第17話・生還
朝。果たして、目は開いた。
「う・・・う・・・」
すでに東の空なかばまでのぼった太陽が、激烈な陽射しを突き刺してくる。まぶしさに、目を開けていられない。気温もぐんぐん上がっている。たまらない暑さだ。しかし、背中は地面、目の前は格子という、素通しの棺桶に収監された身だ。逃れようがない。全身から汗が噴き出す。それがたちまち蒸発して塩になる。のどがカラカラだ。灼熱の太陽は、オオカミよりもしんどい敵となるかもしれない。なにしろ、こいつにしぼられる責め苦は、半日もの長時間に及ぶ。
「おお~い・・・」
もちろん、どこからも返事はない。それどころか、周辺一帯には生命の気配が一切感じられない。凶暴な獣たちが散ってくれたのは幸いだが、他の小動物までもがドラゴンの結石におびえてしまって、ここには近寄ろうとしないようだ。
せまいスペースで頭を起こし、からだに目をやると、あちこちからおびただしい流血がある。手ひどく引っ掻かれた腹部の裂傷もすごいが、両手首重ねに縛られたままの前腕が、いちばん派手にやられている。牙や爪と取っ組み合った際にできた、防御創だ。傷口が開いて、体液まじりの血がとろりとろりと流れ出てくる。そいつを口に含み、のどを潤す。リサイクルの大切さを噛みしめた。からだの各可動部は、どこもなんとか動きそうだ。残念ながら、それをのびのびと確認できるだけのスペースはないが。窮屈にフリーズを強いられている関節が、ギシギシときしむ。まるで油が切れた蝶番だ。全身の神経は、かろうじて感度を取り戻している。この痛みがありがたい。オレはもう少しの間、生きていられるらしい。
「ん・・・?」
ふと、鼻先に持ってきた手首を見ると、それを縛る革ヒモがボロボロにほつれている。しめた。子犬ちゃんたちが、ほんの少しの幸運を残していってくれた。鋭い爪で腕を引き裂くと同時に、革にも切れ目を入れておいてくれたのだ。前歯を使えば、もしかしたら噛みちぎれるかもしれない。
ガジガジ、ガジガジ、ガジガジ・・・
なんて硬い革だ。歯のほうが先にダメになりそうだ。しかし、あきらめずにかじりつづける。
「あぢ・・・い・・・」
日が南の空高くへとのぼるほどに、体力も気力も奪われていく。汗が出きってしまった感がある。このままでは、一日ともたずに干からびてしまいそうだ。水を飲みたい。たまらず土に唇を押しつけて、チュウチュウ吸ってみる。が、もちろん無駄なあがきだ。ほんの少しの水気も感じられない。植物というやつは天才だ。こんなカラカラの大地から、わずかな水分を見つけて吸い上げるのだから。生まれ変わったら、湖のほとりのササの根になりたい、と心から思う。いやいや、そんな夢想をしているヒマはない。余計なことを考えているうちに、視界が黄色くよどんでいく。もうツバも出ない。からだ中の水分が気化し、大気に拡散していくさまがまざまざと視覚化できる。やばい。ひどくやばい。
乾きもひどいが、とにかく両手首を締め上げる革ヒモをほどきたい。この不自由さとストレスはたまらない。狂おしいほど切実に、こいつをなんとかしたい。前歯を立て、八重歯を立て、噛みついて引っ張り、左右にきしらせ、摩擦し、むしり、しがき・・・今しうる限りの方法を試みる。が、切れそうで切れない。ほどけそうでほどけない。目尻ににじむ涙もたちまち干からびる。あきらめきれないが、体力ももたない。すぐに息が切れてしまう。
「は、はあ・・・はあ・・・」
吐きそうだ。えずく。が、なにも出ない。胃の中は空っぽだ。それに、出血を大サービスしすぎた。自覚以上に衰弱しているらしい。張りきりすぎて、この暑さの中で、干し肉になるわけにもいかない。作業を中断し、薄く呼吸をして、ひたすら日が暮れるのを待つことにする。
夜がきた。が、そこには新たな地獄が待ち受けている。
「さ・・・ささ・・・さ、ぶ・・・」
寒い。凍えそうだ。体内を血液が走ってくれないのがわかる。水分が末端までゆき渡っていないのだ。心臓の鼓動に耳を澄まし、この音を止めないように神経を集中させる。ただ、この作業は、肉体のコントロールなどではなく、純粋な「お願い」だ。
「・・・まだ・・・止めないで・・・神様・・・」
こんなにも切実に祈ったことは、かつてなかった。心臓よ、止まらないでくれ。こんなところで死にたくない・・・もっと生きたい・・・
「・・・ジュビー・・・助けてくれ・・・」
助けにいくはずが、あべこべになっている。それでも、とにかく声に出してみる。もうどっちでもいい。希望は、生きる力の源なのだから。それにしても寒すぎる。ひたすら震えつつ、朝がくるのを待つ。
朝がきた。一転して、炎天にあぶられる。なんという暑さ。ちょうどいい具合いの「すがすがしい時間帯」がないのはどうしたことか?水が飲みたい!ビーアでなくていい。ペップシでなくてもいい。ほんのひとすくいの水が欲しい。唇が、パサパサの焼き菓子のように割れている。舌は、干からびたレンガ片のように無感覚だ。目はかすんで、もう薄明しか見えていない。はて、その光の中に・・・幻覚がきたら最期が近いというが、こんこんと湧き出す泉が見える。思わず舌を伸ばす。すると・・・
「んあ・・・?」
意外や、水気が口の中にほとばしった。わずか、たった一滴だったかもしれない。しかし、それは全身の体細胞に染み渡る、珠玉のしずくだった。夜露だ。格子に編まれた陸ヤシの幹が、夜の冷え切った大気から湿気を集めたのだ。生涯で最高の生きた心地を味わった。
「ぐあーっ・・・んがっ・・・んんんーがっ・・・」
ガジガジ・・・ガジ・・・
思わずむしゃぶりつく。必死にヤシの繊維をしがむ・・・が、もう出ない。エンプティ。口の中は瞬時にドライ化され、砂を噛むような感触だけを味わう羽目に落ち入った。消沈する。もう体内には、涙をにじませる水気も残っていない。
希望が失われると、頭が朦朧としてきた。もう、じきに死ぬのだ。幻覚まじりに夢を見る。幼い頃に過ごした僧院の、お師さんが現れた。くすんだ法衣をまとい、頭がつるつるで、峻厳な眼光を放っている。そのお師さんが、憎い。剣で袈裟懸けに斬り捨てた。おびただしい返り血を浴びた。自分が鬼のような形相をしているのを、お師さんの瞳をのぞき込んで知った。
「お・・・し・・・さん・・・」
これは幻覚ではない、とオレにはわかっている。過去の記憶のフラッシュバックだ。これは、実際に起きた出来事なのだ。
そう、幻覚ではない。まだ正気でいられている。意識がコントロールできている。オレはまだ大丈夫のようだ。まばゆい炎天に向かって目を見開く。日差しが、焼けた火箸のように突き刺さってくる。朦朧とした意識を、暑熱が融かし喰らおうとしている。そうはいくものか。
「ジュビーを・・・たすけに・・・いく・・・」
声を絞り出した。もう一度、自分を奮い立たせるのだ。弱音を振り払い、手首を縛る革ヒモに歯を立てる。
ギジギジギジ・・・ガジ・・・キリキリ・・・
「くぬやろうっ・・・くぬやろうっ・・・ぐぬぉ・・・いゃろ・・・うぉ・・・」
なんという硬さだ。ガンコサイの革にちがいない。もう一度、オオカミがきてくれたらいいのに。そうしたら、このヒモを噛みちぎらせてやる。あの牙はなかなか使えた。この際、内臓を食い破られてもいい。それと引き換えにしてでも、このハリガネのように固着した革ヒモを切断し、紫に膨らむ手首を自由にしてやりたい。泣きたくなるほどの渇望だ。革が食い込む疼きと痛みも尋常ではないが、不自由の苦しみがオレの心を蝕み、狂わせていく。屍肉のように褪せた指先の感覚は、もうない。それでも、手の平の石を・・・ジュビーの髪留めを放さない。もう一度、握り締める。
「ジュビー・・・」
声に出せば、奮い立つ。やるしかない。とにかく、自分ひとりの力でやるしかないのだ。
「くそう・・・はあ・・・はあ・・・くそっ、くそっ・・・はあ、はあ・・・ぐぞっ、ぐぞっ、ぐぞうっ・・・」
残された体力をかき集めて、革ヒモに食らいつく。暑い・・・暑い・・・ツバも出ない・・・乾ききった歯ぐきを剥き、前歯で革を掻きむしる。もう少し、もう少し、もう少し・・・もう少しっ・・・
ぷっちっ・・・
「・・・切れたっ!」
夢ではない。幻覚でもなさそうだ。一ヶ所が切れた革ヒモは、ミチ、ミチ・・・ポキ、ポキ・・・音をたててほぐれていく。口を使ってほどききると、ついに左と右の手首は離れ、お互いの自由を獲得した。
「・・・や・・・っ・・・た・・・」
動脈の水門が開いた。血液が、怒涛のごとくに水路から水路へと通い、流れ、先々にまでゆき渡る。青紫に変色していた指は、見る見るうちに瑞々しさを取り戻していく。感覚がよみがえる。氷のようだった末端に、体温が戻る。きしむ関節が伸びるごとに、細流に血液がひろがっていく。傷口から、ピュッピュと血がほとばしる。この痛感の喜ばしさときたら・・・
う・・・う・・・ん・・・
格子のすき間から両手を突き伸ばし、思いきりパーにひろげた。手の平を太陽に透かしてみれば、真っ赤に流れるオレの血潮。オレたちはみんな生きている、生きているからうれしいんだ・・・
「いきてる・・・」
開ききった手の平には、ジュビーの石がのっている。彼女も生きている、と確信する。高揚している間に、ことりと気絶した。
獄に入ってから三度めの朝がきた。オレはまだ生きているらしい。が、おおむね死んでいると言っていい。傷口という傷口に、這い虫が湧いている。からだ中から死臭が漂っていそうだ。分解されながら、蒸発していく。遮蔽物なしに降りそそぐ陽光と、容赦のない炎暑に焙りたてられている。気も狂わんばかりの渇き。こらえる、の限界は、はるかに超えた。この先、半日の灼熱を無事にやり過ごせるとは、とうてい思えない。奇跡でも待つしかない。突然の雨とか、地割れとか、太陽が爆発するとか・・・せっかく引っぱがした左右の手の平だが、再び合わせてみる。祈るのはガラじゃないが、死の間際には人間、こんな敬虔な心持ちになるものなのだろうか?しかし、そろそろ観念のしどきだ。苦しむのにも疲れた。汗はもう出ない。自分が収縮していくのがわかる。暑さもさほど感じなくなってきた。痛みまでが消えていく。生をあきらめる、とはこういうことなのだろう。魂が光の粒となって四散する。
「・・・ハッ!?」
心臓が止まっている。すぐに気づき、気持ちを入れ直す。
とくんっ・・・
危うく、脈動は戻った。が、その泊は心もとない。生命の綱渡りだ。もうおしまいなのだ。どうがんばったところで、あと数時間と長らえられるはずがない。ジュビー、テオ、すまなかった。カプーのおっさん、ひきょうもの。王様ドラゴン、はくじょうもの・・・祈りをやめ、呪詛をつぶやく。
そのとき、太陽が陰った。
「・・・?」
いや、ちがう。陽射しが何者かの影にさえぎられたのだ。目がかすんで見えないので、確認はできないが。
がつっ・・・ごんっ・・・がっ、がつっ・・・
突然の大きな音。なにか硬いものがオリに叩きつけられている。
「・・・なん・・・だ・・・?」
「フラワー・・・」
久しい響き・・・それは、オレの名前だ。
「フラワー」
オレの名前が呼ばれている。
「フラワーっ!・・・い、生きてるっ、フラワーっ!」
目を凝らしてよく見ると、そこにはイボイノシシがいた。
「ばかっ、誰がイボイノシシだっ・・・ぼくはっ・・・」
細い肩、薄い胸・・・その上に、幼い、ボコボコの顔がのっている。
「フラワー・・・あんた、フラワー・・・って、名乗ってたろ・・・?」
「・・・おまえ・・・あのガキ・・・か・・・?」
テオ・・・確かにテオだ。半殺しの目に遭って、顔はドテカボチャのように腫れているが、間違いなくあの少年だ。
「いま・・・たすけて、やるから・・・まってて・・・」
ずかっ・・・どがっ・・・
テオが振り下ろしているのは、アブラ松の剣だ。小さなからだに不相応にゴツいそいつは、首くくりにされたこの少年の足元にすげてあったはずのものだ。
「・・・たすけに・・・きてくれた・・・のか・・・?」
「そう、だよ・・・よかった、あいつらがはなしてた、とおりだった・・・」
瀕死の身で、やつらの会話を聞き取っていたとは。そのうえ、誰もいなくなると、もぞもぞと脱出の奇術を成功させた。さらに、ひとりで逃げようともせず、バギーの轍をたどったのだ。気の遠くなるような長い距離を、重い木剣を背負い、歩いて。そうして、オレのためにやってきてくれたのだ。なんてやつだ。
小さなからだは、バネ仕掛けのおもちゃのようにぎこちなく、にび色の剣をオリに叩き込む。ヤシの太い幹を固定するツルを断ち、格子を解こうというのだ。
がつっ・・・がん・・・
「くそっ・・・くそう・・・はあ、はあっ・・・このう・・・」
剣とはいっても、テオが持つのはただの木製だ。脂を吸った松は高密度で、硬いことこの上ない。が、乾ききって締まったツルが、そんなもので、スパリ、プツン、と切れるわけがない。打ち込むたびに、手に衝撃が走り、満身創痍のからだ全体が痛んでいることだろう。それでも、テオはやめようとしない。
がつっ・・・がつっ・・・がつっ・・・
「・・・はあ・・・はあ・・・」
飛び散る木片とともに、熱い水気が跳ね飛んでくる。触れてみると、それは血だ。この少年が、からだのどこからか、鮮血を噴き出させているのだ。
「・・・テ・・・テオ・・・」
「もうすぐだっ・・・フラワー・・・がんばれ・・・」
テオの流す血は、やがてやつの足を、手を、剣を伝って格子にたっぷりとたまり、したたり落ちてくるまでになった。
「・・・よせ、テオ・・・オレはいい・・・もう、いいから・・・」
「あんたは・・・ぼくを、たすけてくれた・・・フラワー。このために・・・ぼくは、きたんだっ・・・」
木剣を振り上げるのをやめようとしない。そして、満身の力を込めて振り下ろす。鮮血がはじける。
がつっ・・・
「・・・おまえ、そんなからだで・・・死んじまう、ぞ・・・」
「フラワー、ぼく・・・オオカミを殺したよ。へ・・・へっ、で、食べてやったよっ・・・」
「・・・テオ・・・」
「死ぬもんかっ・・・!」
がつっ・・・
襲いかかってきたオオカミを、このガキは返り討ちにしたのだ。そして、そいつを食べたか。忘れていた。マモリのメンバーの弟の・・・兄の肉体を敵の前で爆発させてかえりみない、あの戦闘本能を。テオもまた、オレの目指すところとは形が違えど、剣士だ。
「死なないよ・・・生きるんだ、ぼくは・・・」
「・・・ああ・・・そうだな・・・」
「あのおねえちゃんを・・・たすけようっ・・・フラワー」
「・・・ジュビー・・・」
「うん・・・ジュビーおねえちゃんを・・・たすけるんだ・・・」
「・・・ああ・・・」
胸が熱くなる。どこにまだこんな水分が?と不思議に思えるほどの涙が、目頭から湧いては、ほおを伝い落ちていく。
「・・・テオ・・・おまえ・・・」
「うん・・・」
「・・・すごいな・・・」
ふと気づいた。上から、血ではなく、もっとほかの水滴も落ちてくる。
「オオカミを、食べたからかな・・・」
がつっ・・・
ツルがついに切れ、格子の一点がゆるんだ。血液のめぐらない指先で、もどかしく結び目をほどいていく。そして最後の力を振りしぼり、下からオリを押し込む。
メキ・・・メキ・・・
合わせ目がきしみ、大きなすき間ができた。からだを起こすと、額がなつかしい風に触れた。と同時に、細くてズタズタの腕が巻きついてきた。そいつを、こっちからも強く抱きしめた。
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