第23話 俺のシャープペンシルが火を噴くぜ
綾香は、今、まずい状況にあった。
しんと静まり返った教室。黒板と教師に背中に集約される生徒たちの視線。
今が好機。教師の視線、クラスメイトたちの視線が綾香に注がれていない、今こそ。
綾香は右手に持ったシャープペンシルの先端を、目の前の席に座る一人の男子生徒の背へと近づけ、そして――
ぷすりと突き刺した。
ぴくりと、その男子生徒は僅かに肩を跳ねさせる。緩慢な動きで振り返り、僅かに不満さを滲ませた顔が露わになった。
「――ふふ」
彼の顔を見て、綾香は笑みを抑えずにはいられなかった。どうしてこんなにも楽しいのだろう。綾香は己の行動の理由もよく分からないまま、そして、よく考えないまま、彼の視線に心が華やぐ。
直後、綾香の額に優しい衝撃が加えられた。男子生徒の手刀打ちである。
「ん――へへ……」
綾香は額を抑え、くすぐったそうにはにかむ。もはや抑える努力すらなかった。
「……何がそんなに楽しいんだか」
呆れた風に呟いて、彼はそれっきり前を向いてしまう。そんな姿すら綾香には好ましく感じられて、もっと悪戯をしてみたくなる。
そうして、今度はその露出した首筋へ。
そんなやりとりが五度ほど続いたあたりで、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「二人ってほんと仲いいよね」
教師が教室を後にした直後、綾香の隣席の男子生徒がそう声を掛けてきた。薄っすら色素の抜けた柔らかそうな黒髪に、中性的な顔立ち、優しげに微笑む彼の名前は、
昨日行われた席替えにて、綾香とはこうして隣り合わせとなり、二、三言葉を交わすようになったのだ。
「え、そ、そうかな?」
綾香は前の席に座る男子生徒、一颯に向けて、ちらちらと視線を送る。当の一颯は、背を向けたまま文庫本を開いていた。たまらず、その脇腹を指先でつんつんとやって、振り向かせる。もううんざり、とでも言いたげな顔が綾香に向いた。
「うん。いいコンビっていうかカップルっていうか……。そういうの憧れるなぁ……」
「ええ? ふふ、そんな、私たち別に付き合ってないよ? ねぇ藤見君」
「あー、そうね……」
「む、ちゃんとこっち向いてよー」
ゆっくりとそっぽを向き始めた一颯を、綾香はにやつく顔もそのままに、再び指で突っついた。
「う、うぜぇ……」
「う、うざっ⁉ うざい……うざい? 私」
「ああ」
「そっか……。うざい、うざい……」
一颯の言葉がよほど堪えたらしく、綾香は俯いて萎んでいく。その口からは、ぼそぼそと呪詛のようにうざい、うざい、と延々零れていた。
「もう、藤見君? 恥ずかしいからって、そういうことあんまり言わない方がいいよ? 誤解されちゃったら困るでしょ?」
「誤解でも、勘違いでも、言い間違いでも何でもなく、ただの真実なんだけど」
そう言って、一颯は綾香の様子に目を向ける。
彼女が一颯に抱いているものが友情、それも、学校や職場が変わって離れ離れになった時に、自然と少しずつ疎遠になっていくような、さっぱりとした段階までで止まってくれるものなら、一颯は許容する。
だけど、もしそうでないのなら。もし、これから育っていくようなことがあるのなら。
今すぐにでもこの関係を終わらせなければならないと、一颯は理解していた。
控えめなノックの音。ドアの前にいるのは、一人の老人だった。
「翔君、翔君。一度、部屋から出てきてはくれないかい?」
ここは一颯も住んでいる学生寮三階の通路。辺りに人の気配はなく、それ以前に、学生寮という名の通り、通常ならみな学校で勉学に励んでいる時間帯である。
そんな中、その老人、江藤宗次郎は、中にいるはずであろう一人の少年に向けて声を掛け続けていた。
「部屋から出て来てくれなくてもいい。せめてこの扉の前まで来て、この寂しい老いぼれの話し相手になってはくれないかい?」
中からの反応はない。物音一つせず、本当に中に人がいるのかすら疑いたくなる。
だが、寮の敷地外に出ていないことは受付で確認済み。他の部屋にいるのでなければ、まず間違いなくこの中にいるはずなのだ。
――どうしたもんかねぇ……。
翔が停学処分を言い渡されてから、今日でもう三週間が経つ。宗次郎は毎日のようにこの部屋を訪ね、その度に、今のような無言の門前払いを食らっていた。
残り一週間と少しで停学期間は終了する。そしてこのままいけば、水嶋翔という生徒の自主退学が決定する。
これが、翔の両親と宗次郎が協議した結果の取り決め。翔の未来を守ろうとする宗次郎と、翔の現在を憂うことしかできない彼の両親の結論だった。
そもそも、本来なら翔は刑事罰を受けて然るべき人物。それが、目撃者がいなかったことに加え、被害者二人の嘆願により、翔は停学処分だけで済んだのだ。
いや、実際はもっと黒々としたものがあったのだが。
それでも、たくさんの人間が翔の再起を願っている。それを、ふいにするわけにはいかない。
勿論、翔の高校入学以前の状況については宗次郎も理解している。この状態が、翔にとっては二度目であることも。
だからより慎重に。宗次郎は、この寮の管理人から借りた合鍵を使って扉を開け、中へと足を踏み入れていった。
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