第一章 4

   四


「利益は、後金で採取された金塊があります。それに、日本では古くなった、大筒や、種ヶ島を、大量に売却しています。それと、戦闘指導料をとっています」

「うーむ。一石三鳥の商売をしたか。さすが家康よな。古狸め・・・」

「家康も、秀忠も、大部分の家臣たちは松山(現・東松山)城、川越城、騎西城、忍城その他に逃げています。江戸城は殆どから城でした」

「行信。なぜ、そこまでの情報を掴んでいる」

「はい。高野山には、古くから高野聖(ひじり)という、全国網の組織を持っています。忍びも使います。場合によっては、戦闘もいたします。頭領は、慶雲坊と言う人物で、元締めは、霊光猊下です。その猊下が、朝廷関係などで、猛烈に多忙になりまして、権大僧正になった、拙に元締めを譲られました。拙から猊下には、ときおり報告することと、月に百両を上納します。それと、頭領の慶雲坊に運営費を渡さなければいけません。これは、その月の動き方で、経費が変わります。このことでは、殿下にご面倒をおかけしたいのですが。以前にも、お話した通りでございます。朝廷、公家、所司代は完全に味方につけました。霊光猊下の唯一の希望は、絶対に、比叡山延暦寺、天台宗には、負けたくないと。そのために霊光猊下は、従来は神道で行っておりました。前七日御修法(ぜんしちにちみしほ)を東密(とうみつ)で行うと、申しております。天台の密教を台密(たいみつ)と申します。ともに平安仏教でございますが、祖師の空海、最澄の確執が、今に及んでいます。天海も真言宗には負けたくないと思っているはずです」

「判った。で、慶雲坊は?」

「こたびは、三国街道に五百人で、鈴木孫一大将軍にお借りした、鉄砲と、ガトリング銃二基を持って、然るべき場所で、待ち伏せいています。その指揮にいっておりますので。情報が早くに手に入りましたので。まず、手柄を見せよと申しつけました」

「行信殿には、九度山に蟄居以来世話に成りっ放しよのう。九度山は、法華定院の土地であろう。地代も払っていないの」

「恐れ入ります」

「聖たちの基地に成るようなお堂を、法華定院と九度山の近くに建てよう。それから、全国の真言宗の寺に、寺子屋と、聖堂を造れ。寺子屋の聖堂と、庫裏、東司(とうす・トイレ)浴室、護摩堂を造れ、筆子(生徒)に教える教師は、行信のところで選べ」

「ありがとうございます。少し嫌な話をいたします。緊急ですので」

「む?」

「伊那街道から七、八万・・・糸魚川に上陸する七千五百人、追いかけて五万人が、上陸してきます。それと同時に、久野宗能、保科正光、木曽義昌、北条氏勝、石川康通、岡部長盛、本多忠勝、内藤家長、松平忠政、三浦義次、酒井家次、内藤信成らの、自分指物が見えたそうです。これが、一気に、相模、甲斐路に入ってきます。これが、四万五千で、三方からの総計は、十八万二千五百人です。相模、甲斐路は、徳川の譜代衆です」

「待て。直ぐに伝令を出せ!」

「すでに昨日の内に伝令は出しであります。正体不明でしたが、三国街道の上下の兵力は、把握してあります。すでに、上野、下野、常陸、越後、信濃、甲斐、相模、飛騨、美濃、尾張、若狭、越前、加賀、越中、岩代、磐城、羽前まで、集合、移動しています。いずれの敵も、旌旗が、三葉葵などが、解せません。数は十八万二千五百で、符合しています」

 答えたのは、才蔵であった。

「判った。ぶつかるのは、下諏訪の先の岡谷だな。諏訪湖の北だ。東西で挟撃されたらきついぞ」

「こちらも挟撃する形なります」

 才蔵が答えた。

「家康は不思議な爺さんです。叩いても、叩いても、奇妙な行動で、敵対してくる。幽鬼のような爺さんだ」

 才蔵が、怒ったようにいった。

「行信。話してくれ」

「はい。三国街道の敵は、お話したようなことです・・・」

 誰もが、行信の言葉に、耳を奪われた。

「糸魚川がら上陸してくるのは。徳川の将兵に案内されて侵攻してくる後金の兵です。彼らには、徒歩兵と言うのはいません、最初の兵は、清津(チョンジン)からの船で来る兵で馬が一緒に乗っている分だけ数は少ないです。しかし、馬と一緒に寝起きしているような民族です。馬術には長けています。武器は、鉄砲も覚えたでしょうが、弩です。彼らの矢には、槍にもですが、毒が塗ってあります。チョッとした傷でも、傷の血を吸出して、焼酎で洗い、傷薬を塗って下さい。きちっと吸い出してください」

「南洋の兵と同じだな・・・」

 幸村が言った。

「柏崎の船は、兵を降ろしたあと、沿海州のナホトカに兵を迎えにゆき、糸魚川に向かいます。これを航路を変えて何回かやります。幾ら海軍、海兵隊が優れていても、毎回航路を変えますから、見つけずらいでしょう・・・そして、伊那街道を北上してくるのは、徳川高康の軍です」

「徳川高康? 初めて聞く名だが・・・」

「はい。拙も、霊光大僧正に訊いた瞬間には、驚愕しました。御存じのように、関ヶ原は、豊臣の子飼いの武将同士の戦いでもあるのです。文治派の石田三成は西軍、大阪城、豊臣軍で、淀君、秀頼君で、対する東軍は、徳川軍ですが、豊臣の武闘派軍でもあるのです。武闘派が徳川に付いたことで、多くの外様大名が、徳川についたのです。家康は、あるとき、こう思ったそうです」

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