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 とその時、男湯の浴室の方が何やら変な具合になっていることに気が付いた。「何だろう?」と湯気で煙るガラスを通して見ると、どうやら先ほどの悪ガキ二人が肩車をしているようだ。足元が滑り易い浴室で、そんな遊びをしては危ないではないか。

 「まったく、あの子たちは・・・ おばあちゃん、ちょっと様子見てくる」

 そう言って番台を降りた京子は男湯の脱衣所を横切り、浴室へと向かった。鏡の前で残り少なくなった髪を右にやったり左にやったりして、無駄な足掻きをしているオヤジやら、ベンチシートに座って自分の足の裏をペチペチ叩いている、意味不明のオヤジやらの間を掻い潜って、脱衣所の真ん中くらいまで来た時、京子は浴室がのっぴきならない状況であることを認識した。なんと、あの悪ガキどもは、肩車をして女湯を覗こうとしているのだった。京子は途端に走り出した。そして浴室の大きなガラス戸を、一気に「バンッ」と開けた。

 「チョッとアンタたち! 何やってるのっ!?」

 そう叫んだ京子が、足元に転がっている黄色い風呂桶を右足で蹴り上げると、それは見事な無回転シュートとなり、男湯の宙を舞った。無回転であるため、その底に記された『ケロヨン』の文字をハッキリと読み取ることが出来る。そのおかげで、それを見送る裸の観客たちは、今、目の前で繰り広げられている光景がスローモーションであるかのような錯覚に陥った。

 京子の放った無回転シュートは、手前に座ってシャンプーで頭を洗っていたオヤジの頭頂部をかすめ、更に飛翔した。それはまるで、ディフェンダーのヘッドをかすめてゴールへと襲い掛かる、本田圭佑のフリーキックを彷彿とさせ、緩やかな弧を描きながら、肩車されているタケシに向かって伸びた。だがしかし、それはギリギリのところでコースを外れ、タケシの背中の後ろを通過したのであった。ゆっくりと下降を開始した『ケロヨン』は運悪く、頭に手ぬぐいを載せて湯船に沈み、いい気分に浸っていた別のオヤジのこめかみにクリーンヒットした。

 「すこーーーーーん!」

 「すこーーーーーん!」

 「すこーーーーーん!」

 それは湯気に煙る銭湯内に小気味良い音となって木霊した。だが京子は、鉄の意志を持ってそれに対処した。悪の根源を根絶やしにするためには、多少の犠牲は致し方ない。いつの時代もそうだったではないか。そのオヤジには後で謝っておこう。駆けだした京子が二人にジャンピング二―パッドをお見舞いすると、さすがの悪ガキたちもバランスを崩し、その場にワタワタと崩れ落ちた。そして肩車されていたタケシを捕まえると、その頭をヘッドロックしてギリギリと締め上げた。

 「チンチンに毛も生えてないくせに、女湯を覗くたぁ、いい度胸してんじゃないのっ!」

 毛が生えていれば覗いてもいいのか、という問題はさておき、二人は鬼の形相の京子に恐れをなし、潰れたカエルの様に赦しを乞うた。

 「ごめんなさい・・・」

 「こいつがやろうって言ったんだよ・・・」

 そんな二人の前で仁王立ちになった京子が、手を腰に当てて説教を始めた。

 「いい、アンタたち。今度こんなことしたら・・・」

 その時、京子は視界の片隅に妙な違和感を感じた。その場に有ってはならない何かが、隅っこの方で己の存在を主張している。首を回してそちらを見やると・・・ 先ほどの無回転シュートを頭に食らったオヤジが、うつ伏せのまま大の字になって湯船に浮かんでいた。

 「きゃーーーーっ! おじちゃん、大丈夫ーーーっ!?」

 男湯は上を下への大騒ぎになった。タケシもケンジも、一緒になって騒ぎ立てている。女湯の方からは、「あっちは何だか賑やかだねぇ」などと呑気なことを言っているオバサンたちの会話が聞こえた。

 急いで駆け寄り抱き上げると、そのオヤジは何故か幸せそうな笑顔を顔に張り付けたまま気を失っていた。湯船から引きずり出し、その場に仰向けに寝かせる。その際、さすがにフルチンはマズイと思い、先ほどそのオヤジの頭にヒットした『ケロヨン』で ―と言っても、それを蹴ったのは京子自身なのだが― その股間を隠し、京子が身体を揺する。

 「おじちゃん、大丈夫っ!? しっかりしてっ!」

 オヤジはヘラヘラ笑いながら、体を揺さぶられていた。揺れる度に股間の『ケロヨン』もグラグラと揺れた。その時、反対側で髭を剃っていた男が声を上げた。近所の消防署に務める信之であった。京子とは子供の頃から親しくしていた幼馴染である。消防士の彼であれば、心肺蘇生や人工呼吸にも通じているはずだ。

 「信之さん! 何とかしてっ!」

 「京子ちゃん! 俺に任せとけっ! とうっ!」

 信之が、三列あるうちの真ん中の洗い場を華麗に飛び越えると、着地した拍子に足を滑らせてひっくり返った。その時「ゴン」という鈍い音が響き、後頭部を強打した信之は白目をむいて気を失った。京子は絶叫した。

 「お父さーーーーん! 救急車ーーーっ!」

 『ケロヨン』で股間を隠すオヤジの横を離れ、急いで信之に駆け寄る京子。その横に跪いて肩を揺する。

 「信之さん! 大丈夫っ!? 信之さん!」

 するとその時、先ほどヘッドロックをされたタケシが、何かの忍法を披露する忍者の様に両手を合わせ、その人差し指を京子の肛門に突き立てた。

 「カンチョー!」

 ぶすっ。

 「痛っ・・・」

 あまりの想定外の出来事に言葉を失った京子は、立ち膝の姿勢で腰を伸ばして振り返った。その目はビックリして大きく見開かれていた。タケシとケンジがニヤニヤしながら京子の顔を見た。そして怒りが爆発した。

 「テメーッ、クソガキーッ! ぶっ殺すぞーっ!」

 タケシとケンジは「わー」とか言いながら、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。それを追いかける京子。

 「風呂で走っちゃいけないっていったじゃーん!」

 「うるさいっ! 神妙にお縄を頂戴しろっ!」

 何故か時代劇風になっていた。京子は取り押さえたタケシに腕ひしぎ逆十字を掛けながら「やっぱりこんな銭湯、早く出て行ってやる!」と心の片隅で叫んだ。

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