英雄として
家族に
過去の話を終えた兄ちゃんは、部屋に居づらくなったのか廊下に出て行ってしまった。
アヤは兄ちゃんがさっきまで座っていた椅子に座り、未だ目を覚まさないサツキさんのことをじっと見つめている。
アヤは兄ちゃんの話を聞いて、何を思ったのだろう。
分からない。
兄ちゃんは自分のことをあまり話そうとしないから、こんなにも事細かに過去を話してくれたこと自体初めてだ。
弟なのに、兄のことを少しも知らなかったのだと思い知らされた。
英雄として生きてきた兄ちゃんは、俺の何倍も苦しんでいる。
分かっていたつもりだったけど、当の本人の口から語られた内容は想像以上だった。
「……私、最低だ」
不意にアヤが呟く。
「お前がそうなら、俺はもっとだよ」
「そうじゃない。私は、自分だけが辛いみたいに……世界で一番不幸な人間みたいに……」
アヤの丸まった背中が震え出す。
泣いているのだろう。
「それが普通だよ。俺だって、どこかで俺より不幸なやつはいないって思ってた。自分を肯定する方法がそれしかなかったんだ」
愚かで、安直で、悲劇役者を演じていれば楽だから。
俺は唇を噛んで、背後の壁を拳で弱弱しく殴る。
「神様が、人を恨むことをもっと難しくしてくれたらよかったのに」
「難しくても、恨んでる方が楽だからさ、人間はそうしようとするんだと思う。兄ちゃんは特殊だよ。自分より不幸な人間がすぐ側にいたことに気付かなかった俺が言うんだ。間違いない」
「……じゃあ私はどうなるの? 自分より不幸な人間が周りに、こんなにたくさん」
慰める言葉が見つからなくて黙る。
不幸比べほど意味のないものはない。
不幸の真っただ中にいる時は、誰だって世界で一番つらいのは自分だと思ってしまう。
「生きる価値……一番ないのって、私だよ」
「そん、な……こと、ない、わよ」
俺は、その光景に不謹慎だが目を奪われた。
サツキさんがゆっくりとその手を動かし、アヤの頬に優しく触れた。
天使のように微笑んで、アヤの心を優しく包み込もうとしている。
そんな二人を見ているだけの俺も、サツキさんの手に心を触られたような心地だった。
「……サツキ、さん? 目を……? 兄ちゃん! サツキさんが」
慌ててドアを開け、兄ちゃんを呼ぶ。
兄ちゃんは扉のすぐ横の壁にひっそりと佇んでいた。
「えっ! 本当か?」
兄ちゃんと目が合う。
兄ちゃんの目から涙が零れ始める。
「こんな嘘つくわけないだろ」
俺は部屋の中に体を開いて、兄ちゃんのために道を譲った。
「サツキ! 目を……覚まして」
兄ちゃんは走ってサツキさんの元へ駆け寄る。
「トウシロウ。ごめんなさい……心配かけて」
「何言ってんだよサツキ。生きてるなら、それでいいから」
「よくないです!」
兄ちゃんとサツキさんの会話を遮ったのはアヤだ。
その声は、雷がすぐ横で落ちたみたいに大きかった。
「どうして、二人とも私を責めないんですか? 私は……殺そうとしたのに!」
「アヤちゃん。そんなこと、私にはできない」
「私はサツキさんを殺そうとした!」
「私だって、あなたを一度、殺そうとしたでしょ?」
サツキさんが衝撃の事実を言い放つ。
「あの頃のわたしは、デマに踊らされて、憎しみで回りが見えていなかった。兄の死にテツがかかわってるって聞かされて、それで、テツの妹のあなたを殺そうとした」
大事な人を失う悲しみを味わえって、そう思ってたの、とサツキさんは続ける。
「あなたを殺すために、テツに近づいて、テツの彼女として家に入って、あなたを指刺した。本当にごめんなさい。そのせいで、アヤちゃんの女の子の体に傷をつけちゃったわね」
サツキさんがアヤの右のわき腹をさする。
あの傷は、サツキさんがつけたものだったのか。
だからサツキさんは、今日あんなにも怯えていたのか。
それでもちゃんと謝りに来たのか。
「そんなこと、でも、だって……サツキさんも被害者で、ここにいるみんな、被害者で」
「私は加害者になろうとしてしまった。あの時は自分のことしか考えてなくて、何も分かってなかった」
「そんなことどうでもいいんです! 被害者しか生まない戦争が悪いんだから!」
アヤはサツキさんの言葉を遮り、サツキさんの手を両手でしっかりと握りしめる。
「…………私ももう、一人は嫌だから」
アヤは、サツキさんを見て、兄ちゃんを見て、俺を見て、そしてもう一度サツキさんを見た。
「私の、家族になってくれますか?」
「ええ。もちろん。喜んで」
サツキさんの目尻から零れた涙は、本当に美しかった。
兄ちゃんはそんな二人の様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。
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