

 城内は以前にも増して静まり返り、どことなく陰気な雰囲気がする。おまけに、やけに肌寒い。

 ティキが側に居ないせいなのか。それとも、この町を結界で守っていた精霊使いたちのいくらかが遠征軍で命を落としてしまったせいなのか。

 廊下の突き当たりの小さな扉を潜り抜け、螺旋階段を昇っていく。目の前には、何度もくぐった両開きの重たい銅の扉が構えている。声をかけようとしたとき、扉はひとりでに両側に開いていった。それとともに、中から黴たような嗅ぎ覚えのあるオラシリオの部屋特有の匂いが流れ出してくる。

 中に踏み込んだとき、熱を帯びた、生きた風の気配がふわりと目の前を通り過ぎた。フリーダはめざとくその動きを見つけた。

 「シルフね? オラトリオは何処」

宙に立ち止まり、こっちだというようにくるくると舞った透明な影が、奥のほうへ滑ってゆく。フリーダの腕を解いて、ソールは本の合間を急ぎ足にすり抜けた。胸騒ぎがする。

 「ティキ」

大きな本棚を回ったところで、彼は足を止めた。目の前に大きな暖炉があり、その中にはありったけの薪がくべられて、これでもかと炎が燃やされている。その脇では、オラトリオが懸命に杖を翳しているところだった。額には汗が浮かんでいる。

 「…これは、一体」

ソールは、暖炉の中にゆらめく形のない半透明なものを見つめていた。

 「どうして…ティキは一体…」

 「形を保つことが出来なくなっておるのだ。シルフの力も借りて出来る限り火を燃やしてみたが…回復する様子が無くてな」

 「大丈夫? オラトリオ。」

 「わしは心配いらん。」

側のテーブルの上に置いてあった水差しを取り上げると、老人は、グラスに水を注いで一気飲みした。その間、ソールは、身じろぎもせず炎の中をじっと見つめていた。

 炎と一体化してゆらめくそれは、辛うじて個を保っているに過ぎない状態だ。

 このまま弱ればどうなるのかは、彼にも分かる。火と一体化して、消えてしまう。つまり―― 火の精霊として、個体として"死"ぬ、ということだ。

 「どうすればいい?」

ソールは、強張った面持ちのままオラトリオのほうを振り返った。

 「どうすれば、こいつを助けられる?」

 「それを今、考えておるのだ。」

汗を拭い、老賢者は机の上に積み上げられた本を指差した。

 「とにかく今は、火を絶やさぬことだ。そうすれば、今の状態より悪くなることはあるまい。だが、今すぐに出来ることは何もない」

 「――……。」

両手を強く握り締めたソールの表情を見て、オラトリオは小さく首を振り、歩み寄って、少年の肩に手をやった。

 「そなたのせいではない。無茶な出陣を止められなかったのは、わしらとて同じ。ハルベルトが魔女に魅入られておることに気づけなかった。」

 (違う)

 「そうよソール。キミのお陰でハルベルト義兄さまは生きて戻れたの。それだけでも私は感謝しなくては」

 (俺は…)

あの時、ティキが命がけの反撃をしてくれなかったら、自分ひとりでは生きて戻れなかったはずだ。それにここへ戻ってこられたのだって、ティキが最後の力まで振り絞って、消えかかりながらも寒さから守ってくれたお陰だった。そして、ポケットの中で、懸命に癒しの魔法をかけ続けてくれた妖精たちのお陰でもある。

 自分の手に、視線を落とす。

 (…何も出来なかった)

いつから思いあがっていたのだろう。今の自分なら一人で何でもできる、などと。


 結局、自分は、幼かったあの頃と同じ…

 一人では何も出来ない、無力な自分のままだったのだ。




 どこをどう歩いたのかは、ほとんど覚えていない。

 気が付いたとき、ソールは、以前オラトリオと訓練をした中庭に来ていた。静かな緑に囲まれた場所には、今日は、精霊たちも妖精たちの気配もない。

 (静かだ)

まるで、世界全体が雪に覆われてしまったかのようだ。力なくベンチに腰を下ろして、ぼんやりと風景に眼を向ける。

 (寒いな…ここは)

物心ついた時から、鬱陶しいくらいいつも何処でも付いて回ってきた相棒が側にいない。こんな日が来るなんて想像すらしていなかった。ずっと側にいてくれる。それが当たり前だと思っていたのに。

 どのくらい、そうして座っていたのかは分からない。奥のほうからやってくる微かな足音に気づいて顔を上げると、肩にショールをかけた銀髪の上品な老女が、こちらに向かって歩いてくるところだった。相手もソールに気づき、足を止め、にこりと微笑みかける。

 「…ソールさん、よね?」

誰だったかを思い出すまでに、たっぷり数秒はかかった。

 「フリーダの母さん…だよな」

 「そんな風に呼ばれたのは初めてですね」

女王は、楽しそうに顔をほころばせた。

 「ゲルダよ。そう呼んで頂戴な。お体の具合はもう、よろしくて?」

杖をついたままの老女を立たせていることに気が付いて、慌てて、ソールは腰を浮かせた。

 「座ってくれ。俺は大丈夫だから…」

 「そう? では半分、失礼しようかしら。隣にお座りなさいな。あなたとは一度、お話をしてみたかったの」

ソールは、ローグレスの女王の隣にそろりと腰を下ろした。今まで遠目にしか会っておらず、こんな距離を直接話をするのは初めてだった。ちらりと見上げた女王の凛とした横顔は、老いてなお美しく、娘たちとよく似ていた。

 「まずはお礼と、お詫びを申し上げなければ。ハルベルトのことよ。このたびの無茶な遠征に付き合わせてしまったこと。にもかかわらず、あの子を連れ戻してくれたこと」

女王は、もういい年だろう一国の王のことを、親しげに"あの子"と呼んだ。

 「今、自分を非力だと思っているのでしょう? 他には誰も助けられなかった、と」

 「……うん」

彼は素直に頷いた。「もっと戦えると思ってた…でも、次から次に敵が出てきたから」

 「一人で魔女のしもべを全部倒す気だったの? それは無理よ」

 「やらなくちゃいけなかった。魔女を倒せなかったら、俺は帰れない」

ゲルダは、目を細めて目尻にしわを寄せた。

 「――そなたは、優しいだけでなく責任感の強い人なのですね。わたくしの連れ合いだった、カイとよく似ている」

 「フリーダの父さん?」

 「そう。もう十年以上も前に、魔女との戦いに出てそのまま。」

遠くに視線をやると、女王は、静かな声で言った。

 「冬の魔女はね、心の中に弱いところや隙間を見つけては、そこに入り込んで人の魂を凍らせてしまうのです。ハルベルトは、自分の国を取り戻せない焦りに付け入られてしまった。わたくしの連れ合いも同じようにして連れ去られた。連れて行かれた者たちは、もう、生きて戻れないわ。凍り付いた魂を溶かすすべはないのだから。…そなたも自分を責めてはいけませんよ。魔女に付け入られることになる」

 「俺は、呪いとか効かない…」

言いかけて、ソールは、今はティキがいないことを思い出した。以前あの魔女に出会った時はティキが援護してくれたが、次にもし出くわすことになったら、ひとりで向き合わねばならないのだ。

 魔女の、妖艶な、白い微笑み。果たして二度目に出会った時、自分は、あの瞳から逃れられるのか。

 口を固く閉ざして視線を落としているソールを見て、ゲルダは、ふっと表情を緩めた。

 「そうね。誰かが、いつかは、この冬を終わらせなくてはいけない。でもね。それは"今"ではなくてもいいし、"一人で"でなくてもよいのですよ」

ソールは、顔を上げた。老女王の、少女のようにきらめく春色の瞳と優しい微笑みが、そこにある。

 「生きていればね、人は、いくらでも強くなれるの。だからまずは生きなくては駄目よ。」

 「……。」

 「さあて。そろそろ行かないと、誰かが探しに来てしまうわねぇ」

そう言って女王は、肩のショールを直しながらゆっくりと立ち上がる。

 「それじゃあまたね、ソールさん。今はゆっくり体を休めて。必要なものがあったら、フリーダに何でも言いつけて頂戴ね」

杖をつきながら去ってゆく老婦人の後姿を、ソールは、ぼんやりと見送っていた。不思議だった。まだ会って間もなく、お互いのことをよく知りもしないのに、まるで親戚か家族のように接してくれた。それに、戦えないはずの年齢なのに、側にいた時、不思議な強さを感じた。

 (あの人は、強い…)

剣や弓を手にするのではなく、軍を率いるのでもなく、精霊を操るのでもない強さ。それが何なのか、今のソールには分からない。けれど、ゲルダの言った 「生きていれば、人は、いくらでも強くなれる」という言葉は本当なのだと思った。ソールよりはるかに長く生きているであろうゲルダの強さは、きっとそこから来ているのだと。




 妖精たちは、中庭の奥の小部屋に集まっていた。そこは普段から火の精霊が特に暖かくしている場所で、木々のほかに、花壇や泉まで作られている。雪が降り始めて外で暮らせなくなった、様々な場所から集まってきた妖精族の生き残りたちが暮らす場所なのだ。

 ソールが妖精の輪の中に入っていくと、側に浮かんでいた一人が言った。

 「あのね、あんまり近づきすぎないで。まだ治療中だから」

 「あ、悪い」

目の前の切り株の上に、草の葉で編んだベッドが置かれ、その上にヤルルとアルルが寝かされているのが見えた。周りで治癒の魔法を使える妖精仲間たちが魔力を送り込んでいる。二人は半透明な、繭のようなものに包まれて眠っている。最初にフリーダと一緒に空から落ちてきた時とよく似た状態だ。

 「…容態は、どうなんだ?」

 「しばらくは動かせない。でも、死んじゃうことはない」

一人が答え、別の一人が言う。

 「ここは暖かいし、木とか花とかもあるから」

 「そうか」

ほっとして、ソールは、ひとつ溜息をついた。「ごめんな。こいつらのこと、頼む」

 「……。」

様々な姿格好をした妖精たちの、淡い色をしたそれぞれの瞳がソールを見上げる。何か言いたげなその瞳は、ソールを責めるものではなく、むしろ気遣っているかのようだった。

 妖精たちの小さな森を後に歩き出したソールは、足の向くまま、町の見下ろせるテラスまで上がっていった。

 空は相変わらずの曇り空。だが、少なくとも城壁の内側に雪が降ることは無い。

 町は、――多くの兵を失った町の中には、きっと多くの悲しみが渦巻いている。ここからは変わらないように見える城壁にも、今日はいつもより精霊の気配が少ない。

 (俺に何が出来る?)

握り締めた拳を、宙に突き出してみる。

 (一人で戦ったって、敵わない。北の山まで辿り着けない…)

無限に湧いてくる敵を全部倒すことなど出来そうもない。天を駆ける馬で一気に走り抜ければ、待ち伏せは受けずに行けるかもしれないが、南の妖精の森へ向かったフリーダがそうだったように、馬が疲労したときを狙ってドラゴンが空から襲ってくるだろう。

 今のままでは、勝てないのだ。

 「ここにいたの? 探したのよ」

ドレスの裾をつまんで持ち上げ、息せき切って駆けて来たのは、フリーダだ。

 「どうした」

 「直ぐに来てほしいって、オラトリオが。ティキのことで――」

それ以上は、聞く必要はなかった。無言のまま、ソールは駆け出した。後ろからフリーダが追ってくる。

 階段を駆け上がり、閉ざされた扉が開くのも待てずに拳で叩く。

 「オラトリオ!」

フリーダが追いついてきたのと、扉が微かな軋みとともに開き始めたのがほぼ同時。扉が開ききるのを待たず、隙間から部屋の中に滑り込んだソールを待っていたオラトリオは、勢いに驚いて慌てて両手を振った。

 「待たんか。そんな勢いで入ってこられたら、本が崩れてしまうぞ」

 「ごめん…でも、ティキが…」

 「あやつは変わっておらんよ」

黒いローブの老魔法使いは、部屋の奥をちらりと見やる。火の燃えている暖炉の中には、相変わらず、不安定な状態のまま揺れているティキの姿があった。

 「わしが呼んだのは、消えかかった精霊に力を蘇らせる方法のことだ。火の精霊は、火の力の強いところでなら養生できるかもしれんと思いついてな。本来は、生まれ故郷に連れていくのが一番なのだが――あれだけ古い精霊では、故郷などもう分からんだろうから」

そう言って、手元に魔法の羊皮紙を広げる。紙の上に描き出されている地図を覗き込んで、ソールは眉を寄せた。

 「これは…どこなんだ?」

 「ここからずっと東のほう。海に面した小高い山がある。"炎の山"と呼ばれる場所だ」

その時ちょうど、フリーダが追いついてきた。

 「"炎の山"ですって? 年中火を噴いているという、冥界への入り口とも呼ばれる場所じゃないの」

 「そうだ。だからこそ、火の精霊にはちょうど良いのではないかと思うのだ。…だが、あそこはかつて"古き神々"の宮殿があった場所でな、古い魔力が残されておる。何が起きるかは――」

 「わかった。ここにティキを連れていけばいいんだな」

 「ちょ、ちょっと待ってよ、ソール。」

フリーダは慌てている。

 「どうやって、ここまで行くの? スキンファクシで駆けても何日もかかるわよ。今は――まだキミは体調が…それに…」

オラトリオは小さく頷いた。

 「途中で冬の魔女が襲って来んとも限らん。それに、今の状態でティキを外に連れ出して、果たして"炎の山"までもっていられるかは、五分の賭けだぞ」

 「だったら何で俺にこの話をした?」

 「……。」

 「危険でも構わない。ティキを、このままの状態にしてはおけない。あいつは…、俺の一番大切な友達なんだ!」

地図を広げた机の上に身を乗り出すようにして、ソールは、魔法使いの顔を覗き込んだ。

 しばしの沈黙。

 「…方法は、ある」

重々しい声で言って、オラトリオは、机の脇の柱にかけてあったランプを手にとった。

 「これに火を炊き続け、その火の中でティキを運ぶといい。ランプには、わしの魔力を込めて熱が逃げにくいようにする。だが、火が尽きたらその時は終わりだ。ランプには油を注ぎ足し続けねばならん」

 「わかった」

ソールは頷く。

 「それから?」

 「それから…、さっきも言ったように、"炎の山"は遠いのだ。天を駆ける馬の足でも数日はかかる」

 「私が一緒にいくわ」

と、フリーダ。「それしかないでしょ?」

 「二人乗りは駄目だ。速度が落ちるし、何かあったとき、戦えない」

 「でも…」

 「俺も、馬の乗り方は覚えた」

振り返って、ソールはフリーダを見た。「一頭貸してもらえないのか」

 「それは――出来ないわ。いいえ、難しいと思う」

 「何でだ?」

 「城にいた馬のほとんどは、ハルベルトが遠征に連れていってしまったのよ。いま残っているのは私のスキンファクシと、もう一頭、…誰も乗れない暴れ馬だけなの。ものすごく気難しくて」

 「それでも、そいつに頼むしかない」

ぱちぱちと、暖炉の中で火が跳ねる。空気がゆらめき、オラトリオの風の精霊が、ふわりと半透明な姿を現した。

 『途中までは…支援できます。王都から出るときに、周囲に敵がいるかどうかを調べるくらいは…』

 「じゃあ頼んだ。すぐ準備する。フリーダ、その馬のところ案内してくれ」

 「すぐ? まさか、今日?」

 「当たり前だろ。」

何か言おうとして、彼女はやめた。言ってもソールが思いとどまるはずがないと分かっていたからだ。その代わりに、彼女はきっぱりとした口調で言った。

 「絶対に、私も一緒に行くわよ。キミじゃ地図は読めないだろうし、道に迷って行き倒れられても困りますからね」

 「…ああ」

 「それじゃ付いてきて」

怒ったような口調で言い、フリーダは、螺旋階段のほうに歩き出す。だが彼女の背中から感じるのは、口調とは裏腹の不安と気遣いだった。

 (――皆が俺を心配する。何でなんだ…?)

どこも怪我もしていないし、自分の足で歩いている。少なくとも、目を覚まさないハルベルトや妖精たち、命の危険にあるティキなんかより、ずっと元気なはずなのに。




 フリーダに連れられて初めて訪れた厩は、びっくりするくらいがらんとして、ほとんど馬は残っていなかった。残っているのも、見たところ病気だったり、子連れだったのして、戦いには連れて行けない馬ばかりのようだ。

 そうした馬たちの向こうに、頑丈に作られた檻の中に一頭だけで隔離されている、堂々とした立派な体格の灰色の馬が見えた。人の気配を感じて振り返り、不機嫌そうに鼻を鳴らす音が聞こえる。

 「あれが、そうなのか?」

 「ええ。グラニっていうの。すごく力が強いから…気をつけてね」

確かに強そうな馬だ。前足で地面を蹴るたびに土が抉れる。しかも、もうずっと外に出してもらっていないように見えた。ソールは、檻に近づいて馬を見上げた。黒い鼻面がすぐそこにある。ソールが手を差し出すと、灰色の馬は警戒するように一歩あとすさったが、興味は惹かれたようで、慎重にソールの手の匂いを嗅いでいる。

 「お前に連れて行ってもらいたい場所がある」

 「ブルルルッ」

馬は首を大きく震わせ、一声、高く嘶いた。

 「よし。」

 「大…丈夫なの?」

フリーダがおそるおそる近づいて来る。ソールが檻ごしに馬の鼻面を撫でてやっているのを見て、信じられないという表情だ。

 「大丈夫。乗せてくれるって」

 「今まで、誰も言うことをきかせられなかったのに…」

彼女は、ちらりと灰色の馬を見上げた。

 「相性とかあるんだろ。これで足は準備できたな。あとは、オラトリオのところへ行って…」

 「待ってよ。食料とか、旅の支度があるでしょ? それから…ああもう、私も着替えてくる!」

ドレスの裾を忌々しげに見下ろして、彼女はソールの目の前に指を突き出した。

 「いいこと、オラトリオのところで待ってるのよ。私を置いて行ったら許さないんだから。勝手に出て行かないでよね!」

それだけ言い捨てると、ソールは、ドレスの裾に飼い葉をひっかけながら厩から駆け出していく。まったく、"王女様"には見えない後姿だ。こんな時なのに、笑みが込み上げてくる。

 (変わらないな、…あいつは)

王都についてからは、少しは大人しく振舞っていたように見えたけれど、きっとそれは、ただの猫かぶりなのだ。彼女は、彼女のままだ。無謀で、身勝手で、掃除の仕方も知らない。けれど――近くにいると、暖かい。

 ティキと同じように…。




 眠れない夜を過ごした。

 闇が明け、薄暗い中に白い地平線が見え始める頃にはもう、引き出された二頭の馬には馬具がつけられ、食料やその他の旅に必要なものが馬の背に積み込まれている。息が白い。ソールは、重たい雲の流れる空を見上げてから、胸に抱いたランプに目をやった。

 ちろちろと燃えている火の中に、重なるようにして半透明な別の炎が揺れている。小さな炎――今にも消えてしまいそうな、それが、今のティキなのだった。

 しん、と静まり返った前庭。

 見送りに来たのはオラリトオだけだ。

 「"炎の山"に近づきすぎぬよう気をつけるのだぞ。今のそなたには火の精霊の加護はない。おまけにあの山は、今も古い魔法の炎に守られておる。」

馬のあぶみをとらえ、黒いローブの老魔法使いは言い聞かせるようにソールに言った。

 「それと、途中で敵と遭遇しても戦ってはならんぞ。」

 「分かってる。そんな時間はないだろ」

馬がいきりたち、足踏みをする。オラトリオは側を離れながら、なおも言った。「無茶をするなよ。」返事をしないまま、ソールは、馬に拍車を当てた。

 夜明け前の冷たい空に向かって、二頭の馬が並んで駆け上がっていく。星はなく、風もない。

 『この先を真っ直ぐに東です。今は近くに敵はいません』

耳もとでシルフの声がする。

 『気をつけて、とオラトリオが言っています。無事のお戻りを』

 「……ああ」

胸に抱いたランプのぬくもり。消えてゆこうとする火の気配を感じながら、ソールは、はるかな地平線の彼方を見つめていた。

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