第3話 天邪鬼2


 こんなこともあった。

 君との思い出を手繰り寄せると必ず出てくるのが、子犬のこと。

 ある日、君とぷらぷら外を散歩していた時に、一匹の小さな犬を見つけた。柴犬と何かが交じった雑種の子犬が、広い公園の遊具の足元に、ぽつんと置かれた段ボール箱の中で眠っていた。まだ朝と呼べる時間帯で、私たちが第一発見者だった。

「捨て犬だ」

 今時こんなベタな捨て方をする人がいることに驚いて、保健所に連れて行く手間も惜しんだのかと思うと腹が立った。だけどその手間を惜しまなかったらこの犬が死んでいたことを思うと、複雑な気分になった。

 私が抱き上げても、子犬は逃げるどころか短い尻尾を振り回し、小さな三角耳を反らして喜んだ。

「犬、好き?」

 触りたくてうずうずしている風の君は、「嫌い」と即答する。こんなにいたいけな犬に嘘を吐く君が、不憫でたまらなかった。

「ほら、抱っこしてみなよ」

 返事を無視して、子犬を押しつける。おっかなびっくり手を出して、慎重に子犬を抱く君は、とても犬嫌いには見えなかった。

「可愛いね、この子」

 ちょっと黙って、「可愛くない」と答える手つきは、子犬が羨ましくなるほど優しかった。ふわふわの犬を抱く君は嬉しそうに、可愛くないを繰り返した。

 だけど、私たちに子犬を引き取る環境は揃っていない。時間は多少あっても、ペット可の住居も、病院での検査費や餌代さえ用意することができない。

 迷った挙句、私たちは子犬を箱に戻した。保健所に連絡される前に、誰か余裕のある人が通りかかってくれることを祈った。


 数日後、一人で公園の東屋のテーブルにつき、サンドイッチを食べようとしていた私に子犬が飛びついてきた。ひと目で、あの時の子犬だと分かった。

 私のサンドイッチを狙う子犬は、いつの間にか青い首輪をつけていた。

 ピンときた私が、子犬にパンの切れ端をあげながらすぐさま電話をすると、君はばつが悪そうに白状した。せめて飼い犬のように見せていれば、捕まえられてもすぐに処分はされないと思った、だから首輪をあげた。そういう意味の弁解をした後、授業だからとすぐに電話を切ってしまった。夏休みだから、授業なんてあるはずないのに。

「おまえは幸せものだね」

 子犬は幸せだったと思う。野良のはずなのにころころと太って、つやつやの毛を風になびかせていた。私たちが公園を訪れれば、どこからかすっとんで来て挨拶をしてくれた。可愛くないという暴言を浴びながら、尻尾を振って喜んでいた。

「これ、どんな味なんだろうね」

 君の部屋を突撃訪問して、ベッドの下に隠されたドッグフードの袋を指さすと、君はあからさまに嫌な顔をした。

「お金ないのに。高かったでしょ」

 別に、と呟く君がおかしくて、私は笑い転げた。むすっとした顔の君が、せめてフードを足で隠すようにベッドに座るのが、まさに天邪鬼らしかった。


 子犬を見つけてから十日後の朝、珍しく君から電話がかかってきた。今すぐ来てくれという連絡に胸騒ぎがして、なんだかその理由がわかってしまう気がした。指定された場所が、公園だったから。

 公園のベンチで、君は青色の首輪をした子犬を抱いていた。子犬は、私が近寄っても尻尾を振ってくれなかった。背中を撫でても、顔を舐めてくれなかった。

 この子は、君のにおいを辿って、部屋に行こうとしたらしい。早朝にゴミを出しに行った時、道路の上で冷たくなっているのを見つけたのだと、君は淡々と教えてくれた。

 私の目から涙がこぼれた。この子は、人に捨てられながら、人を求めて、最後は人に命を奪われた。こんなに残酷な話があるだろうか。

「きっと幸せだったよ」

 もっとなんとか出来たに違いない。飼い主を探すとか、その間だけでも家に匿うとか。もしくは私たちが手出しをしなければ、この子はずっと長生きしていたのかもしれない。

 罪悪感を覚えながら、私は君に言う。

「この子は、君に出会えてよかったって思ってるよ」

 君は頷かないまま、子犬を抱く腕を少し持ち上げて、その頭に顔を寄せた。犬の白いお腹の毛が赤い血に塗れて、ごわごわに固まっているのが見えた。

「ごめんね」君は、ピンと立った耳にそっと囁く。「ありがとう」


 近くのスーパーで小さな段ボールをもらって、組み立てた。私は家に一度戻って、柔らかい毛布を持ってきて、段ボールの中に敷いた。君はドッグフードを詰め替えた袋を入れた。横たえた子犬の枕元に、青い首輪を置いた。

 雑木林に穴を掘って、私たちは子犬を埋葬した。

 それから、子犬のお墓を訪れるたびに、私は新しい花が供えられているのを見つけた。そこらに生えている雑草じゃなくて、花屋で売っているような綺麗な花が、一本だけ。

 なけなしのお金で花を買う君を想像すると、笑っていいのか泣いたらいいのか、いつもわからなくなってしまう。

 ねえ、あの犬は、君に会えて本当に幸せものだよ。



 君の部屋は、私の部屋よりも随分落ち着いた。

 君の隣は、誰の隣よりも随分居心地がよかった。

 一緒に過ごす時間が、私は大好きになっていた。



 夏休みが終わり再び授業が始まって少しした頃、君は私に無断で学校を休んだ。ただのサボりかと思ったけど、出席表の催促も、ノートの貸与のお願いもなかった。

 風邪でも引いて寝てるのかな。

 私はそう思って、学校の生協で買ったポカリスエットを鞄に忍ばせて、授業の終わりに君の部屋に行った。


 君の部屋は、滅茶苦茶になっていた。

 窓ガラスには、大きな穴が空いていた。せっかく仕上げた授業のプリントが部屋中に散乱し、床ではガラスのコップが割れていた。ゴミ箱はひっくり返り、枕は破れ、恐ろしいことに卓上には包丁が投げ捨てられていた。

「帰って」

 肩越しにその惨状を見て、口をあんぐり開けている私に、君は繰り返した。

「帰って」

 ただ、その口調にあんまりにも力がなくって、二度目のそれはか細くて消え入りそうだったから、私は君が観念するまで玄関に立っていた。泥棒や強盗の仕業ではないことは、なんとなく察していた。

 やがて、力なくふらふらと足下のおぼつかない君と、部屋を片づけた。包丁は、君の目に触れないよう、そっと台所にしまった。この刃を君が誰に向けようとしたのか、知るのは怖かった。

「寝なよ。私起きてるから」

 私がそう言うと、君は一度小さく頷いて、ぐったりと深く眠ってしまった。君の疲れ切った寝顔をしばらく眺めてから、私は裁縫道具を探し当て、破れた枕を縫った。

 二時間ぐらいで目を覚ました君は、疲れていたけど、すっかり落ち着いていた。

「帰ってくるって」

 誰が、と私は訊いた。天邪鬼を忘れた君は、瞼を擦ってがっくりと肩を落としたまま、弱々しく笑った。

「僕の人生を、壊した人」


 刑務所から父親が戻ってくるんだと、君は言った。


 君の心を乱す誰かに、私は君を渡したくなかった。君の兄はとっくに社会人として生活しているはずけど、絶縁状態で居場所さえしれなかった。同じように父親とも縁を切ればいいと残酷なことを言う私に、君は頷かなかった。ようやく君は、過去を振り切れる世界に辿り着いた。その世界自体が壊されてしまう恐怖と怒りに、君はただ一人、震えてたんだ。

 そのくせ笑う君は、とびっきりに優しかった。



 君は、段々と疲れていった。目の下には三日月の隈が浮いた。痩せてるのに、さらにがりがりになっていった。眠くならないし、お腹も空かないんだって、君は困った顔をしていた。もうすぐ冬がやってくるのに、寒くもないって衣替えもせずに、半袖のシャツを着ていた。

 私は心配になった。大丈夫って尋ねると、大丈夫って答えるから。君なら、大丈夫じゃないって答えるべきなんだ。



 悲しいことに、君は自分が異常だと自覚していた。自分の人生が壊れたものだと、知っていた。

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