愛の力は素晴らしい。

「ただいま」

「おお! やっと帰ってきたか」


 俺の陰鬱な声に反応した兄ちゃんは、やたらとテンションが高かった。

 読んでいた本を閉じて、かつては酒瓶だらけだった――今はきれいになったテーブルの上に置く。


「店閉めてたから家にいるかなぁーって思ったのにいなかったから、どこ行ってたのかと」


 やっぱりこの方がいいなと俺は思う。


「別に。汗拭く用のタオル買いに行ってたんだけど……」

「そっかー。鍛冶屋も大変だなぁ。見てるだけで暑そうだもんな」

「そこまで……でもないけど。多分兄ちゃん程じゃないから。客いないときとか暇だし」

「じゃあ暇なときに俺にも鍛治を教えてくれよ」

「やだ」

「なんで?」

「面倒だから」

「そりゃないぜ、我が愛しの弟よ」


 半年前の兄ちゃんからは想像もできないほどの変わりよう。

 兄ちゃんの心に蔓延っていた闇は、家の中の重苦しかった空気と共に、どこかへ行ってしまったみたいだ。


 兄ちゃんの変化の大きな要因は、兄ちゃんの彼女であるサツキさんの影響だろう。


 今度、サツキさんと兄ちゃんは結婚するとか。


 その話をする兄ちゃんの嬉しそうな姿を見たら、俺もまるで自分のことのように嬉しくなった。


 兄ちゃんの心を柔らかくしてくれたサツキさんには、本当に感謝してもしきれない。


 愛の力は、それだけで偉大なのだろうと分かる。


「……でさ、兄ちゃん。まあ、その、あのさ」


 しかし、今はそれとはまったく別の事案のために、俺の心は曇っている。

 何も入っていないポケットの中で手を握りしめた。


「どうした? そんな浮かない顔して」

「いや……さ。実は俺、財布ひったくられたんだ。同い年くらいの女の子だったんだけど、何かさぁ、やっぱ、そうなのかなって」


 それはつい先ほどのこと。

 薄汚い服を着た女の子とぶつかり、そのときは互いに軽く謝って別れたのだが、後でポケットに手を突っ込んでみると財布がなかったというわけだ。


「そっか……」


 流石の兄も口を閉ざす。

 表情に影が色濃く出ている。


「……うん」


 俺も同じように黙り込んでしまった。


 ただ、俺はそのひったくり犯に苛立っているわけではない。


 きっと兄ちゃんも同じだろう。


 戦争は終わったとはいえ、まだまだ国の治安は回復しきっていない。

 ひったくりや万引き等の軽犯罪は日常茶飯事だ。


 もちろんわかっているとは思うが、英雄と呼ばれる兄を持つ俺は、生活に困ってなどいない。

 十五歳にして自分の店も持てている。

 自分が恵まれているとも自覚している。


 だから、ひったくりという行為に対しては、苛立ちよりやるせなさを感じるのだ。

 それを犯さないといけない状況に陥っている人たちのことを慮ると、どうしようもなく胸が痛む。

 

 まあ、今俺が抱いているこの感情も、ひったくりをする人たちの感情を逆なでするものでしかないんだろうけど。


 同情とか憐憫は、立場が上のものが抱く感情だから。

 それに気づかないほど、俺は鈍感じゃないよ。


「すまんな。俺がもっとうまくやれれば。復興がもっと早く」

「兄ちゃんがやってできないことは、他の誰もできないよ」


 むしろ、このペースで復興が進んでいるのは兄のおかげでもある。


 戦争が終わって一年もたっていないのに、王都に住む多くの住人の顔には笑顔が戻っている。

 

「それにさ、発想の転換ってやつ? 俺がお金をあげたって思えば。恵んであげたって思えば」

「……そうだな。でも、やっぱりそれじゃあだめなんだよな……。結局、何の解決にもなってない。それで一時は助かってもまた」

「ああ! そうだ。お風呂入ってくる!」


 俺は逃げるように風呂場へと向かった。


 兄の暗い表情はもう見たくない。


 ぼんやりと脱衣所に入り、服を脱ぎ、浴室の扉を開けて中に入ると――


「なっ……」


 湯船の中に、裸の女の子がいた。

 彼女は、小さな口をぽかんと開けたまま固まっている。


 しかも俺好みの垂れ目!


 いやぁー。


 垂れ目ってだけでその女の子に幼さや可愛らしさを感じるんだよなぁ。

 なぜか守ってやりたくなるんだよ!

 だけど俺は決してロリコンじゃねぇからな――――って何で俺んちの風呂に裸の女がいるんだよ!


 俺は、彼女の程良い大きさの二つの双丘から目を離すことができない。

 肩の辺りまで伸びている黒髪はしっとりと濡れていて、控えめに言ってすごくエロい。

 綺麗な鎖骨もとにかくエロい。


 つまりエロ過ぎる!


 ああ、目を逸らそうとしているはずなのに、一向に裸の彼女が視界の中央から消えてくれない。

 女の子のおっぱいってぶらっくほーるなの?

 これは男だから仕方ないのだ。

 腰のあたりから生まれた熱が身体中に広がっていく。


「ひゃあ!」


 ようやく現実を理解したらしい女の子は、慌てた様子で右腕で胸を隠す。

 左手は股の間に。

 なぜか、大事な部分が隠れたことによってもっとエロくなった気がするんですけど……。


 男の想像力ってスゴい。


「いつまで見てんのよ鼻血垂らすなこの変態クソ野郎!!」


 ああ、この罵倒すらも気持ちがいい――――――ってぇぇぇっ!


 気が付けば、俺の眉間に木製の桶がクリーンヒットしていた。

 きっと時速二百キロは出ていただろう。


 俺は後方に尻餅をついた。

 桶が当たった眉間を手で押さえる。


 ああ、血が流れてるよ。


「……ってぇえ」


 尻をさすりながら立ち上がる。

 また裸の彼女の方を見てしまう。

 

 彼女の顔は真っ赤で、あんなに可愛らしく垂れていた目尻が、今はキツネのように吊り上っている。


 これは……やばい。


 ってかどういう状況?


 そんなこと考える前に弁明しないと。


「……あ、あ、ああ、えっと、その、これはわざとじゃないんだ」

「わざとじゃなくても風呂を除いたことに変わりはないの。この変態っ!」

「だからそれは謝ってるだろ。ってかそもそも何で俺んちの風呂に勝手に入ってんだよ。不法侵入だろ!」

「不法侵入? ちゃんとあなたのお兄さんから許可をー―――って」


 彼女が急に、顔を手で覆った。


 おいおい何やってんの?


 せっかく隠れてた可愛らしいおっぱいがまた姿を現しましたよ。

 股の間も隠さなくていいんですか?

 自分から見せびらかすとかこいつ痴女なの?

 露出狂なの?


 こいつの方が変態じゃん! 


「あ、あんたいつまでそんなもの見せてんのよ! 早く出てって! 早く!」

「そんなものって、見せてんのはお前じゃ――――っ!」


 彼女の顔を覆っている指の間からは、彼女の目がのぞいている。視線の先には、俺の股間があった。


「ああああああ」


 そうだ!

 俺も裸だったのだ!

 風呂に入ろうとしてたんだからしょうがないじゃん!

 しかも彼女の裸を見たせいでちょっと――これ以上は言及しません!


「わわ悪い。すまん! 忘れてた!」

「いいから早く出てけ! このド変態!」


 俺は、あわてて脱衣所へと逃げ帰った。


 閉めた扉に背を預けた途端、身体中から力が抜けていく。

 そのまま座り込んだ。


 ああ、年頃の女の子に対して悪いことをしてしまったなぁ――あれ? これは本当に俺が悪いのか?


 まあ、女子の入浴現場を目撃してしまったことは謝らなければならない事案なのだが、そもそもなんで人んちの風呂にいるんだよ。


 しかも年頃の男子のチンアナゴをチラチラ見て勝手に恥ずかしがってるのもじゅうぶん変態だと思うのだが。


 ――それに。


「あいつ、さっき俺の財布を」

「ヒサト悪い! 風呂には今、アヤが」

「もう遅いよ! 先に行ってくれよ!」


 ってかそうだ。全ての元凶は俺の兄ちゃんじゃないか!


 あいつ、確か兄ちゃんから許可がどうのこうのって言ってた気がする。


「いやぁ。すっかり忘れてたよ。すまんすまん」

「んまあ、別にいいけど」


 簡単に許したのは、兄ちゃんの不手際のおかげで女の子の裸を見られたから、じゃないですよ。


 ただ単に、怒るための気力がわかなかっただけですよ。


「……ってかさ、何で他人がこの家にいるわけ?」

「それは、まあ……部屋に戻って話すから。とりあえず服着ろよ」

「分かったよ」


 俺は服を着直して、兄ちゃんと一緒にリビングへ戻った。


 ってかあいつのわき腹、何かで刺されたような五センチほどの傷跡があったけど……。


 まあ、俺には関係ないか。

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