第68話:収まらぬ鼓動
「おい! 何やってんだてめえ!」
喉を掴み、耳許で大声を上げた。下がっていく体温が、死を示していると思った。
しかし指先に、弱いながらも脈を感じる。ただし「まだ生きてるな」と声をかける間にも、弱まっていく。
「サリハ、来てくれ!」
「は、はい!」
瓦礫の山に向かって叫ぶと、黒服の踊り子が跳ねるように下りてくる。体重の軽い分、ザハークとは比べ物にならぬほど素早く。
「この方は」
「飛盗の頭だ。分かんねえが、闇の炎を喰らってんじゃねえかと思う」
駆けつけた足が、ぴたりと止まった。立ったまま見下ろし、頭から足先まで視線が動いた。その眼には、少なからぬ怖れが見える。
しかしそれも「飛盗の……」と、ひと言を発する間だけのこと。すぐに跪き、セルギンの身体へ布でも掛けるような動作を始めた。
眉根を寄せ、ゲノシスの民を見舞うときの思案顔で。
「我らが土地を見守る双柱、光のミトラ。偏った闇を、あなたにお返し致します。相争うことなく、平穏を」
神官が行う、難しげな祈りとは違った。よく見知った者へ、丁寧に助けを乞うような語りかけ。
だがそれでは足りなかったのか、サリハの表情に厳しさが増す。同時に腰へ手が伸び、結わえた白い瓶が取られる。
栓が外され、傾けられた。口から零れるのは、透明な水だ。
最初は本当に、ただの水と見えた。けれども細い流れに、段々と何か混じっていく。きらきらと小さな光が、一拍ごとに強さを増す。
「人の心に、正しいせめぎ合いを。光と闇の、どちらをも同じように。強すぎる光も、強すぎる闇も、私たちには毒になるのです」
胸から始まって、頭に、そして足先へ。光の細紐が、セルギンの身体へ満遍なく注がれる。
やがて、同じ繰り返しを三度もしたころ。下がっていた体温が上昇に転じた。
「おい、セルギン!」
思わず声を上げ、身を乗り出す。まだ瓶を傾け続ける、サリハの邪魔をしてしまった。
彼女は女神への語りかけを続け、文句を言いはしない。それだけに申しわけなく、おとなしく引き下がる。
セルギンが目を覚ましたのは、それから間もなくだ。
「はあっ!」
「おい、おい!」
溺れて窒息しかけたかのごとく、彼は押し詰まった何かを吐き出した。もちろん水ではなく、実態のない黒い煙のようなものだったが。
それはすぐに色を失い、消えてしまう。代わりにセルギンは、呼吸の仕方を思い出すようにぎこちなく、息を取り戻していった。
「はあ、ふう、ふぅ――」
「闇の侵食は止まったようです。もう大丈夫かと」
額の汗を拭い、サリハは場所を譲ってくれた。彼女の体力も心配だったが、察して「平気ですよ」と先を越される。
「はっ、はは。ザハークの、旦那、ですかい。別嬪さんで、いい眺めだったのに」
「うるせえ、てめえの軽口を聞いてやる暇はねえよ。何があったか、とっとと言いやがれ」
「し、死人に鞭たあ、酷ってもんでさ」
死んでねえよと、軽く頬を叩いてやる。もしかするとまだ、現実に辿り着いていないのかもしれない。
「起きてやすよ。もうちょっとだけ待ってもらえりゃ、旦那と再戦したっていい」
まだ動悸が収まらぬようだ。彼は上体を起こし、苦しそうに胸を押さえる。
「公爵が、闇の炎を持ってやした。丸腰だったし、何をされてもこっちが上と思ったんですがね」
「そりゃあそうだ。不用意に飛びかかりでもしなきゃな」
神殿でそんなことをした男に覚えがある。サリハの危機と併せての事態だったが。
「意外とあたしを買ってくれてるらしい。実はそうでやす。先走ったのは、あたしの弟分でさ。武器のない公爵は、いきなり奥の手を出したって寸法で」
「弟分? ここにはお前しか居ねえが」
「たぶん追って行ったんでしょうねえ」
セルギンの倒れていたのは、隠し通路が三叉路になった場所だ。一方は崩れた石に飲まれ、残りのどちらかへ公爵は逃げたことになる。
「どっちだ」
「あたしらはこっちから来たんで、きっとこっちでやしょ」
崩落から真っ直ぐ伸びた通路でなく、右へ折れたほうをセルギンは指した。そちらは概ね山頂方向で、国を脱出する目的の公爵には不本意と思えた。
「分かった。てめえはここでおとなしくしてろ」
「そう言われて、旦那ならじっとしてるんで?」
「するわけねえだろ」
馬鹿なことを言うなと思うが、嘘で言い包める気にもならない。「へっへっ」と笑う男に、舌打ちしか返せなかった。
――この、きかん坊が。
まだふらふらしている男が、何をしでかすか分からぬでは放っておけない。サリハを見張りにとも考えたが、彼女では押さえきれまい。
どうしたものか。連れていく以外の選択肢を探す。が、あるはずもなかった。
「仕方ねえ。一緒に――」
ドオッ。と、轟音が響いた。それはおそらく地下でなく、城の中で。
「今度は何だ!」
「何か、聞こえます」
サリハが耳を澄まし、ザハークも倣った。たしかに人の声が、何重にも束ねて聞こえる。
「公爵閣下を探せ!」
「閣下をお救いするのだ!」
「近衛兵の誇りを見せよ!」
天空騎士団を頂点とした、近衛部隊。城を囲んでいた近衛兵が、城へ雪崩れこんだらしい。先の轟音は、きっと門を破ったときのものだ。
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