失踪

 それからサツキさんはまた眠りについた。


 アヤはサツキさんの手をギュッと握りしめている。


 兄ちゃんはどこかへ行ったと思ったら、一分と立たずに部屋に戻ってきた。


 その手にはアヤが落とした注射器が握られている。


 サツキさんが目を覚ました時には安心した表情を浮かべていた兄ちゃんだったが、今はその面影を感じさせない。

 鋭い眼光でその注射器を睨み、怒りで震えた声を出す。


「……アヤ。悪い。ちょっと嫌なこと聞くぞ」

「それのことですよね」


 アヤは兄ちゃんの方を振り返る。

 彼女の目は、兄ちゃんの持つ注射器を捉えていた。


「ああ。これ、どこで手に入れたんだ?」

「貰いました」

「誰に?」

「……サカキ・ウラゾエって人」

「やっぱりか」


 深く頷いた兄ちゃんには心当たりでもあったのだろう。


「サツキもそうだって言ってたんだ」


 なるほど。

 さっきサツキさんは『デマに踊らされて』と言っていた。

 そのデマを流したのが、サカキ・ウラゾエって人なのだろう。


 サカキ・ウラゾエ。


 俺だって聞いたことのある名前だ。


 兄ちゃんが参謀になる前に参謀だった人物。


 言い方を変えれば、天才過ぎる兄ちゃんに役職を奪われた人間。


 もちろん、腐っても元参謀という立場の人間であるため、兄ちゃんにその職を奪われようともそれなりの役職に就くことはできたはず。


 なのにサカキ・ウラゾエという人物はそれをしなかった。


 表舞台から姿を消した。


 きっとプライドが許さなかったのだろう。


 その気持ちは……まあ分からなくもないけれど。


「サカキは、今どこにいる? 俺もずっと探してたんだ」


 兄ちゃんの声は冷たい。


「……今は、ごめんなさい。分からないです」

「そうか。……でも、どうしてサカキがヒサトに能力が宿ってることを」

「それも私が教えました。この前偶然見て……それで、その……暴走させろって」


 アヤは俺の顔を申しわけなさそうにうかがい、また俯く。


「なんだ。あれ。見られてたのか」


 アヤは、俺がキッチンを凍らせてしまった時のことを言っているだろう。


「ごめん。嘘ついてて」

「謝らなくていいよ。ばれたもんはしょうがないし」


 見られたのは、制御できなかった俺のせいでしかないから。


「でも、私……」

「だからいいって」

「まあ、そんなのはどうでもいいことだ。みんな無事なんだからな」


 兄ちゃんが、俺とアヤの水掛け論を遮る。

 場をほぐすためにあえて明るい声を出してくれた。


「それよりも……アヤ、これからサツキのこと任せていいか?」


 しかし、すぐに兄ちゃんの顔つきが豹変した。


 場が凍りつくほどの凛とした威圧感が兄ちゃんの周りに溢れている。

 三度殴った仏の顔より恐ろしい。


 兄ちゃんが何をしようとしているのか、俺は悟った。


 たった一人でけじめをつけに行こうとしている兄ちゃんは、やはり英雄にふさわしい。


「……ダメです。私が全部終わらせます」


 厳粛なオーラを纏った兄ちゃんの前で、それでも否定するアヤ。


「これは、私がしないといけないことなんです」

「それはダメだ。危険すぎる。きっと――サカキはもう分っているはずだ。あの時の俺が嘘の報告をしたってことに。これが何よりの証拠だ」


 兄ちゃんは注射器をまた取り出し、アヤに見せる。


「それは……でも」

「これがあるってことは、相手側に能力者がいる可能性もあるってことだろ?」

「それはでも、見たことないです」

「見たことないだけでいないとも限らない。なんたって……」


 兄ちゃんは苦々しげに口元を歪める。


「ノゾムの遺体の行方はあいつしか知らないんだ。最後に持ってたのは、あいつなんだ。だから探してた。アヤだってあいつに唆されて動いてたんだろ?」

「……それはそうですけど」

「だったら、なおさらだ。そもそもサカキは俺に恨みがあるんだから」

「――俺が行く」


 俺は二人の会話を遮って宣言した。


 兄ちゃんもアヤも難しい言葉を並べて意味のない議論を繰り広げているだけだ。


 もっと単純に考えてくれ。


 こんな会話が続いていること自体おかしいんだ。

 誰がサカキ・ウラゾエのもとに行けばいいか、そんなの決まっている。


「何言ってんだ。お前こそ一番関係ないだろ?」

「相手側に能力者がいるかもしれないんだろ? それが分かってるなら、俺が行くのがベストな選択だろ。だってこの中で、能力者は俺だけなんだから」

「何言ってる? 兄ちゃんだって能力者だ」

「使えないんだろ?」


 兄ちゃんの言葉が止まる。

 ここぞとばかりに、俺はたたみかける。


「だったら俺しかいないだろ。兄ちゃんが俺を行かせたくない理由も分かるよ。けど……今回ばかりは、みんなのために、俺がやりたいんだ。頼む」


 頭を下げた瞬間に、涙が頬を伝った。

 能力を隠す必要はもうない。

 隠したくない。


「……分かった。でも、俺も行くから」


 兄ちゃんはそこだけ、頑なに譲らなかった。


「だから兄ちゃんは使えないんだろ?」

「それでもだ! それでも、そうじゃないと俺は認めない」


 その声にこもっていた感情に抗うことはできなかった。

 兄ちゃんそういう人だ。

 常に非情な現実と向き合い、他人に責任を押し付けることなく生きてきた。


「なーに。能力が使えなくたって、ヒサトと同じくらいには戦える自信がある。なんたって潜り抜けた修羅場の数が違うからな」


 その笑った顔で、弟の不安な心を見通していたというわけだ。

 一人で行くということも、殺すということも。

 一緒に背負ってくれるということなのだ。


「分かったよ」


 俺は観念した。

 笑い返した。


 今、俺たちは兄と弟として会話をしていたような気がする。

 すごく、なつかしい。


「そうと決まれば。アヤ、今度あいつに会う予定だったのはいつだったんだ?」

「明後日ですけど」


 ただ、俺たちは少しばかり浮かれすぎていたのかもしれない。

 

 本来であればこの時、兄ちゃんの問いかけに対して、アヤがすんなりと答えてくれたことに疑問を感じなければいけなかった。


「どこで会うんだ?」

「えっと……もともと、私の家だったところ。今は焼け野原になってるけど」

「そっか。じゃあその時だ。ヒサト。準備しとけよ。あと、どれくらい能力が使えるか、俺が見てやるから。明日、店は閉店にしとけ。俺は今からいろいろと準備をしに王宮へ戻る」

「了解」


 そして、次の日の朝。


 アヤはいなくなっていた。

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