せっか



 日差しのぽかぽかとしたのどかな初秋のある朝、目覚めてすぐに自分が猫になっていることに気がついた。

 たしかに毎晩寝る前に「ねこちゃんになりたいな~」などと呑気なことを考えないわけではないが、あまりに唐突過ぎてわけがわからない。概念の「ねこ」になりたい欲は全人類もれなく抱いているだろうが、生物の猫として生きていきたいと思っている人間が果たしてどれほどいるのか。そもそもそんな人がいるのだろうか。少なくとも私は概念のねこに来世を懸けていた側だった。はずなのに。

 とはいえ、なってしまったものは仕方がない。このまま猫として生きていくにも、人間に戻る道を探すにも、まずは短期的に差し当たる身の振り方を考えなければならないのだ。

 とりあえず、独り身の私には行く宛ても寄る辺も特にないので、都内の小さなワンルームで何も発生しない日々を過ごしていた以上、急に私が消えて困る人もそうはいないだろう。まあ家賃だの水道光熱費だのは数カ月滞納することになるだろうけど、それまでに人間に戻れなければ部屋ごと勝手に引き払われるだけだ。命より惜しいものが部屋にないので、失踪扱いで全部処分されてもしょうがないと割り切れる。

 それよりも明日のご飯だ。そもそも猫は何を食べているのだろうか。玉ねぎとチョコレートはダメ、っていうのは聞いたことがあるけど、それ以外には何にも知らない。とりあえずスマホで調べる。当然ながら顔認証は弾かれたが、肉球のパスコード入力はふつうに反応した。あの素晴らしき肉球がこの手に付いたらどんなに幸せか、と思ったことは何度もあるが、実際に猫になってみると、自分の肉球にはなんの感慨も抱かない。やはり人間の指でぷにぷにしてこその肉球なのだろうか。他人の耳たぶを触ると面白い感触がするのと同じか、としょうもないことを思った。

 調べてみると、意外と食べられるものが少ない。そもそも生の野菜はほぼアウト。魚介類も大丈夫なのは赤身・白身のうちの数種類程度。肉は種類問わずいろいろ食べられるものの、生は避けた方が良い、と。

 さて、どうしたものか。この体では料理などできるはずもない。かと言って、キャットフードを買おうにも猫の姿ではレジでの会計もできないし、そもそも缶詰とか開けられない。実際猫の手を借りても、できることってそんなにないんだなぁ。いや、そんな呑気な事を言っている場合じゃない。衣服はもう要らないにしても、食と住まで現在進行形で失いかけているのは非常にまずい。街の先輩猫に餌の捕らえ方でも聞いてみるか、と思って、とりあえず家を出ることにした。


 うちはボロアパートなので、ベランダ同士の距離がだいぶ近い。玄関のドアは開けられなくとも、ベランダをうまく伝って行くと、案外簡単に外に出られた。防犯上は最悪だが、ベランダの窓の鍵を開けっぱなしにしておいてよかった。

 手摺から地面にすとんと飛び降りる。体がとても軽い。どうしてはじめての四本足で違和感なく歩けるのか不思議だが、この感覚が生来備わっていたものであるかのように、私の身体は自然に、素早く滑らかな猫の動きに適応していた。小さな足で枯れ葉を次々と踏みつけながら走る。ただでさえ軽い身体が、風に乗ってさらに軽くなったかのようで気持ち良かった。

 お昼時を迎えたこの小さな街には誰もいない。そもそもここは上京してきた学生や社会人が通勤通学にそこそこ便利な部屋を借りるためだけに存在している街だ。駅の西側にはこぢんまりとした繁華街があるが、その半分はホストクラブだのキャバクラだのの立ち並ぶ、いわゆる夜の街。若者層の需要とはあまり一致していないので、若者は都心まで遊びに行ってしまうし、そのせいで客の集まらない繁華街は年々廃れていっている。もともと歴史のあるクラブ街だったらしいのだが、数年後にはその界隈で全国的に名の売れている(らしい)数件しか生き残らないだろう、という話を聞いたことがある。そういうわけで、平日のお昼時にこんな街をうろついている人など、まずいないのだ。

 人がいないと街は静かである。街が静かだと、その分聞きとれる音の情報が増える。猫になって聴覚が鋭くなったのもあるだろうが、カサッ、という普段は気にも留めないほど小さな音に気を引かれた。音のしたほうに目線をやると、そこには民家のブロック塀とその前に置かれた二台の自動販売機、そしてその隙間に置かれたゴミ箱。ゴミ箱の上に飛び乗ってみると、ちょうどゴミ箱の陰になるところに一か所だけブロック塀の崩れている部分がある。その穴の向こうからもう一度カサッと音がした。


 おそるおそる足を踏み入れてみると、そこは野良猫の集会場だった。穴は民家の庭の植木の裏側につながっていて、緑に囲まれた、人目の届かない空間になっている。そこに野良猫たちが集まってのんびりしていた。

 こんにちは、と挨拶する。喉からは人間の声ではなく、猫の鳴き声が出た。いかにもリーダー格っぽい、鋭い切れ長の目をしたサビ猫が、新入りか、と猫の鳴き声で尋ねてきた。まるで昔から話していた言語であるかのように内容を理解してしまい、とても不思議な気分になった。


今日はじめて猫になった者です。昨日まで人間でした。

妙なこと言う奴もいるもんだ。まあ座りな。


 とりあえず座る。


昨日まで人間してたんじゃ飯の食い方もわかんねーだろ。んまぁそれが本当か嘘かは知らんがな。

そうですね。ごはん何食べればいいかわかんなくて。

じゃあお前さんには一番基本的なことを教えてやろう。猫の生き方についてだ。まず猫に生まれたら、二つの生き方からひとつを選ばなきゃならねぇ。人間に生かされるか、人間と関わらずに生きるか、だ。この選択ひとつで飯も将来も大きく変わる。人間と関わらずに生きるなら、飯は自分で捕まえなきゃならんし、住処も家族も全て自分の力だけで守らなきゃならん。ちなみにここに集まっている猫はみな人間と関わらずに生きてきた奴らだ。お前さんもそうすると言うなら鼠の捕まえ方くらいはバッチリ指導してやるよ。

ちなみに人間と関わる生き方はどうなんですか? ごはんとかタダでもらえそうだけど。

まあ飯やら住処やらは保証してもらえるな。あとは寝てればいい。

そんなに楽なのに、なんでみなさんは人間と関わらないで生きているんですか?


 サビ猫は声のトーンを落とした。


そりゃメリットの裏にはデメリットってもんがあるからだ。いいか、人間ってのは馬鹿みたいに長く生きる。それに比べて猫の一生ってのはあまりにちっぽけだ。俺らの世代が楽して生きたら、俺らが死んだあと祖先は人間の下でしか生きていけなくなっちまう。しかも、そのくせ人間ってのは実に勝手に死んだり消えたりする。そういう奴らを当てにして生きる以外の道を知らない子孫が、ある日を境に急に自然の中に放り出されたら、あっという間に根絶やしだ。楽をするってのは、牙と爪を自分で捨てるってことだ。お前さん、もとは人間だったんだろう? ときどき飯をやってた野良猫とかいなかったか? ここはそういうやつが数日後には野垂れ死んでいる世界だ。


 たしかに、猫に餌をやったことがある。買い物帰りに弱った猫に遭遇して、ちょうど買ってきていた牛乳をあげたら、とてもおいしそうに飲んでいた。あまりにおいしそうにしていたのがかわいかったので、今度会った時には食べ物もあげようと、飼ってもいないのに猫缶を買って持ち歩いた。で、その子に遭遇するたびに猫缶をやっていた。


本当にいたんだな。責めるつもりはなかったが、人間に頼るっていうのはそういうことなんだ。猫は人間よりもずっとあっさり死ぬってのは覚えといたほうがいい。


 Cat has nine lives. ってのは猫がしぶといって意味じゃくて、むしろあっさり死ぬんだぜってことなんだ、まあ八回分も来世があるって信じときゃ多少は気も楽ってもんだろ、と集まっている猫たちは笑っていた。


で、お前さんはどうすんだい。安っぽい希死念慮とは距離を置いた生き方をするってんなら、人間と関わらずに生きていく術を教えてやろう。その時はまたここに来るといい。人間の下で生きていくってんならこれ以上俺らから教えることはない。まあ、お前にとっちゃ猫初日だからな、ゆっくり考えるといいさ。


 生きている世界が違う、と思った。人間から猫になったのだから当たり前のことかもしれない。しかし、死と隣接しながら、悲も恐もなくここまであっけらかんと生きる世界があるのか、と思った。そして、これからこの世界で生きていくのか、とも思った。悲の感情も恐の感情もなかった。この小さな身体には少しばかり衝撃が大きかったのかもしれない。

 ありがとうございました、とちいさく呟いて、自販機の奥のふしぎな小部屋から立ち去った。


 相変わらず身体は軽かった。むしろ軽すぎる。もし曲がり角で自転車にぶつかったらとか、もし車が突っ込んできたらとか、もし分別もつかない子供に蹴り上げられたらとか、そんなことばかりが気になってしまうような、いやな軽さだ。この重い足取りは気が沈んでいるのではない、こうでもしていないと、いやに軽い身体がどこか遠い所へ飛んでいってしまうかもしれないから、と自分に言い聞かせて歩いた。しかし私の足取りが重くなっていることは紛れもない事実として現前している。風に乗っているようだとさっきまで走り回っていたというのが嘘のように感じてしまうほどの重い軽さを感じながら、とぼとぼと街を歩いた。


 とりあえず家に帰ったが、こんなところに帰ってきてもどうしようもない。調理もできない、冷蔵庫も開けない、袋や缶すら開けられない、そんなんじゃ食べられるものがない。またとりあえず、と街に出ることにする。気付けば太陽は帰り支度をはじめていた。


 ネズミを捕らえるにしても、人間からエサを貰うにしても、まずは繁華街に行くのがよかろう。そう思って歩いてきたが、駅に近づくにつれて人が増えていって、だんだん歩きづらくなっていく。学生や社会人の帰宅時間が始まっているのだ。歩道を歩いていると、人間の足が暴力的な振り子のように次々と横を掠めていき、繁華街の手前まで来たところでたまらず裏路地へと逃げ込んだ。

 繁華街へ行くには、駅との間に横たわる車道を渡らなければならない。廃れているとはいえ、駅前なのでそれなりに車が通る。近くに歩道橋はなく、向こうへ行くには横断歩道を渡る必要があるのだ。

 当たり前な話だが、そもそも街、特に駅前は人間のためだけに設計されている。猫が道を渡るすべなんて考えられているはずはなく、むしろ猫の方が、渡れない道路に合わせて自分たちの生活圏を区切っていかなければならない。猫の生活圏は車がひっきりなしに通るような道路を跨いだりはしないのだ、と本で読んだことがあるが、それを当事者として感じ取る機会が来るとは思っていなかった。しかし、駅側に留まっていても隠れる場所や食料はない。意を決して渡ることにした。

 車の急流の中に突っ込むわけにはいかないので、とりあえず青信号の横断歩道から渡らなければならない。意を決して裏路地から出て、駅の方に向かおうとした矢先に、サラリーマンに尻尾を踏まれた。痛い。高い音が背筋から頸椎に響いてくるかのような痛みに思わずうずくまった。しかし、何度もこんな痛みを味わってその度にうずくまっているようでは身が保たないし、いつまで経っても道を渡れない。歩道の端を一気に駆け抜けることにした。


 横断歩道の前まで辿り着いた瞬間に信号が青に変わったのは幸運だった。途中何度か尻尾を踏まれたり頭をぶつけたりした気はするが、夢中で走っているうちに道路を渡りきっていて、気付けば繁華街の入り口になっている駅前広場に着いていた。

 この広場より北側に行くと飲食店の並びがあり、南側はクラブ街になっている。クラブ街の治安がよろしいはずはないので、広場に立っている「一番街」と書かれたゲートの足下にはちいさな交番がある。ちなみに出動する機会が多いからかどうかは知らないが、交番の出入り口は南側を向いているし、建物横の自転車もちゃんと南を睨んでいる。

 とりあえず北側の飲食店の並びの方へと向かう。正面からお店に入っても何もできないので、まずは店の裏側に回ることにした。

 ひとつの道路に沿うように店が並んでいれば、店の裏側も同じように一本の道に沿って並び立っているはずである。裏に回ると、店員が食材の搬入やゴミ出しなどを行うための、狭くて小汚い道があった。もう日が暮れてきているのも相まって、全てのものが薄黒く見える。室外機の生暖かい風を受けながら食べられそうなものを探した。猫の身体にしては歩きすぎたのだろうか、お腹はひどく空いていて、食べられるものなら何でもよいという気分になってくる。

 そのとき、視界の端を走り去っていく影が見えた。そう思った時には左の前足が動いていた。影を横薙ぎに弾き飛ばす。そのまま壁にぶつかって動かなくなったものの正体はネズミだった。これが狩猟本能ってやつなのか。自分の手捌きに惚れ惚れしつつ、食料も得られてホッとした。

 いや待て、食べる? これを? よく見るとほんの僅かに膨らんだり萎んだりしている。呼吸しているのだ。気を失っているだけで、まだ生きている。

 ごちそうに齧り付こうと口を大きく開けた体勢のまま、それに気付いて背筋が凍った。足も、口も、ひどく震える。

 このひと噛みでこいつは死ぬ。死んで、次の瞬間にはただの肉の塊になる。簡単なことだ。しかしどうしても震えてしまう。はじめてあのサビ猫の言っていた厳しさがわかった。この一歩を踏み出せない者から死んでいくのだ。現に私は飢えていて、他に食べられる物はない。喰うしかない。すぅっと深呼吸をしてから、思い切って噛みついた。

 歯が突き立った瞬間、鉄とドブの臭いが口の中に色濃く広がる。それと同時に鼠が激しくのたうち回る。味や臭いに加え、鼠が口の中で今まさに最期の抵抗をしていることに生理的な嫌悪感を覚え、噛みついたことを激しく後悔した。しかし、自分の歯はもう半分ほど突き刺さっている。今更引き返せない。目を瞑って強く噛み千切った。

 鼠の半分はギッッ、という少々滑稽な音を立ててぼとりと落ちた。残る半分は、口の中で先程とは比べ物にならないほどの鉄とドブを撒き散らし続けている。たまらず吐き出した。臓物の端っこが歯に引っ掛かり、背筋が凍った。

 さっきまで灰色の水風船のようだったものは、赤とピンクの肉塊になっていた。あまりの気持ち悪さに吐いていると、ぬっと野良猫が現れた。

 どうした? 殺したのに食わねえのか? 脂の乗った上物だぞ。

 走って逃げた。いろいろなものが、この一瞬で全部決壊した。背後では、獣が獣の屍肉をぬちゃぬちゃと貪っていた。人間だったら大声で泣き散らしていただろうが、猫の身体では泣けなかった。たぶん、猫はこわいとかつらいの回路と涙の回路が繋がってない。涙では放出されないこわいとつらいを紛らわすために、さらに速く走った。


 とはいえ、飢えた身体ではすぐに力尽きた。ホスト街の奥まで来た辺りで体力もなくなり、地べたにうずくまる。日もすっかり落ちて、夜の街は少しずつ活動をはじめていた。しかし、ここは客入りのほとんどない煤けたホストクラブの従業員用駐車スペース。客が入らないからクラブ街の並びの一番奥なのか、一番奥だから客が入らないのかはわからないが、店の入り口を見ただけで栄えてないのはわかった。駐車スペースは狭く、中途半端にでかくてギラギラしたバイクが三台ほどと、あとはスクーターや自転車がいくつか停めてあるだけだ。こんなところに餌をくれそうな人はまず来ない。

 そう、食料じゃなくて、餌でいい。プライドとかそういうものは端からない。なにか食べられるものをくれさえすれば何でもいい。人なんてろくに通らないのは知っているが、私の方が動く体力はもうない。誰かが通りがかるのをひたすら願うだけだ。

 秋の夜は寒い。そのため、コンクリートは良く冷える。地べたにうずくまっているとどんどん体熱と体力を吸われて、このまま真夏に地面に落としてしまったアイスクリームよろしく溶けてしまうんじゃないかと思った。わずかに残った力で、一番大きなバイクのシートによじ登った。



 それから何時間経っただろうか。店の通用口から二人組が出てきた。たぶんここに勤めているホストだ。派手な身なりで金属のアクセサリーをジャラジャラさせている。歳は二人とも三十半ばあたりだろうか。こっちに向かって歩いてくる。何をくれるか、と思っていたが、次の瞬間もらったのは餌ではなく拳だった。

「きたねーだろ! 誰のバイクにのぼってんだコラ!!」

 宙に舞う。猫の本能は足を地面に向けるところまでしかしてくれない。微妙に力の入りきらない足四本では着地の衝撃に耐え切れず、そのまま転がってしまった。ふざけんなこのボロ雑巾の分際で、とホストの男は怒り散らしている。つかつかとこちらまで歩いてくると、その足で私の腹を蹴飛ばした。もうひとりの男はいいっスね~、とかなんとか言いながらヘラヘラと傍観している。死がすぐ隣に迫ってきているのを感じた。男たちもこちらへ迫ってきていた。

 そのとき、通用口がまた開いた。

「おつかれさまでーす……って何やってんすか! やめてあげてくださいよ!」

 童顔のかなり若い男だ。体も小さい。

「動物いじめちゃだめっすよ! 動けなくなっちゃってるじゃないですか!」

「あ? んじゃあテメェが代わりに殴らせてくれるってのか?」

「じゃあ僕を殴ってください」

 若い男は、少し震えながら、それでも毅然とした態度で言い放った。

 コイツもいちおうホストなんスから見えるところに跡残しちゃだめっスよ、わかってるって、という会話に続いて、ドスッという音が聞こえ、若い男は腹を押さえて私の隣にうずくまった。

「そもそも僕っていうのが気に入らねーんだわ」

 そう言い残すと、二人は若い男に排気ガスを吹き付けるようにバイクに乗って、そのまま去っていった。


「いてて……。お前はだいじょぶか? うわっ、口元に血ついてるぞ! あ、でも固まってる……。今切れたわけではないのか……?」

 彼の胸元にはミナトと書かれたネームプレートが付いていた。彼のものらしき荷物はそこに落ちているが、着替え忘れているのだろうか。ネームプレートを爪でコン、と小突いてやると、やべっ、着替えんの忘れてた! と慌てだした。

「ちょっと着替えてくるから物陰に隠れて待っててな!」

 ミナトはそう言うと走って店内へと戻っていき、数分でまた走って出てきた。

「おまたせ! お風呂入れてあげるからうちに来なよ」

 狭いけどね、とミナトは笑い、私の身体を両手で掬い上げて歩き出した。

「その前にまずはごはんだな! 僕のは冷蔵庫にあるけど、にゃーのごはんは買ってかなきゃな。なにがいい?」

 にゃーってなんだ。私のことか? まあたとえ頭がゆるくても、餌をくれるなら何でもいい。ミナトは私を抱えたまま駅前のコンビニに入る。自動ドアが開くとすぐに、女子高生くらいのバイトの店員のおずおずとした声がした。

「あ、あのお客様、店内はペット禁止でして……」

「あっ! そうですよね! すいません今出ます! ごめんな、ちょっとお店の外で待っててな」

 あ、地べたじゃ寒いか、とミナトは羽織っていたシャツを脱いで地面に敷き、その上に私を乗っけると、小走りで店内へと戻っていった。

 首を伸ばしてガラス越しにミナトの様子を観察してみる。商品を次から次へと手に取って、ときにはパッと明るい顔をし、ときにはうーんと微妙な顔をする。表情がいちいちコロコロ変わるので、見ていて飽きないやつだと思った。

 ミナトはひとしきり商品を選び終えるとレジに向かった。会計をしているさっきの店員の頬が少し赤くなっている。声は聞こえないが、ホストの色気にあてられてる、といったところか。まあ頭は少々ゆるそうだが、確かに顔は良い。夜勤の女子高生には刺激が強すぎただろうか。

 そんなことを思いながら観察していると、ミナトが会計を終えて出てきた。

「おまたせ~。おいしそうなのたくさん買ったぞ」

 へへへ、と笑いながら、ミナトは私を抱き上げて歩き出した。

「僕ね、先月からさっきのお店で働き始めたんだ。あっ、コンビニじゃなくてホストクラブの方ね! まだ新人でいろいろ大変なこともあってさ~。でも給料いいし僕に今できそうな仕事これくらいしかないからさ、がんばってる。ま、でもにゃーもいろいろ大変だよな」

 そんな話をしているうちに彼の住んでいるアパートに着いた。一○四号室の前で立ち止まると、ミナトは鍵を取り出した。窓から照明の光が漏れている。カチャっと鍵の開く音がした。

「ここここ! ただいまー…… ってやべ!」

 ミナトは急に私を背中の後ろに隠す。すると部屋の奥からおかえりー、という声が聞こえてきた。

「あっ、マチさん……。来てたんすね……」

「なに? わたしが来ないほうがよかった?」

「いや! いやいやいや! そんなこと、ない、すよ……」

「なんか隠してない?」

「え! 何言ってんすかやだなー!」

 深夜一時をとうに回っているはずなのに、ふたりは声を抑えることも忘れている。ちょっとおもしろいので、ニャーと鳴いてみた。

「ほら隠してんじゃん! って猫?」

「ばか! 鳴くからバレちゃったじゃん!」

「いや別に猫くらい隠さんでもいいのに。あんたいつか野良猫とか拾ってきそうだなーって思ってたし」

「あれ……怒らないの……?」

「だから怒らないってば。てかその子口元ケガしてない? 血ついてるじゃん」

「そうなんだよね、ごはん食べさせたら動物病院に連れていこうかなって」

 ミナトはようやく家の中に入り、玄関の扉を閉めた。

「あんた明日初めての同伴でしょ? わたしは一日休みだからわたしが連れてっとくよ」

 マチは、ミナトから私の身体とコンビニの袋を掬い取ると、軽めにごはん作ったから早く食べな、とミナトの背中をぐいぐいと押した。


「猫って餌どうやって食べさせればいいんだろ……? とりあえずお皿に出せばいいのかな……?」

 マチは猫缶を開けて、中身を小皿に出した。

「牛乳あっためてあげるから先にそっち食べてなー」

 目の前に差し出された猫缶の中身は、ものすごくおいしそうな匂いを漂わせていた。ごくり、と喉が鳴る。

「いいよ。遠慮しないで食べなって」

 マチが笑いながらそう言うので、一口食べた。とてもおいしい。猫缶は人間が食べてもおいしいと言うが、ここまでとは思っていなかった。まあ人間が食べたらお腹を壊すのだが。思わず二口目に手が、いや口が伸びる。三口目以降はガツガツと食らいついていた。

「お、いい食べっぷりじゃん。ほらミルクもできたぞ~」

 マチが深皿に入れたあたたかいミルクを持ってきてくれた。舌で掬い取ったわずかなミルクが、よく胃に沁みる。

「誰もとらないからゆっくり食べなよ」

 マチは私の背中をさすりながら、後ろを振り返って、あんたは早く食べてよねー、と大声を出す。馬鹿正直にごはんを急いで掻き込むミナトを指差しながら、あいつ、バカだけどかわいいでしょ、と私に言った。


 マチはこの街で一番の高級クラブで、ナンバー4のホステスをしているらしい。そんなわたしが潰れかけの店で新人ホストやってる年下の男と付き合ってるなんて誰も思わないだろうね、と私に語り掛けた。ミナトもそうだが、このふたりは何かにつけて私に語り掛ける。猫なのに。ときどき申し訳なくなってニャーと返事してやると、すごい喜ぶ。ちなみにマチはちょっとださいから、源氏名はエレナでやっているらしい。

「わたしもそこそこ稼いでるけどさ~、わたしもう二十五だし、そろそろ引退のことも考え始めなきゃなと思ってるの。だからそのうち辞めるかもね。あんたが大手のホストクラブに移籍してさえくれればすぐにでもこの仕事辞めれるのにねー。てか早くうち来なよ」

 ねー、と私に同意を求められても困る。とりあえずニャーと言っておく。

「ほら~この子もそうだそうだって言ってるよ」

「そんなこと言われたってまだ一か月の新人なんだけど……」

「一か月で同伴まで取れれば順調でしょ。移籍にしても辞めるにしても、そんないちいち殴ってくるようなクソ野郎がいる職場、さっさと出てった方がいいって」

「でも働きたい。働いてマチさんも養えるようになりたい」

「じゃあ明日の同伴を完ペキにこなす! そんでどんどん顧客を増やす! で、さっさと移籍する! おっけー?」

「がんばります……」

 無理はしないでね、とちゃんと付け足すあたりがホステスの大事な資格要件なのか、それとも単にマチがミナトにぞっこんなだけなのか。

「ところでこの子の名前決まってるの?」

「んー、とりあえずにゃーって呼んでる」

「ダサ……」

 確かにダサい。できればもうちょいマシな名前が欲しい。

「どうせこの子飼うつもりなんでしょ? 飼い猫にするんだったら付けたい名前あるんだけどいい?」

「もちろん! なんて名前?」

「イブっていうんだけど……」

「めちゃかわいい! じゃあお前は今日からイブだな!」

 まあにゃーよりは良かろう。ニャーと鳴いておいた。

「……今の、やっぱりにゃーが良かったのニャーなんじゃ?」

「同意のニャーに決まってるでしょ! バカなこと言ってないで早くイブとお風呂入って!」

「はーい……」

 ミナトが、やっぱにゃーがいい? としつこく聞いてくるので、今度はシャーッと明確な意思表示をしておいた。


「イブすごいいい子だった! お風呂ぜんぜん逃げなかったよ!」

 ほかほかのミナトに抱きかかえられながらお風呂を出た。足も口元も綺麗にしてもらったので、とても気分が良い。そのままドライヤーまでしてもらった。

 ミナトの寝支度が済むと、マチは電気を消した。

 マチさん今日は泊まってくの? うん、一緒に寝ようかなと思って。

 ミナトに抱きかかえられて、ベッドの真ん中に降ろされた。それから左右に寝転がったふたりに撫でられているうちに、意識は落ちていた。



 翌朝、マチに動物病院へと連れていかれた。どうやら口の周りはぜんぜん切れていなかったらしい。まあ例の鼠の血だろう、思い出したくもないけれど。マチは獣医さんから餌のやり方や食べさせちゃいけないもの、あとは動物虐待を受けていたのならいちおう定期健診に来ることをお勧めする、とか、これから猫を飼う上での注意事項を熱心に聞いていた。私はそれを傍で聞きながら、自分のことなのに初耳のことが多くて不思議な気分になった。マチはついでに獣医オススメの猫砂も買っていた。

 病院がすぐに済んでしまい、そのまま抱えられてマチの家に行った。結構豪華な賃貸マンションだ。しかも彼女の部屋はその七階である。

「それぞれの家があるの、ちょっとバカらしいよね。わたしは早く引っ越して一緒に住みたいんだけど、ミナトが自分で稼ぐからって。わたしに養われてる方が楽なのにね」

 そう言いながら玄関のドアを開けると、私を床に降ろした。

「なんもないけど好きに遊んでいいよ」

 昨日見た雑多なワンルームのミナトの部屋とは真逆で、とても広い部屋だった。おまけに家具が最低限しかなく、空白、という印象を強く受ける。

「あ、ベッドルームはこっちね。開けとくから好きに入っていいよ。あと猫砂はリビングの隅に置いとくからね」

 猫相手じゃ絶対に伝わらないようなことを言いつつ、マチは買ってきた猫砂キットを広げていた。しばらくはここで暮らすことになりそうなので、部屋を探索する。リビングはかなり広いが、食卓と椅子二脚、あとはテレビしかない。リビングに面して大きな窓がついており、そこを出るとベランダのようだ。しかしエアコンの室外機が隅に置いてあるだけで、他にはなにもない。サンダルなどもないところを見ると、ベランダはほとんど使っていないのだろう。廊下の方に行くと左右にはお風呂とキッチン、さらに玄関の方まで行くとトイレとベッドルームの入り口がそれぞれ出てくる。ベッドルームの扉が開いているので中を覗き込む。すると後ろから猫砂を敷き終えたマチが歩いてきた。

「気になる? 入っていいよ」

 マチと一緒に部屋に入る。この部屋だけ毛足の長い、白いラグが敷いてあって、足元がとてもふかふかだ。けれど、家具はやはり少なくて、鏡台とベッド、小さめの机の上にノートパソコンが置いてあるだけだ。ちなみにどれも白い。カーテンも白かった。

 マチは電気も点けず、ベッドに横になる。イブおいで、一緒に寝よ、とマチは手招きする。ぴょん、とベッドに上がった私をマチはその手で抱き締めて、頭を撫でながらぽつりぽつりと独り言を垂れ流しはじめた。


 わたし、不安なの。こんな職業で金を稼いでる人間が、まともに結婚できるとは思ってないけど。いつかミナトが盗られちゃうんじゃないかって。あの子かわいいから、もう同伴指名までもらって。そのうちいつかわたしよりもずっと金持ちで美人な客が現れて。そのままミナトがいなくなっちゃうんじゃないかって。

 あの子をこの世界に引き込んだのはわたしなの。あの子、母子家庭でね。お母さんは元ホステスで、客と結婚したけど、子供ができてからすぐに離婚したんだって。もともとヒスの気があったけど、離婚を機に拗らせたみたいで。それでつい二カ月くらい前に鬱がひどくなって精神病院に入院したの。それで入院費や治療代を稼がなきゃいけないからってホストの仕事をはじめて。わたしが止めればよかったのに、止められなかった。厳しい親への反発ではじめたわたしとは重みが違ったの。

 ホストとかホステスの仕事ってさ、精神を病んでる親の下で育った子にはすごく向いてるんだよね、残酷な話だけど。怒らせないように、気持ちよくなるように、様子を伺いながら生きてくるから。それをそのままお客様にやればいい。もちろん細かいテクニックとかはあるけど、事情を抱えてる子ってのは基礎ができてる。でもさ、病んでる人間の子もやっぱりどこか病んでるんだよ。蛙の子は蛙ってやつ。蛙、知ってる? 食べたことあるかな。まあいいや。ミナトはずっとお母さんに縛られ続けてる。正直、捨てればいいと思う。でも、捨ててわたしと暮らそうって言ったけど、毎月お金は振り込み続けてる。

 あの子を解放したい。でも、わたしの思う解放が、本当にあの子の解放なのかわからないの。たぶんあの子って言ってる時点でだめなのかもしれない。来月ミナトは二十歳になるけど、大人になって、私のもとからいなくなっちゃうかもしれない。でも引き留めたい。でもそれはあの子にとって良いことかどうかはわからない。好きだから。


 最後にマチは、人間って醜いでしょ、これ独占欲って言うんだよ、と呟いた。私を優しく撫でながら、すすり泣いていた。



 はじめての同伴は何事もなかったらしい。お客さんが十五年以上ホストクラブに通い詰めている人だったらしく、良い食事を奢ってもらいながらホストの心得やらなんやらを説かれ、最後にはしきりに「君はダイヤの原石だからもっとおっきなお店でもやっていけるよ! 移籍する時はぜったい教えてちょうだいね!」としきりに言われたそうだ。仕事を終えてマチの家に来たミナトは、にっこにこで今日の出来事について話していた。

「はーあ、なんか心配して損したわ」

「ん、心配? よくわかんないけど、やらかさなかったと思う!」

「ならよし。おつかれ」

「ありがとー。あ、イブどうだった?」

「とりあえずは大丈夫そうだって。オススメの猫砂も買ってきた」

「そしたらイブはしばらくこっちで飼うって感じだね。毎日会えなくなっちゃうのはさみしいにゃあイブ~」

「住めば?」

「いいの!?」

「前から部屋買って一緒に住もうって言ってんじゃん。この部屋はふたりで住むにはちょっと狭いかもしれないけど、まあ終の棲家ってわけじゃないし」

「やった! 実はちょっと遠慮してたんだよね……。もし他に本命の人とかいたら悪いかなって……」

「いないわよ失礼な! いいから一緒に住め!」

「はい!」

「ったく……。調子だけはいいんだから……」

 ミナトは私に、イブありがとな! と囁いた。ほんと調子のいい男だ。たしかにホストに向いている。



 マチが仕事の日、リビングに行くと、ミナトはテーブルの上を熱心に見つめていた。テーブルに上って覗いてみると、彼はテーブルの上に置いたスマホでメモを開いている。

『ホストの三か条 その一:先輩には絶対服従 その二:命令されたら何でもやる その三:先輩の……』

 あまりにアホらしいので横から肉球を伸ばしてやった。もちろん押すのは画面右の字を消すところ。

「あー! イブ! 何してんの!」

 続けて、『ばかか』と打ってやった。このバカはまだあの老いぼれのホスト連中にいびられながら仕事を続けているのか。顔には傷ひとつないが、また服の下とかに痣を隠しているのだろう。

「だれがバカだ! メモ消したイブのほうが……ってあれ? なんで猫が文字打ってるんだ……?」

 『わかるからだ』と打つと、ミナトは面白いくらいにわかりやすく飛び上がった。

「猫って日本語わかるのか!」

 んなわけあるかアホ。いや、野良猫には日本語みたいな感じで話したら通じていたから、実はみんな日本語を理解しているのかもしれないが、ミナトはそういう次元じゃない壮大な勘違いをしている気がする。

「ねこちゃんこんなにかわいいのに、その上日本語話せるくらいかしこいなんて……。人間いる意味ねーじゃん……」

 そこかよ。まともに突っ込んでいると本題がどこかへ一人旅してしまいそうなので、彼のスマホにさっさと文字を打ち込む。

『ぼうりょくふるうところはやめろ』

「んー……。マチさんにもそれ言われたんだよね。次あんたが暴力振るわれたら怒鳴り込みに行くからって」

『じゃあ』

「でもさ、移籍するにしても、もっともっと働かないと。先輩たちの方が僕より長くこの世界にいるからさ、たぶん先輩たちが教えてくれることの中にも大事なことがあるかもしれないし……」

 腹が立ったのでミナトの頬をはたいてやった。鼠を仕留めた猫パンチだ。

「いてっ、なんだよ」

 あまり長文を打つと時間がかかりすぎてしまうので、何と打つか迷ったが、『しばられるな』と打った。

「やっぱり縛られてるのかな、僕」

 手の甲を舐めてやった。

「もっと自由に生きても、いいのかな……」

 彼の手の甲に落ちた雫は、猫の舌には少しだけしょっぱかった。


 マチが帰ってくると、ミナトは真っ先に「聞いて! イブがしゃべったんだよ!」と言った。当然マチは怪訝な顔をした。

「どした? 頭打った? 病院行く? 動物病院ならついてってあげるけど」

「違うんだって! ちょっと誤解しそうな言い方だったけど、イブに日本語が通じたの! 僕が話したら、スマホに文字打って返事してくれたの! ほら!」

 昼間のメモを見せる。

「『ばかか』……ってあんたイブにもバカにされてんじゃん」

 マチがぷっ、と噴き出す。

「そんなことないし!」

 そのままふたりは、ああだのこうだの言いながら遅めの夕飯の準備を始めた。

 その後、マチが私に餌を持ってきてくれた。いろいろあの子に言ってくれてありがと、でもあの独り言ぜんぶ聞いてたのは許さないからね、の言葉をこっそり添えて。



 この家に来てからもう一週間ほどになるだろうか。

 ふたりの休日が重なることはなかなか無いようで、私の面倒を見るためにどちらかだけ家にいる、ということが多い。とはいえホストやホステスは、休日もお客さんからのメールやラインに返信したり、お客さんの好きな話題の勉強をしたりと大変な仕事らしい。ミナトもマチも、休日は私の尻尾を片手でもふもふしながらも、もう片手ではスマホを握って忙しそうにしている。

 今日はマチひとりだった。左手でココアを飲んだり私の頭を撫でたりしながら、右手ではお客さんへの返信を淡々とこなしていく。真顔でキャピキャピした文章を打っているのが少し怖いが、そのスピードは驚くほど速い。こういう姿を見るたびに、名店のナンバー4というのは伊達じゃないんだな、と感心する。その様子をしばらく眺めていると、不意に尻尾を引っ張られた。

「あ、ココアじゃなくてしっぽだった」

 思わずフギャ、と変な声が出る。

「あはははは、ごめんごめん間違えちゃった」

 マチの右手は笑いながらも仕事を続けていて、笑いが収まったタイミングで「お仕事おわり!」と点けっぱなしのスマホを机に置いた。

 マチの両手が私の腹に伸びる。それをするりと躱して、マチのラインの一番上にピン止めされている「ノート (1)」をタップする。そのトーク欄に『みなといせきいつ』と打ち込んだ。

「へぇー、イブ本当にしゃべれるんだ」

 かしこいね~と言いながら伸ばしたマチの両腕に、今度はがっちり捕まえられてしまった。

「移籍ね……。わたしすごい軽い感じで言ってるけど、実は結構大変なの、移籍って。いったん別のお店に入ったホストを辞めさせて、稼ぎ頭を競合相手にそのまま譲るわけだから、店同士での揉め事の原因になる。移籍金の折り合いがつかなくて相手のお店に殴り込み、って事件も昔あったらしいし。まあでも、そもそも店同士が話し合う前に、まずホスト自身がスカウトやヘッドハンティングをされないといけない、っていうのが一番厳しいかもね」

 マチはココアを飲み干した。

「ま、無理に頑張ってくれるよりはわたしが養った方がいいとは思うんだけどね、あの子のなかでお母さんとの折り合いがつくまでは何とも。最低でもお母さんがひとりで暮らせるくらいの手切れ金くらいは用意したいんだって」

 現実、という感じだ。『どうしたい』と聞いてみる。

「わたし? そうね……。一番は、ぜんぶ捨ててふたり静かに暮らして静かに死にたい。でも現実ってそう簡単にはいかない。人間は、死にたくない時にはすぐ死ぬのに、死にたい時に死ねない生き物なの。だから、わたしが何とかしなきゃいけない。何とかしたい」

 でもね、とマチは続ける。

「それってミナトの可能性を潰しているってことになるんじゃないか、ってときどき思うんだよね。もちろんミナトのことは大好きだけど、奴隷や人形としてわたしの手元に居させたいわけじゃない。ミナトには、ミナトの望む方に進んでほしいの。イブにはちょっと難しいかな。ぐるぐる考えちゃうんだよね。ミナトを自由にしたいって言ってるわたしがいない方が、ミナトは今よりもずっと自由なんじゃないかって。それでわからなくなっちゃうの」

 今日は泣くのをこらえているのだろう。さっきまで私を撫でていた手は、二つとも強く握られていた。

「イブにばっかり弱い所見せてるね、わたし。ごめんね」

『みなとすきなのか』

「好きだよ」

『それだけか』

「大好きだよ」

『おわりか』

「まだまだ好き。もっと好き。たくさん好き。いっぱい好き。いくら言っても言い足りないけど、いつまでも言っていたいくらい大好き」

 先程まで手を震わせていたマチは、今度は強く、まっすぐにそう言った。だから、私も力強く『それでいいんじゃない』と打った。

「そっか。それでもいいのかもね」

 すかさず『それがいい』と打った。

 イブ、ホストとかホステスとか向いてるかもね、とマチは微笑んだ。

「そうだね。別にミナトの目指す方向と、わたしがミナトを養えるぐらい稼ぐかどうかって、別にぶつかることじゃないし、ゆっくり進めていくことにするね」

 とても弱くて、とても強い人だと思った。



 とはいえ、ミナトの移籍の話が楽になったわけではない。今日もミナトはマチの部屋のリビングでスマホとにらめっこしている。

「う、うーん……。ピエール・エルメ、ジャン=ポール・エヴァン、レオニダス、パティスリー・サダハル・アオキ……。チョコなんてゴディバとメリーしか知らないよ……」

 ショコラトリーマニアなお客さんに指名されたのだろうか、高級チョコレートのお店の名前と悪戦苦闘している。食べ慣れていないとお店ごとの味の違いすらわからないような世界なのだが、名前を覚えるだけで果たして大丈夫なのだろうか。とはいえ、高級ショコラトリーは店舗数がとても少ないので、この手のチョコレートを手に入れるには基本的に都心に出向かなければならない。それこそ銀座のクラブに勤めているホストやホステスなんかは毎日食べているものなのだろうか。

「んなーもー……。よし休憩! イブ~、散歩とか行く? てか行こ?」

 自宅に置いて来たスマホとかがあると意思疎通に便利かもしれない。正直めんどくささはあるが、取りに行くついでとすれば悪くないかもしれない。ミナトがいれば横断歩道も怖くないし。

 そういう訳なので、散歩に行くことにした。

 散歩と言っても、基本はミナトの腕の中だ。交差点などでときどき「どっちに行きたい?」と降ろされ、行きたい方向を示すとまたそちらへ担いでいってくれる。全く私の運動にはなっていない気もするが、ミナトが楽しそうなので今日のところはこのまま散歩を続けようと思う。

 すこしずつミナトを導きながら散歩をしていると、すぐに目的地に着いた。「元」私の家だ。ミナトの腕の中から飛び降りて、他の部屋のベランダの方へと向かう。

「あ、こらイブ、そっち行っちゃだめだよ」

 こういうときに意思疎通ができないのが不便なのだ。改めて言語の偉大さを知る。とりあえず右の前足をまっすぐ前に突き出して、「ストップ」のポーズをしてみる。うまく伝わっただろうか。

「え、ちょっと待っとけってこと……?」

 意外と伝わったみたいだ。わかりやすいように大きく頷いてから、一階の角部屋のベランダにぴょんと飛び乗る。そのまま私の部屋まで一直線に向かう。部屋の窓を開ける様子を見ていたミナトは、しきりに感心していた。

 ベランダから中に入り、手早くスマホを咥えて部屋を出た。部屋は埃が少し積もっているくらいで、パッと見た限り変わったところは何もなかった。本当に一週間誰もこの部屋に入らなかったんだなぁと思いつつ、未練もないのでさっさとミナトのところへ戻った。

「それもしかしてイブのスマホ……? 実は元人間……?」

 ミナトはしゃがみ込んで、私が持ってきたスマホと私の顔を交互に見比べている。スマホを地面に置いて、メモ帳を開いてから『さあね』と打ってみた。ねえちょっと! 教えてよ! とミナトが必死になっているのが面白い。

 ひとしきりじゃれ合いのようなものが終わったところで、『くらぶがいあんないして』と伝えてみる。散歩ついでにあの辺の地理も把握しておきたかった。近々行くことになるかもしれないし。

「もちろん! とりあえず駅のほうまで戻ろっか」

 ミナトは私を抱え上げて、また歩き出した。


「ここがこの街最大のクラブ、Adam & Eveのお店。手前側がホストの勤めてる方でエバ、で奥の方がホステスが働いてるアダム。Adam & Eveっていうひとつのグループが経営してるんだけど、なんかこの業界では日本でも五本の指に入るくらいの伝統があるらしいよ。ちなみにエレナはアダムのナンバー4の嬢だよ」

 そんなにすごいのか、マチは。実はああ見えて、全国でもトップ100とかに入るくらいのホステスなのかもしれない。

「で、ほとんどのお客さんはこの二軒に吸われちゃうから、奥に行くにつれてだんだんクラブの規模がちっちゃくなっていくんだ。まあ表の通りに近いほどお店もプレイヤーも格が上がるって感じかな」

 そう言いながらミナトは奥へ奥へと進んでいく。

「で、ここが僕の働いてるお店。一番奥だけどね」

 クラブ街はこれで終わりかな、もう帰る? とミナトは私に訊いたので、腕の中で頷き返した。じゃ帰ろっか、とミナトが踵を返したところで声がかかった。

「ようミナト。こんな時間に何してんだ? お前今日休みだろ、裏で必死にオバサンの枕でもしてんのか?」

 ギャハハ、という悪趣味な笑い声が続く。ミナトをことあるごとに殴りつける、例のホストだ。

「お、こないだのボロ雑巾じゃねぇか。どした、二匹揃って殴られに来たか?」

 ミナトの喉からひゅっ、と声にもならないほどの微かな音が聞こえた。私を抱え込むミナトの腕からは震えが伝わってくる。つくづく悪趣味な男だ。もしミナトに何かしようものならこの爪で目を抉ってやる、と身構える。しかしミナトは予想外のことを言った。

「……もう殴らせません」

「あ?」

「もう殴らせません、って言ったんだよ馬鹿野郎!」

 温厚すぎるくらいのミナトが、見たこともないような叫び声をあげた。

「先輩への口の利き方を忘れたのか、もっかい教えてやるよ」

 ミナトは大振りに飛んできた拳の下をくぐって躱すと、そのまま駅前広場に向かって駆けだした。背後から怒号が飛んでくる。

「ああああ!」

 ミナトは悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げながら、駅前広場の交番のところまで走り抜けた。三十代の贅肉ホストには厳しかったのか、振り返ってもあの男の姿はない。

「なんとか逃げ切れた、あぶねー……。へへ、ちょっとチビりそう……」

 ミナトは解放感からか緩み切った顔をしながら、もう大丈夫、と何度も繰り返しているが、明らかにまずい。全く大丈夫じゃない。ミナトは明日、あの男がいる店に仕事に行くのだ。あの男は絶対待ち伏せているに決まっている。どれだけ殴られるかわかったもんじゃない。

 もう少しホストの世界について勉強して、もう少し練ってからやろうと思っていたが、今夜やるしかない。例の計画、って言うほど大仰なものではないが、実行せねば、と思った。


 二十時頃、幸運なことに、マチは早く帰ってきた。明日早番だからめっちゃ早上がりしてきた! と帰宅早々にミナトに抱きつく。今日はやたらとテンションが高い。ミナトも、そしたらゆっくり夜ごはん食べれるね! と嬉しそうだ。私は今夜、この部屋から外に出なければならないので、ふたりには早めにごはんを終えて、明日に備えて早めに寝てもらわないと困る。こんな時間にふたりで夜ごはんを食べて寝てくれる、なんてチャンスが次にいつ来るかわかったもんじゃない。

 三十分ほどしてごはんの用意ができたようだ。ふたりとも満面の笑みで食卓に座って手を合わせている。私は、マチが出してくれた餌をいつもの倍速で食べながら、早く寝てくれと願うことしかできなかった。


「明日早番って何時から?」

「朝の八時にお店」

「そりゃ早いね、そしたら十一時前だけどもう寝よっか」

「うん!」

 ふたりは電気を消すと、いつものように私をベッドの真ん中に置いて横になった。三十分ほどすると、左右からすぅ、という穏やかな寝息が聞こえてくる。

 二十三時二十一分。決行だ。

 まずはふたりを起こさないようにそっとベッドから出る。それからミナトの鞄のところへ行き、中から名刺を一枚抜き出した。それを咥えて玄関へ行く。

 このマンションはベランダ同士の距離が広すぎるので、玄関から共用の廊下を通っていくしかない。そのためにはまず、玄関のドアを開けなければならない。傘立てから傘の柄に登って、爪で鍵をガリガリやっているうちに、鍵がうまく回ってくれた。結構派手にガチャっという音が出てしまったが、どうやらふたりとも寝たままのようだ。ミナトもマチも眠りがとても深いので、なんとか助かった。そのままドアノブにぶら下がって扉を押す。扉が重い。ほんのわずかに開いた隙間に、ミナトのサンダルをねじ込む。しかし、扉が重すぎて、押してもこれ以上開かない。玄関は諦めるしかないか。

 ふとベッドルームが廊下に面していることを思い出す。あそこの窓からなんとか出れないか。ドアに挟んでいたサンダルを無理やり抜き取り、忍び足でベッドルームに戻る。ふたりはまだぐっすり寝ていた。音をたてぬよう気をつけながら、窓辺にさっと登り、カーテンの裏に回る。窓の鍵は簡単に開いた。少しだけ窓を開け、柵になっているアルミのサッシの間を、体を目一杯細長く伸ばして潜り抜ける。内臓の位置がずるりと動いた感触が気持ち悪いが、自分の身体より細い隙間をくぐり抜けるには仕方ない。

 手間取ったが、なんとか外に出られた。人間だった頃の癖か、ついついまずは玄関から出ようとしてしまうのが良くなかった。時間は十一時四十六分。エバの閉店時間の一時まで、あと一時間ちょっと。ぎりぎり間に合うだろうか、いや間に合わせるしかない。

 一枚の名刺を咥えて、階段を一気に駆け降りる。


 ホストの世界には移籍という制度がある。お店側は別の店のホストを引き抜いてより多く稼いでもらえる、ホスト側はよりよい待遇のお店に勤めることができる、という双方の利益に基づいて行われるものだ。しかし、当然引き抜かれる側の店は、稼ぎ頭がライバル店に横取りされるなんてたまったもんじゃないので、店同士の話し合いの上で、移籍金と呼ばれる示談金のようなものが発生するのだ。移籍は、経営の安定した大規模な店が、すぐにでも現金が欲しい小規模な店から引き抜く、という形がほとんどである。だから、この制度を利用して、ミナトを今の掃き溜めみたいな店からエバに移籍させたいのだ。

 しかし、移籍金を払ってまで稼げないホストを引き抜こうという店はまずない。だから大きなお店は、スカウトやその店の優秀なホストの紹介などで次代を担う有望なホストを発掘するのだ。

 そして今、私は名刺を一枚携えて、エバに向かって走っている。要するに、ミナトを発掘してもらうきっかけを作りに行くのだ。この名刺をスカウトマンの荷物に紛れ込ませて、ミナトの様子を見に来るきっかけを作る。あとはミナトの素質があれば、すぐにでも引き抜かれるはずだ。この業界であれだけの地位を築いているマチが言うんだから間違いない。ホストの紹介はホストかスカウトマンからしか受け付けていない、と取り合ってもらえず、マチは悔しそうにしていた。ミナトには内緒ね、とその話をされた時から、なら私が行ければ、とずっと考えていたのだ。

 あっという間に駅前広場まで着いた。あとはここを右に曲がれば、昼間ミナトに案内してもらったエバがある。


 入口から中に踏み入れると、全面金ピカで鏡張りになった、ギラギラと光り輝く階段があった。そこを下ったところに受付があるようだ。壁にはホストの顔写真と名前が入った、豪華な額縁が吊り下げてある。この店のナンバー1はライトと言うらしい。たくさん並んでいる額縁の中でも、雷斗―Lightと書かれた額縁はひときわ輝いていた。しかも、その下には「ライトをご指名の方は事前にご予約下さい」との注意書きがある。恐ろしい世界だ。

 とにかく、表の入口はギラギラしていて隠れる場所もなく、ここから入るのは難しそうだ、ということがわかった。今度は控室や事務所に通じる入り口を探してみる。


 またラッキーなことに、裏手に回るとすぐに入れそうな場所が見つかった。普段は使われていない物置かなにかの部屋の窓だ。換気のために毎日開け閉めしているのだろうか、窓のレールには砂埃がほとんどない。一流の高級クラブはこういうところまで一流なのか、と感心しつつ中に入る。物置らしき部屋を通り抜けて廊下に出てみる。お客さんの姿は見当たらず、こちら側はどうやらバックヤードのようなエリアみたいだ、ということがわかった。店の入口があれほど明るくて煌びやかだったのに比べて、バックヤード側はとにかく暗い。ほとんど照明がないのだが、夜目の利く猫の身体が味方した。とりあえず物音を立てないように注意しながら廊下を歩いていると、なにやら人の話し声のする部屋があった。部屋のドアは開きっぱなしになっていて、中から灯りが漏れている。そちらに近づこうとすると部屋の中から人が出てきた。

「んじゃ行ってくるわ~」

 急いで物陰に隠れる。ライトだ。顔ははっきり見えなかったが、あまりに異様なオーラを纏っていたのがわかった。たぶん誰が見ても、この男がこの店のナンバー1であると感じてしまうだろう。アルマーニのスーツでも、ロレックスの腕時計でも、ライト自身が放つ圧倒的で派手なオーラを覆いきれていなかった。


 そのまま物陰でしばらく様子を伺っていると、今度は執事服の女性が走ってきて、部屋の中に入っていった。

「お二人とも、指名入りましたよ」

「お、俺ら二人ともってことはまひろちゃんたちかな?」

「よーし行くか!」

 たぶん今の女性はスタッフだったのだろう。二人のホストと一緒に、お客さんのいるエリアへと歩いて行った。

 ということは、この部屋はホストの待機場所なのだろう。物陰から出て部屋を覗いてみると、どうやらホストたちのロッカールームになっているようだった。幸運なことに、中には誰もいない。軽く見回してから、サッと侵入する。

 エバは、ロッカールームまで豪華だった。とても触り心地の良い木張りの床に、どこかの王宮で貼ってありそうな壁紙、ベンチや机、ロッカーは高級感あふれるアンティーク調のもので統一されていた。いったいエバでは、一夜にどれほどのお金が動いているのだろうか。

 いや、今はそんなことに気を取られている場合ではない。大事に持ってきた名刺を忍ばせる場所を見定めなければ。

 ここはホストのロッカールームなので、当然スカウトマンの荷物はない。というかスカウトマンが今日このお店に来ているかどうかすらわからない。そして、部屋の時計は零時五十三分を指している。今からいるかもわからないスカウトマンを探しに行くのは得策ではないだろう。そうすると、この部屋にあるホストの荷物のどれかに忍ばせるしかない。では、誰の荷物に忍ばせるか。やはりライトしかないか。というか、ライトの名前もさっき知ったくらいで、ライト以外のホストの名前は全く知らない。下手に無名や新人のホストの荷物に名刺を紛れ込ませても、そのホストが店側に移籍の紹介をできる立場かどうかもわからないし、競争相手が増えるのは困る、とそもそも紹介をせずに名刺を捨ててしまう可能性すらある。その時、部屋の外から人の声がした。

「あー今日も疲れたー」

 さっき聞いたライトの声だ。まずい、もう戻ってきたのか。急いでベンチの下に隠れる。すると、意外にもライトの声はそのまま部屋の前を通り過ぎていった。

 名刺を置いて逃げるのは今しかない。ライトの名前が書かれたロッカーの中に入り、厳つい革の鞄の中に放り込んだ。鞄の口は開きっぱなし、またラッキーだ。今日はツイてる。そう思った矢先に、ライトが戻ってきた。またベンチの下に隠れる。

 ライトがゆったりとした足取りで部屋の中に入ってくる。こちらには気付いていないようだ。羽織っていたジャケットを脱いでいるライトの様子を見ながら、ふぅ、と息を吐く。

 そのタイミングで、急にライトがしゃがみ、ベンチの下を覗き込んできた。

 目が、合う。呼吸が止まった。

「あれ、人間の気配だと思ったんだけどなぁ、ねこちゃんだったか」

 喉が急速に干上がっていく。

「どしたの、こんなところで」

 ライトの手がゆっくりとこちらに伸びてきて、ようやく身体が動いた。逃げなければ。全速力で廊下に飛び出し、最初に入ってきた物置部屋へと向かった。

「あ、」

 後ろからライトがゆっくり追ってきているのがわかる。非常にまずい。とにかく走り、物置部屋の前で急ブレーキ。そのまま部屋の奥まで飛び込んで、侵入してきた窓を見上げた。

 窓は、閉まっていた。どうして。

「そろそろ閉店の時間だからさ、さっき閉めたんだよね、そこ」

 振り返ると、ライトが物置部屋の入口を塞ぐように立っていた。袋の鼠だ。ライトはゆっくりとこちらに近づいてくる。ここから逃げ切れるビジョンが見えない。まずい。必死に尻尾を立てて威嚇するが、ライトが近づいてくるにつれて、威嚇は畏怖に変わっていった。ついにライトは私の目の前まで来ると、立ち止まって手を伸ばしてきた。固く目を瞑る。ミナトとはじめて会った時の、ホストの男に殴り飛ばされた瞬間の光景が、まぶたの裏を駆け巡っていた。こわい。

 次の瞬間、身体が宙に浮いた。

 終わった、と思った。


 けれど、いつまで経っても落下しない。おそるおそる目を開けてみると、ライトに抱き上げられていた。殴られたり投げ飛ばされたりしたわけではないらしい。

「別に取って食いやしないよ、人間の女の子なら別だけど」

 ライトはそのまま通用口まで私を連れていくと、ドアを開けて私を降ろした。

「今このお店のドアと窓は全部閉まってるよ、逃げるならここから逃げな」

 鳩が豆鉄砲を食らうとこんな気分になるのだろうか。びっくりするほど何も起こらず、拍子抜けしてしまった。ライトは笑顔で手を振っている。

「俺のことが気になったらまたおいで。今度はちゃんと指名してね」

 じゃね~、と私を見送るライトをちらちらと振り返りながら、なにかしっくりこない微妙な気分でエバを後にした。



 翌日、と言ってもマチの部屋に戻ってきた時にはとっくに日付が変わっていたので、日付で言えば今日になるのだが、ミナトが顔に大きな絆創膏を貼って帰ってきた。十七時半ごろに家を出ていったミナトは十九時前に帰ってきて、休みだったマチは驚きで目を丸くしたあと、不安を絵に描いたような顔をした。

「どうしたのその絆創膏! しかもこんな時間だし! 何があったの?!」

 しかしミナトは嬉しそうだった。

「いや~聞いてよマチさん。なんかよくわからないんだけど、今日だけで青痣と、あのライトさんの名刺と、あとエバへの移籍権を手に入れちゃった!」

「はぁ?! わけわからん! どゆこと?!」

 ミナトはまぁまぁ、と言いながらリビングの席に着く。マチも、まぁまぁじゃないわよ全く、と言いながらミナトの正面に座った。


 要はこういうことがあったらしい。まず店に出勤すると、昨日の昼に逃げてきたあの暴力ホストが待ち伏せしていて、店に入るなり顔を殴られたんだそうだ。止めようとする他のホストやスタッフも殴り飛ばし、押し飛ばし、お客さんの接待をするはずのフロアで手が付けられないほど暴れ散らかしたらしい。もちろんミナトは集中的に殴られた。そのまま十八時の開店時間を迎え、暴力ホストはなぜか開店と同時に入ってきたライトに背負い投げされて伸びてしまった、と。そしてその後、ミナトはライトに喫茶店へと連れていかれ、移籍の話を持ち掛けられたそうだ。

 そんなうまい話あるか、と突っ込みそうになったが、現実にあったんだからしょうがない。

「でさ~でさ~、再来週から一週間試しにエバで働いてみて、良さそうだったら正式に移籍させてもらえるんだって! 急な話だけど移籍できそうだよ僕!」

「急どころじゃないわよ……。急転直下すぎてまだ頭が追い付いてない……」

「あとね、ライトさんにね、なんか前に会ったことある? って訊かれて、ぜんぜん覚えてないんだけど、とりあえずあるって答えちゃった。僕会ったことあるんだっけ?」

「わたしが知ってるわけないでしょ……。ってかあれだけのオーラを纏った男、一回見たら絶対忘れないでしょ」

「んー、でも全然記憶になくてさー、でもなんかライトさん僕の名刺持ってて。名刺、一か月くらい前に作ったばっかりなのに」

「なにそれちょっと怖いんだけど」

「でね、ライトさんも覚えてないって言うんだよ。『俺、一回喋った人のことは忘れないんだけど、名刺までもらった君のことが全然思い出せなくって。で不思議だな~と思って見に来たらこんな大騒ぎだったってわけよ』って」

「なんかさらにホラー感増してるけど大丈夫?」

 昨日の名刺がさっそく効果を発揮していたみたいだ。

「でも、君にはホストの才能がある!!! ってめっちゃ褒められちゃった、へへへ」

「で、怪我はだいじょぶなの? あと仕事は?」

 ミナトは頬をさすりながら言った。

「まあ怪我は青痣できただけだからすぐ直るよ。仕事は来週からエバだけど、今週はぜんぜんわかんない。ってかあの店、乱闘騒ぎで備品が壊れまくったから潰れるかもしれない……」

「ま、あんたが無事ならわたしはそれでいいから」

 よかったね、がんばったね、とマチは愛おしそうにミナトの頭を撫でた。ミナトは嬉しそうに頭を撫でられていた。

「あとさ、全然関係ないんだけど、ライトさんに『君、猫になったことある?』って訊かれた」

「あーあんたちょっと猫っぽいもんね」

「そう?! 猫みたいにかわいいってこと?!」

「そういうところは犬っぽいかも」

 ミナトはちょっと残念そうにくぅーんと鳴いていた。完全に犬だった。

「じゃあごはん食べてまったりしよっか。わたし準備するね」

 あ、僕も手伝うー、とミナトがキッチンへ駆けていく。

 ミナトの顔に痣を作ってしまったが、それでも十分な幸運だ。僥倖だ。全てが奇跡的に噛み合って、全部が物語のように上手くいった。昨日一日で一生分の運を使い果たしたかもしれない。

 ふたりが料理を作っている様子を眺めながら、昨日の疲れで私は眠りに落ちた。



 それから一か月で、ミナトは見違えるほどの進化を遂げた。見た目や髪型が変わったわけではないのだが、身に着けているもののグレードは数段階上がり、なにより、今までにはなかったオーラを纏い始めた。実際、エバに勤め始めてから三週間ちょっとでバンバン本指名を獲得しているらしい。固定客も増え、贅沢さえしなければ女性一人と猫一匹くらいならギリギリ養えるくらいの収入になった。ライトが特に目を掛けてくれているようで、ミナトはこの街のホストのスターダムへと駆け上がっている。

 そんなある日のことだった。めずらしく二十時ごろに帰ってきたミナトは浮かない顔をしていた。休みだったマチが出迎える。

「おかえり! ごはん食べよ!」

「うん!」

 ミナトは空元気で返事をした、ように私には見えた。たぶんマチの目にもそう映ったはずだ。しかし、マチは何も聞かずにキッチンへと戻った。

 そのまましばらくして、微妙な空気の夕飯が始まる。

「今日のミニトマトおいしくない? 長崎県産だったんだ~」

「めっちゃ甘くておいしい!」

「ね~」

 無言。

「長崎と言えば、久しぶりにちゃんぽん食べたいな」

「あーちゃんぽんおいしいよね」

「今度食べいこ」

「うん!」

 無言。

 マチは何も訊かなかった。そのままふたりは食事を終える。

「わたし片付けるからミナトはお風呂入ってきな。わたしもう入ったから」

「ありがとう」

「いいよ」

 ミナトはへへ、と笑うと、もう一度ちいさくありがとうと言ってから風呂場に行った。


 マチは、風呂上がりのミナトの手を引いてリビングまで連れていくと、食卓に座らせた。テーブルの上には酒とグラスがふたつ。

「今日はお店で飲んだ?」

「今日は飲まなかったよ」

「じゃあ飲も」

 明日休みだよね。うん、マチさんも休みだっけ。そ、今日から三連休、休み一緒なの久しぶりだね。

 そんな会話をしながら、マチはグラスに酒を注いだ。かなり度数の高い日本酒だ。

 ふたりは特に会話もなく、テレビでたまたまやっていたラブロマンスな洋画を見ながら日本酒を飲んでいた。マチは結構なハイペースで飲み進めていて、ミナトもそれにつられるように飲んでいると、三十分ほどで四合瓶が空いてしまった。

「ちょっとバカバカ飲み過ぎたね……。今日は寝よっか」

 マチは少しへにょへにょしながらそう言うと、テレビのリモコンを手に取って電源ボタンを押した。しかしちゃんと押せていないらしくテレビは点きっぱなし、酔っているのかマチはそれに気付かずベッドルームへ行ってしまう。

「そうだね、寝よっか……」

 ミナトの方も酔っているようで、テレビはそのままにして私を抱え上げると、マチについて行ってしまう。しかもリビングの電気も消さない。

 ベッドルームの電気は点けず、ふたりしてベッドに転がった。

「うー……ちょっとくらくらする……」

「ね……」

 しばらくの沈黙ののち、マチは言った。

「言いたくなかったら言わなくていい。でももし聞いてほしいことがあるんだったら、ちゃんと言ってね」

「ありがとう」

「ミナトがいつも聞いてくれてる分のお返し」

「うん、ありがとう」

 十秒ほど黙った後、ミナトは起き上がって、ぽつりぽつりと話し始めた。


 常連のお客さんにね、明後日アフターできないかって言われた。僕、今まで同伴とかはあったけど、アフターってしたことなくて。枕営業ってあるでしょ。こわいんだ。そのお客さんはすごいいい人だけど、もしかしたらそういうこと頼まれるかもしれない。マチさんが大好きだから、僕はぜったいしたくない。断る。でも、そう思っててもこわい。

 そっか、とマチは言った。

 こわい?

 うん、やっぱりこわい。

 そっか、と言うとマチはミナトの唇を塞いで、そのまま押し倒した。

 十秒ほどそのままでいた後、マチは口を離して言った。

 明々後日の朝、帰ってきたら、ちゃんと何もなかったって言って。そしたら今度はあんたからキスして。わたしだって独占欲くらいあるの。あんたがわたしのこと大好きなのと同じくらい、あんたのことが大好きなの。わたし、あんたが帰ってくるの、ちゃんと待ってるから。

 ミナトが何か言おうとしたが、またマチに唇を塞がれていた。

 これ以上私がここにいるのも野暮というものだ。物音を立てぬよう、そっとベッドルームを出る。

 リビングに行くと、点けっぱなしのラブロマンスがちょうど最後のキスシーンに入るところだった。ご都合主義ですべてが解決した後の、ヒーローとヒロインのふたりがキスしてオチがつく、洋画によくありがちなやつだ。まあこっちは軽くて、透明で、スッと綺麗に終わるのだけれど。

 エンドロールを映し始めたテレビを消して、テーブルの上に丸まった。今夜は寝心地が悪そうだ。



 明くる日のお昼前、ふたりはゾンビみたいな顔をしてリビングに出てきた。

「昨日酒飲んで夜更かししちゃったからちょっと二日酔いかも……。うぇ……」

「わたしもだわ……。あ、イブこんなところで寝てたんだ、テーブル気に入ったの?」

 お前らのせいだよ、という叫びは飲み込みつつ、テーブルを飛び降りて、キッチンの猫缶の下へ行った。

「そっか、朝ごはん遅くなっちゃった、ごめんねイブ」

 ミナトが猫缶を開けて皿に出してくれたので、ぺこぺこの胃に素早く流し込んだ。やっぱりうまい。

 それからふたりは朝ごはん兼昼ごはんに味噌汁を啜り、マチはやっぱお腹すいた! と調子に乗っておにぎりまで食べ、やっぱり気持ち悪くなって、ミナトに背中をさすられながらトイレで吐いていた。その後はベッドルームでゆっくり横になった後、夕方にはふたりとも完全復活してまたリビングに出てきた。

 ふたりのじゃれ合いが止まることは、もうなかった。



 次の日の昼に、ミナトはエバに出勤していった。アフターの話をしていたお客さんと、まずは同伴があるらしい。今日まで連休のマチは、あくまで笑顔で見送った。

 私を抱えてミナトを見送ったマチは、ドアが閉まるとそのままベッドに横になった。

 やっぱり不安なのか、という私の心がマチに伝わったのかは知らないが、マチは少し不安そうに言葉を紡ぐ。

「やっぱり不安なものは不安だよ。同じ日に同伴もアフターも入れるような女が、ミナトのこと好きじゃないはずがない。でもね、ミナトはちゃんと、何もなかったって言ってくれる。わたしはそれを信じる。ミナトだって、わたしが同伴やアフターのとき、いつも信じてくれてる。だから、わたしもちゃんと信じて、おかえりって言う。だから今日は寝ない。そんなのもできないで、結婚したいだなんて言っちゃだめだよね」

 何かが吹っ切れたようだ。よし! とマチは起き上がった。

「イブの言った通りだったかもね! ありがと」

 軽く頭を撫でられた。身に覚えはないが、とりあえずニャーと鳴いておいた。


 深夜三時過ぎにミナトは帰ってきた。マチに抱えられて玄関で出迎える。

「おかえり。早くない?」

「カラオケ行っただけだったからね! なんか他のお客さんたちと、他のホストの子たちと、みんなでカラオケ行きたいってだけだったみたい! で、さっき解散になって帰ってきた!」

「よかった」

 んじゃ寝よっか、とマチはベッドルームに戻ろうとするが、ミナトはなかなか靴を脱がない。

「どしたの?」

「あの、えと……。拍子抜けするくらい何もなかったけど……」

 うん、とマチは怪訝そうに頷く。

「その……。キス……しとく……?」

 マチはふふっと笑って私を降ろすと、ミナトに抱きついた。

「……遅いよバカ」

 バカップルは楽しそうで困る。先にベッドに戻らせてもらうことにした。



 今日まで長く、色濃く紡がれてきた人類史の中で、真理がひとつだけあるとすれば、それは「死の予感は唐突に訪れる」だろう。古来より作劇の最もわかりやすい手法のひとつとして、唐突な死亡エンドが用いられてきた。しかし、事実は小説よりも奇なり、現実では、ご都合小説でもそんなタイミングじゃ死なねーよ、というところであっさりと死ぬことが往々にしてある。それは私が人間だったころもそうだったし、ちょうど今現在それに差し当たっているところだ。

 ミナトとマチに引き取られてから九カ月ほど経ったころだろうか。猫になってからはじめて、急な高熱を出した。

 最初はミナトとマチのラブラブっぷりに浮かされて発熱でもしたか、などと楽天的な考えをしていたが、どうやら私の身体はそんなお気楽な状況ではないらしい。

 慌てたふたりに動物病院に連れていかれ、内臓の機能が著しく低下していると獣医に言われた。そもそも私の内臓は、猫にしては相当弱いらしい。まるで人間みたいだ、と言われた。まあ元人間なのだが。たとえば本来、猫は強力な胃酸で生肉を殺菌できるらしいのだが、私の胃酸は殺菌には不十分だそうだ。人間が軽率に生の肉を食べるとすぐお腹を壊すのは殺菌が十分にできていないからだが、私はそれと同じように、猫として十分な殺菌を行えていないらしい。だから未処理の動物の生肉を食べたら間違いなく病気になるし、殺菌されている食べ物であっても猫の身体に適した消化ができないことがあるそうだ。しかし、内臓が猫の食べ物に向いていなくても、必須の栄養素は猫の身体のものになっているので、いずれはなにかしら栄養不足になる、と。獣医もこんな猫の身体ははじめて見た、と驚いていた。それはそうだ、元人間の猫にお目にかかるなんてそうそうないだろう。

 まあとにかくいろんな理由があって、猫として生きていくには限界がある身体らしい。正直、内臓の話以外は難しくて理解できなかった。

 実際に死の予感はある。高熱を出した日の朝、目覚めた瞬間に、あ、死ぬかも、という淡い感覚があった。熱が上がっていくにつれてその感覚は実感に変わり、やがて確信に変わった。死の床のことは死の床に就いた者しかわからない。まだ生きられるよ、と前向きな言葉をかけられても、いやもう無理だ、と返す人の気持ちがわかったような気がする。死を実感しているレベルが違うのだ。それを前向きに捉えるか、悲観的に捉えるかはその人次第だけれど。少なくとも私は、もうじきこの身体が動かなくなる、という確かな感触と隣接していた。

 そして、猫になった日に出会った野良猫たちの死の実感とようやく同じレベルになったのかもしれないな、と思った。あの時は、猫がそんなにあっさり死ぬなんて、と、ある種の部外者として見ていた節があったが、今となっては身を以てわかる。たしかに意外とあっさり来た。

 今なら、これだけ楽しくて幸せな人間との生活を「希死念慮だ」と切り捨てたあの野良猫の気持ちもわかる気がする。ミナトとマチの姿を見ているのは本当に楽しくて、幸せで、どんな野良猫だって憧れるはずだし、羨ましく思うはずだ。でも最近、私がふたりの姿を眺めている間、自分のことを全く考えてこなかったことにも薄々気付き始めた。こうして私が考えるという行為をすること自体、いつぶりなのかも思い出せない。今の私の生活環境では自分のことを考える必要はないが、自分と自分の種族の繁栄を目指す猫の野生とはまったくの真逆。野生を捨てている。生を捨てていると言っても良いかもしれない。生の放棄と堕落への誘惑、という意味も込めて、まさに希死念慮。言い得て妙だ。


 人間は湿っぽい。ミナトもマチも、動物病院での診断を聞いてから、ずっと淋しそうにしたり悲しそうにしたりする。そんな猫一匹程度で、とも思うが、まあ湿っぽいほうがふたりらしいのかもしれない。

 ミナトはあっという間にエバのナンバー5まで上り詰め、マチはホステスを引退してAdam & Eveグループの姉妹店の経営を任された。ライトの「結婚してもお客さんが離れないくらいの人気を手に入れろ」との助言の下、ミナトはエバのナンバー3入りを目指して日々精進しているそうだ。ちなみにああ見えてライトは既婚者だったりする。私もミナトから聞いた時は驚いた。

 ふたりとも自分たちの手で幸せを掴もうとしている。それなのに、私一匹のことでそんなくよくよするな、と何度も伝えてはいるのだが、そのたびにふたりともへにょへにょした顔で私の頭を撫ではじめるのだ。しょうがないのかもしれない。しかし、そういう顔をされればされるほど死にたくなくなるし、死にたくなければないほど死に近づくものだ。現実とは残酷である。


 それでも騙し騙し生きてきたが、六月最後の日、もう無理だという感覚が身体に押し寄せてきた。深夜にふと目が覚めて、頭に浮かんだ一言目が「もう死ぬな」だった。本当に今際の際まで来ると、身体は軽く感じるようになるらしい。そのまま天に吸い込まれるんじゃないかというほど身体が軽くなっていた。どうしたもんかなぁ、と考える。

 ふたりの新居を見たかった。ふたりの結婚式を見たかった。ふたりの子供も見たかった。やり残したことはいろいろあるが、身体はあと半日も保たないと言っている。ふたりの寝ているベッドの上に、醜い死体を置いていきたくはなかった。

 とりあえず、伝えたいことを少しだけ遺して、それから今ではすっかりミナトまで住みついてしまったマチの部屋を出よう。そう決めた。

 ミナトは私がスマホを覗き込んでも隠さない。さすがに他人の前ではやっていないはずだが、少し危機意識が薄いのだ。おかげで、ミナトのスマホの暗証番号をすっかり覚えてしまった。1212、マチの誕生日。こういうところまで安直だなぁと思いながら、ミナトのスマホのロックを勝手に解除する。メモ帳を開いて、何を入力しようか考える。お幸せに? 楽しかった? ありがとう? どれも違う。もっといい言葉を探す。

 猫の魂が九つあることをふと思い出す。じゃあちょっと生まれ変わって、またここに来ればいい。そんな気分で『うまれかわって、またくる』と打った。猫の命は軽いのだ。なら、別れもこれくらい軽くていい。来々世くらいではふたりの子供に拾われる野良猫になろう。そんな夢のある妄想が膨らんだ。

 残された時間がなさそうなので、そろそろお暇することにしよう。いつかしたように、ベッドルームの窓から外に出る。今度は階段を駆け下りるとはいかなかったものの、なんとか一番下まで降りることができた。

 最期に行きたいところがある。あの野良猫たちの集会場だ。のんびりと歩きながら、あの猫たちのことを思い出す。今も変わらずあそこで集まっているのだろうか。それとも自販機ごと撤去されてもう使われていなかったりするだろうか。

 猫としての来世を聞きたい。猫としての死に方を聞きたい。

 人間に戻ろうなんて考えは、とうになくなっていた。もともと猫の方が向いている人種だったのかもしれない。そう考えるとこれもラッキーだ。


 希死念慮、希死念慮、と鼻歌でも歌い出しそうな感じで唱えながら歩いていると、思ったより早く着いた。すっかり日は昇っていたので、時間として早く着いたのではなく、歩いている体感時間が短かったのだろう。死ぬ間際ではよくあることだ。例の自販機とゴミ箱はまだある。自販機の下をくぐってゴミ箱の裏に回ってみると、前に来た時と同じように、ブロック塀に穴が空いていた。

 中に入ると、やっぱり猫がいた。

 こんにちは、と挨拶する。喉からはやっぱり人間の声ではなく、猫の鳴き声が出た。いかにもリーダー格っぽい、鋭い切れ長の目をした例のサビ猫が、新入りか、と猫の鳴き声で尋ねてきた。まるで昔からそうやりとりすると決められていたかのようで、少し不思議な気分になった。


今日はじめて猫として死ぬ者です。

妙なこと言う奴は最期まで妙なんだな。まあ座りな。


 とりあえず座る。


で、何が聞きたいんだ。

来世です。あと死に方。

正直お前さんみたいなやつは半月も保たずに死んじまうと思ってたぜ。良い今世は過ごせたか?

そりゃもう。人間にお世話されっぱなしでしたが、楽しかったです。希死念慮ってやつです。

そうかい。そいつはよかったな。

まあでもこれ以上は内臓が保たないそうです。たぶんもうすぐ死ぬんじゃないかな。

そうか、人間ってのは、宇宙のことをそう言うんだな。

え? 宇宙ですか?

そうだ。お前さんがいま内臓って言ったやつだ。猫の身体の中には血と肉と宇宙が詰まっててな。それを綺麗に身体から解放してやると、また次の身体に行ける。ま、来世ってやつよな。

宇宙、を解放、ですか。

まあ、猫なりの信仰とか風習みたいなもんだ。また次の魂に行ってほしい猫には、俺らで宇宙を解放する儀式をするんだ。

儀式?

ああ、みんなで骸を綺麗に平らげるだけだがな。

食べるんですか。

そうだ。人間にはそういうのないのか?

鳥葬とかが近い、のかな?

ん、まあわからんがたぶんそんな感じだ。

野生って感じがして、すごくいいですね。希死念慮って感じ。

まあ人間から離れて暮らすことを選んだ俺らなりの希死念慮なのかもな。誉め言葉として受け取っておこう。

じゃあ、それ、やってもらえますか?

まあいいだろう。その代わり、生まれ変わったら、人間のとこに戻る前にまた挨拶しに来いよ。

よく人間のところに戻るってわかりましたね。

帰りたい場所のないやつが、来世のことを聞きに来たりはしない。

それもそうですね。


 急に眠気が来た。たぶんここで眠れば、この身体でもう起きることはもうない。サビ猫は、最期だ、ゆっくり寝な、と言った。この身体が綺麗さっぱり平らげられてから、次あのふたりに会えるまでどれくらいかかるのだろうか。できれば結婚式前には拾われておきたいので、一年以内だとありがたい。

 眠りに就くとき、次いつ目が覚めるのかは誰もわからない。けれど、またすぐに起きれる気がしたので、心地よい眠気に任せて、ゆっくりと目を閉じた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

せっか @Sekka_A-0666

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ