第三章 北の王国 ローグレス 5

 出立の朝、まだ日も昇らぬうちから城門の前には兵士たちが集まっていた。兵糧や物資を積んだ馬車と、兵士たちが乗るためのもの。馬の足りない兵は徒歩だ。天を駆ける馬は少なく、軍率者であるハルベルトの乗るものを含めても僅か数頭だ。

 「精霊使い、周囲はどうだ?」

馬の上から、ハルベルトが堂々たる太い声でたずねる。彼は皮の甲冑の上から毛皮で縁取りした分厚いマントをまとい、寒さにも攻撃にも強い華やかな装いをしていた。

 「…風の精霊に探らせていますが、王都の周辺には敵はおりません」

馬の傍らに立つローブの男が告げる。

 「ただ、ご存知でしょうが、精霊たちに見通せるのはごく僅かな範囲です。王都を離れて北に向かうのであれば、常に急襲を受ける危険は伴います」

 「構わぬ」

ハルベルトはうっすらと笑みを浮かべると、振り返ってソールのほうに視線をやった。ソールは、兵士たちと一緒に支給された、揃いの厚手の上着を羽織って集合場所に来ていた。

 「馬はどうされた。」

 「馬?」

 「貴殿には先遣隊に加わってもらわねば困る。誰か、馬を持て」

 「……。」

乗ったことはない、が、何とか乗るしかないのだろう。ソールは、兵士に差し出された手綱を無言に受け取ると、初めて乗る馬の高い背を見上げた。これは普通の馬だ。雪の上を走ることは出来るが、空に浮かぶことは出来ない。

 「まさか北までこいつで行くつもりなのか? 馬は、雪が深いと走れないぞ」

 「街道沿いの雪はそれほどでもない」

ハルベルトは自信ありげだ。「出るぞ。今日中にはアーメルに到着するのだ!」

 城門が開かれる。先陣を切って飛び出すのはハルベルトと供の数騎、天を駆ける馬に乗る騎士たち。続いて普通の馬に乗る騎馬兵たちが続き、最後に兵糧や物資を積んだ馬車と歩兵とが続く。

 ソールは、不安げな馬の首を叩いてなだめながら、おっかなびっくりと馬を進めはじめた。だが、巧くいかなかったのは最初だけで、ひとたび進み始めると体が自然に鞍に馴染み、雪原に馬を駆けさせることは苦ではなくなった。

 ひづめの下で、硬く凍った雪が砕け散る。

 振り返ってみると、いつの間にか城壁は遥か後方になっている。城門からぞろぞろと出てくる兵士たちの行列は、まだ続いていた。

 (一体、何人連れていくつもりなんだ…?)

あの町にどのくらいの兵力があったのかは分からないが、この遠征に割かれているのは、その半数ほどにも見えた。行く手に視線を戻すと、ハルベルトたち先頭の馬は、もうずっと先のほうにいる。

 (…速いな)

ローグレスの王都から魔女の住む北の山までは、一週間はかかる、とオラトリオは言っていた。それが普通の馬での速度だとしたら、あの天駆ける馬なら一体何日くらいで着けるのだろうか。

 (あの馬が欲しいな。俺でも乗れるのならだけど)

そんなことを思いながら、彼は、手綱を握りなおして拍車をかけた。冷たい風が頬を叩き、襟元に隠れているティキがもぞもぞと動く感触があった。

 「ヤルル、アルル、寒くはないか」

 「うん、平気ー」

外套のポケットから、二人がそれぞれ顔を出す。

 「ねえソール、どうしてフリーダは一緒に来なかったの?」

 「そりゃ、あいつは…」

"ローグレスの王女だからだ。"

 だが、言いかけた言葉を彼は飲み込んだ。それはきっと、フリーダが一番嫌いな言葉だと思ったからだ。

 今朝、城を出る時、彼女はドレス姿のまま、弓を握り締めてテラスの端に何も言わずに佇んでいた。何も言わなくても、その表情を見れば、何を考えているのかは分かった。

 "自分も戦えるのに、一緒に行きたいのに行かせては貰えない"、と。

 「…今回は、町でやることがあるんだろう」

 「ふーん」

 「フリーダもいたら良かったのにね」

妖精たちは、ポケットの中にもぞもぞと引っ込んでいく。

 (そうだな、…いれば良かった)

いつしか、彼女が近くにいることが当たり前になっていた。この白しかない世界に、あの春の萌える緑の色をした瞳が無いことが微かに不安だった。

 何度かの短い休憩を挟みつつ、長い遠征軍の列は進み続けた。発ってきた町がはるか後方に見えなくなり、やがて空が暗くなり始める。曇った空からは静かに、雪がちらつきはじめ、雪も深くなっていく。馬は足が沈んでほとんど進めなくなり、吹き溜まりに足をつっこんで動けなくなるところを何度も馬から下りて引っ張り出してやらなければならなかった。

 かつて街道だったあたりは、すっかり雪に埋もれ、どう見てもただの平坦な雪原でしかない。

 一日歩き続け、そろそろ日も暮れる。馬車を引く馬は疲れきり、兵士たちの歩みも鈍くなっていた。

 その時、先頭のほうで誰かが叫んだ。

 「町だ。目的地が見えたぞ!」

ソールは馬の上から目を凝らした。確かに、何か見える。でもそれは、思っていたような"町"ではなかった。真っ白に雪を被った尖塔がひとつ、ぽつりと、雪山の上に顔を出しているだけだったから。

 硬く締まった雪山。完全に埋もれきった建物。―――それが、かつて街道沿いの宿場町だった、アーメルの今の姿なのだった。




 風が出てきている。

 手早く張られたテントのそれぞれにランタンの灯が灯され、馬の側で火が焚かれ、少しでも風を防ぐためにと体力のある者は雪をあつめて壁を作ろうとしている。ソールもそこに加わった。力尽きて動けない者は、夕食もとらず、テントの中で早々と寝付いてしまっている。あまりに惨めな野営だったが、それでも、人が騒がしく動いているだけで、いくらかの活気と熱気は生まれていた。

 ハルベルトは、厳しい表情で尖塔を見上げていた。塔が半分だけ突き出している。ということは、建物の大半はその下の雪の中に埋もれてしまっているのだ。

 ここを遠征拠点にするつもりだった彼の目論見は外れてしまった。町を掘り出すだけでも大仕事で、今ここにいる兵士たちが全員でとりかかっても、何日もかかるだろう。

 「吹雪いてきたな」

手を止めて、白い息を吐きながら空を見上げる。星も月も見えないのはいつものことだが、今日はいつも以上に雲が厚く、辺りは不穏な暗がりに包み込まれている。

 ざざっ、と音がして、歓声が上がった。

 「建物が出てきたぞ!」

風を防ぐために、穴を掘っていた兵士たちだ。

 「体温を失いすぎると命に関わる。中に入れ」

 「奥に馬を入れるんだ。外に置いておいたら死んでしまう」

火の精霊をつれた精霊使いたちはそれほどでもないが、普通の防寒具しかもたない者たちは既に真っ青な顔をしている。

 (…妙に寒いな)

ティキを連れているはずなのに、手のかじかむ感覚がある。

 「キュッ」

肩の上で、ティキが小さく声をたてる。

 「そうだな。お前も火に当たりたいだろうし、中に入ろう」

雪の中に埋もれた廃墟の中はそれなりに広い。燃料があまりなく、火をたくさん焚くわけにもいかなかったが、人と馬が一塊になっているだけでもそれなりに暖かくはあった。外はいつしか、吹雪に変わっている。暗い、狭い空間の中にくぐもるように響いてくる外の音は妙に恐ろしげで、不安ばかりをかきたてる。

 火にかけたやかんで沸かしたお湯に、ほんの少しお茶の粉を溶かしたものが回されていく。冷たい食事は、ほとんど喉を通らない。

 「ソール、久し振りにあのお粥が食べたいね」

ヤルルがぽつりと言った。

 「そうだな。」

ここは人の住めない冬の地だ、とソールは思った。結界に守られた王都からわずか一日離れただけで、人々は、寒さに震えながら不安におののいている。

 (今襲われたら、ここの人たちは何も出来ないだろうな)

疲れきって横たわる人々を眺めながら、ソールは思った。――だが、幸か不幸か、敵襲はなかった。その夜も、また次の日も。

 その代わり吹雪は途切れることなく、冷たい風が容赦なく叩きつけて人々を閉じ込めたままにしておいた。


 ――そうして、三日目の朝が来た。




 叩きつける風の音が止んだことに気づいて、ソールは顔を上げた。

 「ヤルル、アルル、生きてるか」

ポケットの中からくぐもった返事がある。二人とも、寒さより、暗闇に閉じ込められていることに疲れているようだ。静まり返った暗がりの中、彼は、手さぐりで出口に向かった。

 この何日も吹きつけつづけた雪が吹き付けて出入り口は凍りつき、仕切り布もまるで氷の板のようだ。だが、風の音は確かに止んでいる。

 外へ踏み出すと、真新しい柔らかい積雪にブーツが足首まで埋まった。どんよりとした雲が速い速度で流れている。辺りは相変わらず真っ白で、耳が痛くなるほど静まり返っている。目の前には、入りきらず外に繋がれたままになっていた馬の死骸がかちかちに凍り付いて転がっている。その側には、雪に埋もれかかった馬車。振り返ると、この町についた時と同じように塔の先が雪から半分だけ突き出しているのが見えた。

 (ハルベルトは、どこだろう)

ソールは辺りを見回した。雪に埋もれた建物の中に避難した兵士たちの中には、彼はいなかった。それに、残りの人間たちの姿も見たらない。この場所に潜っているのは数十人程度だ。音のない世界に、ソールの踏みしめる雪の音だけが響く。

 「キュッ、キュッ」

肩の上でティキが囁く。

 「…そうだな。こんな状態で進軍するのは無理だ。ハルベルトに言って、引き返してもらおう」

そうでなければ皆、精霊使いたちが結界を張る前に、寒さで死んでしまう。北の山どころか、この場所ですら。

 行く手に、雪の重みで斜めに傾いたテントが一塊になっているのが見えてきた。ハルベルトたちの幕営地だ。ほっとして、ソールはそちらに近づいていこうとした。

 どこからともなく、氷の砕けるような不気味にきしむ音が聞こえてきたのは、その時だった。

 「キューッ!」

 「敵?!」

振り返ったソールの頭上に、巨大な氷の巨人が小山のように立ち上がってゆく。

 (何時の間に…)

背後を取られるとは。

素早く手袋をはめ、腰のベルトに挟んでおいた鎚を引き抜きながら、彼は心の中で舌打ちしつつ呟く。だが、幾らなんでも、こんな大きなものが近づいてきていたのなら絶対に気が付く。巨人は、確かに、"今ここに"現われたのだ。

 「ギャアアッ」

悲鳴が上がった。さっきまでソールの居た方角だ。

 (ドラゴン!)

黒い翼が舞い上がるのが見えた。口に咥えられてもがいている兵士の姿がある。助けに行こうと走り出しかけたソールの目の前で、地面から巨人たちが次から次へと生まれ出てくる。

 「何だよ、これ…」

まるで、町そのものが魔女のしもべを生み出す装置と化したかのようだ。ただならぬ気配に気づいて上着のポケットから顔を出した妖精たちは、一瞬、何が起きているのか分からずに硬直する。

 「ヤルル、アルル、ハルベルトを探してくれ。早くここから逃げるんだ。皆をローグレスの町に戻らせないと」

 「う、うん」

 「わかった!」

二人は大急ぎでテントのほうに向かって飛んでいく。ソールは、向かって来る巨人たちに向かって鎚を振り上げた。その向こうでは、雪の下から這い出してきた兵士たちがパニックに陥っている。もはや、戦うどころではなかった。どうやって町まで逃げ帰るか、――だ。

 「ソールたいへん!」

アルルの叫び声。

 「どうした?!」

 「こおっちゃってるの!」

巨人たちの追撃の緩んだ隙をついて、ソールは大急ぎで背後に見えているテントに駆けつけた。妖精たちがテントの中を指差している。半分開いたままの入り口から覗き込んだソールは、思わず口元に手をやった。

 とうに火が消え、冷めてしまった焚き火。焚き火を取り囲むようにして転がる、硬く凍りついた人間の体。

 「何で…」

抵抗した様子すらない。皆、まるで眠るようにして息絶えている。

 「ハルベルトはどこだ」

 「偉い人はいないよ」

 「ここじゃないみたい」

地面がずしんと揺れる。振り向きざま、ソールは鎚を氷の巨人めがけて投げつけた。氷の頭が砕け、体全体にひびが走って崩れ落ちていく。けれど、巨人たちはまるで雪崩のように、次々と生まれて町の四方から押し寄せてくる。とてもすべて倒せる数ではない。

 「ハルベルト! 王様!」

怒鳴りながら、ソールはテントの間を走った。どのテントも静まり返ったまま、どこからも返事はない。

 凍りついた人の体。

 恐ろしいまでの沈黙。

 誰も動かない。――死が落ちている。

 (…くそっ)

唇を噛み締める。

 あの吹雪は、ソールの知らないうちに、戦わずして戦力の半分を奪い去っていたのだ。こんな結果になると分かっていたら、意地でもハルベルトを止めていた。あの時どうして、軽々しく流してしまったのだろう。

 何かが動く気配が視界の端にあった。

 はっとして足を止め、彼はそちらを見やった。ひときわ立派なテントの中に、誰かが動く気配がある。

 「生きてる奴がいるのか?」

叫びながら、近づいていく。入り口のあたりには、息絶えた立派な馬。確か、ここに来る前にハルベルトの乗っていた空を翔る馬だ。そして、その馬の上に覆いかぶさるようにして、男がぶつぶつと何か呟いていた。

 「…ハルベルト?」

それは、間違いなくフローラ姫の連れ合い、エデルの王、この遠征軍の指揮官でもあるハルベルトその人のはずだった。けれど彼は、一瞬、別人かと見間違うほどに、たった三日で異様にやつれて見えた。皮の鎧を身につけ、剣を提げ、冷たくなった馬の鞍にまたがったまま手綱を引いている。

 「何を…してるんだ?」

 「戦うのだ。馬が動かぬ。戦いにいかねば…」

 「その子はもう死んでるよ!」

ヤルルが言うと、ハルベルトは胡乱な視線を上げて、不思議そうな顔をした。

 「死?」

口ひげの上に白く霜が降りていることに、ソールは気づいた。顔色も真っ白だし、口調も曖昧だ。何か様子がおかしい。

 「こんなことしてる場合じゃない。逃げるんだ。早くあんたの仲間たちに撤退を命じてくれ」

 「逃げる? なぜだ」

ずしん、と地面が揺れた。ハルベルトは巨人を見上げ、よろよろと馬を下りて剣を抜く。

 「敵がくるぞ。戦わねば…全軍、突撃だ! 突撃! 旗手はどこだ…」

 「おい!」

思わず駆け寄って掴んだ腕は、ぞくっとするほど冷たい。ソールが思わず手を離した隙をついて、男はなおも剣を振り回しながら巨人に向かっていこうとする。

 「ソール、あの人おかしいよ」

 「たぶん魔法にかけられてるよ」

 「魔法? …」

冬の魔女。

 「…そういうことか」

ソールは思い出していた。フリーダやベイオールとともに奪還に向かった砦、黒い小人たちの住んでいた、あの廃墟の砦で出会った白い女。触れられた瞬間、ぞっとするような冷たさがあった。油断すると、心の奥底まで凍らされてしまいそうな、そんな。


 "今まで、冬の女王に挑んだ何人もの英雄たちが、彼女に攫われてしまったのよ"


ローグレスの第二王女、フィオーラは言っていた。これが、そういうことなのだ。吹雪に紛れて魔女はここへやってきて、人間たちの命と心を奪っていってしまったのだ。

 「ハルベルト。あんたは自分の女のところに戻らなきゃならない。フリーダの姉さんの、フローラのところへ」

 「フローラ…そうだ、私の愛しき貴婦人。あれのために、私は国を…この国を取り戻さねば…」

 「あんたが死んだら意味がない!」

 「キュッ、キュッ」

進み出そうとするハルベルトをソールが掴み、ティキが炎の尾を振りたてる。熱に触れて、一瞬だけハルベルトの眼に正気が戻ったように見えた。だが、それもほんの一瞬だけだ。

 「…戦うのだ」

乱暴にソールの腕を振りほどいて、男は頭上を舞う黒い翼を持つドラゴンを見上げた。

 「国を追われ十五年。一度として勝てなかった。すべて失った――私は王だ。王として生き、王として死ぬ。恥辱のままに生きるなど我慢ならぬ。そうだ、来い。この私と勝負するがいい!」

 「駄目だ――」

ソールは鎚を握ったまま、ハルベルトに体当たりを食らわせた。そして、男の頭ごと飲み込もうとしていたドラゴンの頭めがけて鎚を振り下ろす。鈍い衝撃とともに、足元の雪がずるりと動いた。雪の中から新たな巨人が立ち上がってきたのだ。体勢を崩したソールの頭上に、巨人の腕がある。

 「ソール!」

アルルの叫び声。ばちっ、と目の前に火花が散って、巨人の腕が空中に静止する。

 「今のうち…だよ…っ!」

震えるようなヤルルの声。魔法で、巨人の動きを止めてくれているのだ。頷いて、ソールは目の前に巨人に攻撃を叩き込む。氷の巨人の体が砕け散っていく。一体一体は大したことはないが、降り積もった雪の中から無限に湧いてくるのではキリがない。オラトリオに教わった「加減」を駆使しても、無限の敵を相手にするのは無理だ。さすがのソールも息が上がり始めていた。

 「キューッ」

 「…ああ。俺たちも逃げたほうが良さそうだ」

だが、どうやって?

 周囲は取り囲まれている。ハルベルトは雪の上に突っ伏したまま動かない。走れそうな馬の姿は見当たらない。それに、もし馬が生き残っていたとしても、この新雪の上では思うように走れまい。

 「ソール、…」

妖精たちの声にも力が無くなってきている。彼らは元々、寒さに弱いのだ。このままここで戦い続けていたら、皆、――

 「キュッ、キュッ」

ティキが、少しだけ時間を稼ぐ、と尾を振る。

 「…キュッ」

 「先に行け? お前を置いてなんて」

 「キュッ」

ソールの返事を待たず、ティキは肩の上から飛び降り、雪の上をちょこちょこと走っていく。いつにない、固い意志のようだった。

 「…わかった。」

鎚をベルトに挟むと、ソールは、ヤルルたちを呼び寄せてポケットに隠れるように言った。それからハルベルトに近づいて、体を担ぎ上げる。

 「ティキ、頼む」

 「キュッ!」

リスのような姿がゆらいだかと思うと、その形が崩れ、全体が炎へと変わってゆく。大きく膨らんでゆく、炎の塊。踊るように広がった真っ赤な火が、瞬時にあたりを嘗め尽くした。ティキの発する熱で氷の巨人たちが次々と溶けて倒れてゆく。そこに、道が開いた。

 「すごい…」

 「行くぞ」

妖精たちをポケットに押し込め、ソールは炎の中を歩き出した。背中越しに、ティキの発する熱が伝わってくる。普段はかまどの火を付けるくらいしか仕事をせず、火の側で寝ているだけだったのに。ずっと一緒にいた存在が、家族の一員が、こんな力を持っていたことを今まで知らなかった。

 男を担いでいる肩に、異様な冷たさが伝わってくる。

 生きている人間の体温とは思えないほどの冷気だ。魔法のせいなのだろうか。早く町まで連れ帰って暖めてやったほうが良さそうだ。けれど急く気持ちとは裏腹に、足が雪に沈み込み、早く走ることが出来ない。

 (…いつもなら、こんなに遅くないはずなのに)

山で暮らしていた頃は、どんなに雪が積もっていても、丸太を担いで軽がると歩けた。無茶な行軍のあと何日も狭いところに閉じ込められて、自分でも気が付かないうちに疲れが溜まっていたのか。それとも、巨人やドラゴンたちと戦いすぎたせいなのか。雪の上には、無事逃げおおせた兵士たちの残した足跡が、王都の方角に向かって点々と残されている。ソールは、その跡を辿りつつ歩いていた。

 さっきまで止んでいたはずの雪がちらつき始めた。

 「…こんな時に」

雪の上に残されていた足跡が、かき消されてしまう。

 (寒い)

肩の上に、ティキが乗っていないせいだ。足元からじわじわと染みこんでくる冷たさは、次第に体の動きを鈍らせ、足を止めさせようとする。背中のほうに感じていた熱は、とっくに消えうせている。巨人たちが追ってこないところを見ると、ティキが雪ごと敵の大半を溶かしてしまったのだろうか。

 「ソール…」

ポケットの中から、弱々しい声が聞こえた。アルルが顔を出す。「ごめんね…ちから、そろそろ切れちゃう」

 「ちから?」

アルルの手元から光が消えようとしている。途端に足の先に痛みを感じて、ソールははっとした。

 「もしかして、今まで魔法を?」

こくりと頷いて、アルルはポケットの中に身を沈めた。足の感触が無くなっていく。雪の中をずっと歩き続けて、足の指が凍傷になりかけているのだと思った。それをアルルが今までずっと、治癒の魔法で防いでくれていたのだ。このままでは、帰り着くまでに足がだめになってしまう。

 そのとき、何か生暖かいものが足元に触れた。ティキだ。

 ほっとして声をかけようとした彼は、ティキの様子がいつもと違うことに気づいて思わず足を止めた。

 「…ティキ?」

声も上げず、駆け上がってくる気配もない。足元にぺたりと座り込んで、何か言いたげに耳をひくつかせる。

 「どうした」

 「…キュゥ」

屈みこんでティキの体を片手ですくいあげたとき、ソールは、ようやく状況を飲み込んだ。

 「お前…火が足りないのか」

体が冷たくなりかけている。さっきの、あの激しい炎は、ティキには命がけの攻撃だったのだ。火の精霊であるティキにとっては、火は生命そのものだ。早く、暖炉かどこか、安定した火の側に連れて行ってやらなければ消えてしまう。

 「くそっ」

小さく毒づいて、ソールはティキを妖精たちと一緒にポケットに入れた。妖精たちも、さっきから全く動く気配がない。寒さと無理な戦いのせいで魔力が尽きかけているのに違いない。ティキと妖精たち、そしてハルベルトの命は、今や、ソール一人にかかっていた。


 ――誰も死なせない。


 ソールは奥歯を食いしばり、雪の中から足を引き抜いて、一歩ずつ前に進み始めた。吹雪が容赦なく斜めに叩き付け、視界を真っ白に変えてゆく。気を抜くと足を取られて雪の中に埋もれてしまいそうだった。けれど、ここで倒れたら、二度と立ち上がれないかもしれないと思った。

 (生きて帰るんだ)

出発するとき、階段の上に立ってじっとこちらを見下ろしていた瞳。春の芽吹きと同じ、鮮やかな緑色。白と灰色の世界の向こうに、それが鮮やかに蘇ってきた。

 (あの先にいる)

萎えそうになる足に力を込め、凍り付いて巧く動かない唇を引き結ぶ。彼にはもう、自分の体の感覚はなくなっていた。背負った男の体の冷たさと、ポケットの中で消えていこうとしている温もりと、――それだけが、感じられる全てだった。

 視界の果てに、黒々とした壁が見えてきた。あと少しだ。あそこまで辿り着けば、皆、生き残れる…

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