29 弁千代決死行 下






 鎧の腹巻に直垂ひたたれ

 それだけの軽装で、弁千代は河越城へ赴くことにした。

「大丈夫なのか、それで」

 氏康は心配したが、弁千代は笑ってこたえた。

「変に鎧兜で行くと、かえって怪しまれると思います。今、兄も古河公方も、戦ってはいないんでしょう? であれば、これくらいの格好の方が良いと思いまして……」

 風魔小太郎もそのとおりだとうなずくので、氏康はそれ以上何も言わずに見送ることにした。


 こうして弁千代は、府中から一路、北へ、河越へと向かった。

 

 目に、春の武蔵野の、美しい光景が飛び込んでくる。

 草花は咲き、木々は葉を茂らせ、どこまでもつづく緑の平野。

 弁千代がまたがる馬も、その景色をながめ、嬉しそうにしている。

 その馬は、諏訪左馬助さまのすけの愛馬だった。

「左馬助、一緒に戦ってくれ」


 そう、これは戦いだ。

 今、自分ができる最大限の戦い。

 敵軍八万の中を突破し、伝えなければ。

 兄に、攻撃の日時と、それまでは自重するようにと。


「……ご自愛くださいませ、弁千代さま」

 馬のとなりに、馬と同じ速さで駆ける風魔衆、二曲輪ふたくるわ猪助が声をかける。

 風魔小太郎は、今度こそ北条軍の所在を気取られぬよう工作しており、氏康の元から離れられない。そのため、風魔衆随一の足を持つ猪助が、弁千代の補佐としてつけられたのだ。

「分かってる、猪助。ありがとう」

「礼には及びません……それより、今少しで河越ですぞ」

「そうか」

 はやる弁千代だが、ここで慌てて息を乱しては目立ってしまう。

 あくまでも、城を囲む八万の兵の身内の誰か、という風に装わなくてはならない。いかにも、見物に来ましたよ、というていでだ。

「……見えてきました」

 猪助が前方を指さす。


 河越の野が、人で、というか人の群れがいくつもいくつもあって、それで埋め尽くされていた。

 こんなにも、どこから来たのかと思うくらいの大人数、群れ。

 どこもかしこも、旗指物が立てられ、その紋は種々雑多。

 河越城のを、その群れたちが、うごめいていた。

 それは、河越城という虫の死骸にたかる、蟻の大群のようにも見えた。


「……兄上は、こんな状況で半年も」

「最近は、小競り合いすらもなくなりましたから、少しは楽でしょうが……」

 猪助は歎息たんそくした。小競り合いすらない、ということは猪助のような草の者(忍者)が河越城内外へとやり取りする機会が無いことを意味する。

「戦が無いことが、逆に河越城を苦しめている、ということか」

 弁千代は馬上、河越城を眺めやって、ふと兄に思いをはせる。


 今、兄上はどうしているだろうか。

 切歯扼腕して、戦えないことに憤りを感じているだろうか。

 あるいは、逆に戦わないことを吉として、でも決め込んでいるのだろうか。


「弁千代さま」

 猪助がささやく。

「もはや、敵の目と耳を気にした方がようございます」

 敵陣が目の前に迫り、敵兵の姿が、顔や仕草が目に見えてきた。

 よく聞くと、さざめくように、声も聞こえてくる。


 ……敵兵はゆるみ切っていた。

 ある者は座り、ある者は寝て。

 好き勝手に眠っているかと思えば、あちらでは好き勝手に飲み食いをしている。

 刀を抜いて、剣舞気取りで唄いながら踊っている何人か。

 それを見ている大将格とおぼしき男は、何と両脇に女をはべらせていた。

 よく見ると、陣中のそこかしこに女が入り浸り、鼓を打つ女、笛を吹く女、あるいは意味深な目つきをして、眉目の良い侍を木陰に誘う女もいた。


「聞きしに勝る、堕落ぶり。これで兵と言えるのか」

「……ま、ある意味、こちらとしてはありがたいんですが」

 女たちや酒食を持ってくる商人の中には、風魔の手の者がいる。河越城内へは行けないが、敵情については、かなりの精度で風魔に把握されていた。

「それにしたって、いくらなんでもひどすぎるのでは?」

「……何でも、山内上杉家の長野業正なりまさどのが、そうしろと言ったらしいという噂です」

「あの、上州の黄斑とらが? なにゆえ……」

「古河公方さまが総攻め総攻めとうるさいゆえ、兵が動かんということにしたい、と」

 長野業正としては、なるべく戦わずして勝てるのなら、それに越したことはないと考え、陣中見舞いと称して、兵たちに酒食や女を提供させるようにした。

 関東諸侯たちも、総攻めには消極的だったため、この流れに乗った。

 かくして、八万の軍勢は大半が骨抜きとなっており、古河公方・足利晴氏としては、歯みして悔しがっていた……。


「そこへ、あのか」

「ええ、古河公方としては、してやったりというところでしょうな……っと、そろそろ始めますかな」

 二人は話しているうちに、敵陣のかなり近くにまで迫ってきていた。

 弁千代と猪助の河越城侵入計画は、こうだ。

 まず、猪助が敵陣の中で騒ぎを起こす。

 しかるのちに、弁千代が、見物に来たどこぞの若様のふりをして、騒ぎに恐れをなして、まちがえて、つい、河越城の方へ馬を向けてしまった……という流れである。

「……万一、ばれた時のことを考えると、弁千代さまは常陸の小田家の陣中あたりからが良いかと」

「そうだな。小田は、左馬助の件でしてやられたと思っているようだし、何かあったら、かばってくれるやもしれん」


 常陸の小田家当主・小田政治は、北条家の使者・諏訪左馬助を足利晴氏に紹介し、北条家との和睦を取り次いでいた。

 しかし、その和睦の取り次ぎを利用され、使者である左馬助を討ち果たされた上に、北条家を夜襲するという、いわば顔に泥を塗られたかたちになり、小田政治は陣中から出て来なくなってしまった。

 しかも渉外はすべて、重臣である菅谷貞次に任せるようになっていた。その貞次にしてからが、そもそも左馬助と交渉を持った相手であるので、足利晴氏や扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだとしては、小田家とは没交渉にならざるを得なかった。

「では、拙者は、小田家の近くの、どこかの大名の陣中にて騒ぎを……」

 しかしそのとき、弁千代と猪助は計画を大きく変更せざるを得なくなった。


「……おい、そこの二人。何者だ。どこの家中の者か」

 声をかけた男は、陣中のゆるみ切った雰囲気に染められてないらしく、油断のない眼光をしていた。

 男は、粗末な作務衣のような服を着て、刀を背負っている。

 迷いなく足を運ぶ、その様を見て、猪助はささやく。

「弁千代さま、先へ行って下さい」

「え?」

「あれは草の者。足さばきで分かりま……」

「何をこそこそしている! いずかしいぞ、うぬら……ん」

 そこで男は足を止め、猪助の顔をじろじろと見つめた。

「ほうほう……そうか汝、風魔だな? 見覚えがあるぞ」

 一方で猪助の方も、男の正体に勘づいていた。

「太田犬之助か……上杉の草の者」

 弁千代が何か言おうとしたが、猪助の迫力がそれを防いだ。

「…………」


「ははん」

 犬之助はわらった。

「さては、そのどこかの若様を、陣中見物のにでも化けて、河越の城へ忍び入るつもりだったか?」

「……ふっ、そうよ」

 猪助もまた、嘲るように笑う。

「よくぞ見破ったわ。さすがは音に聞こえた犬之助」

「ふん……思い出したわ、汝、二曲輪猪助だな? 早駆けの」

「そこまでばれているのなら仕方ない……ちょうど、この鹿様が、今になって銭をけちり出したので、いらいらしていたところよ……そらっ」

 猪助はわざと乱暴に、馬の尻を思いきり蹴り上げた。

 馬は痛みにいなないて、あたりにかまわず、暴走を始めた。

「うわっ」

「馬鹿様、ちょうどいいのでそのまま河越のお城まで見物にでも行っちまいな!」

 さすがの弁千代もこれにはたまらず、必死で手綱を操り、馬を落ち着かせようとする。

 しかし、馬は止まらず、弁千代を乗せたまま疾走していく。

「猪助……」

 当の猪助は振り返らない。

 だが弁千代は理解した。猪助が、犬之助の誤解を利用して、弁千代を行かせたのだ。


 猪助は、弁千代の馬の足音が遠ざかってから、犬之助をにらむ。

「ふー、せいせいした……じゃあ、始めようか!」

 猪助は自慢の足を動かして助走し、跳ねて、そのまま犬之助の顔面に蹴りをくれる。

「……くっ、こやつ!」

 犬之助は抜刀は間に合わなかったが、顔の前に手を持ってきて、その蹴りを防いだ。

 周りの雑兵たちがどよめく。

 猪助の派手な跳躍からの蹴りが、目立っていたからだ。

「そうだ……それでいい」


 草の者としては、本意ではないが、今は目立て。

 目立って、弁千代への注目を、少しでもこちらへ。


 猪助はここでようやく、振り向いて、弁千代の方を少しだけ見た。



 一方の弁千代は、さすがに馬の制御に神経を費やし、今、自分がどこにいるかが分からなくなっていた。

 どこも似たような雰囲気の、関東諸侯の陣の数々。

 それらがものすごい速度で前からうしろへと流れていき、位置が特定できない。


「……ふう」

 ようやく馬が落ち着いてきたころ、弁千代は、今、自分がどこにいるか確かめようと、最寄の陣の旗印を見た。

桔梗ききょう……」

 太田家の紋である。扇谷上杉家の有力家臣・太田家。現当主は、太田全鑑である。

 まずい、と弁千代が感じたときには、その桔梗の旗印の陣中から、雑兵とおぼしき何人かがこちらに向かってくるのが見えた。

 逃げるか、と弁千代は思ったが、今、うかつに逃げたら逆にあやしまれるのではないか、とためらう。

 その逡巡する間に、雑兵たちは弁千代の近くまで来てしまった。

「……おめえ、なにもんだあ?」

 雑兵たちの頭らしい、大男が聞いてくる。

「近郷の在の者でござる。こたび、こちらの陣のにぎやかさに誘われて、つい……」

 弁千代はあらかじめ考えておいた口上を述べながら、今、自分のいるところと河越城までの距離を目算する。


 走れば、行けるか。

 間に合うか。

 振り切れるか。


 戸惑う弁千代を見て、大男はいやらしい笑みを浮かべた。

「……あれだあ、おめえ、もしかして、女じゃねえのか?」

「え?」

「あやしいなぁ……たしかめねぇとなぁ」

 大男はあごで、仲間の雑兵たちに合図する。

 雑兵たちは、野卑な笑顔を浮かべて、弁千代を囲む。

「うちの殿様はよう……堅物かたぶつで、女を陣中に入れてくれねえんだよう」

 大男が、誰ともなくしゃべる。

「でも今、軍議、行っちまった……今しかねぇと思ってたら」

「待て、拙者は……」

「いんや、の奴のところに行くんだろ? これからよう」

 このとき、弁千代は大男の誤解を解いて、この場を切り抜けようと思っていた。

 ……だが大男の行動は、弁千代の想像を超えていた。

 

 突然、槍を弁千代の肩に突き立てたのだ。


「……ぐっ」

「おめえみてえなはよお、おれたち雑兵を相手にしねえだろ? んだから、こうしたんだ……それっ」

「がはっ」

 つづく二撃目で、弁千代はたまらず落馬した。その弁千代を、雑兵たちが囲む。

「痛いか? 苦しいか? 手当して欲しかったら、ここで、おれらと……」

 大男は弁千代の髪を掴んで、引っ張り上げる。


 ……弁千代の目に、河越城が映る。

 こいつらは、自分の欲望がかなえば、相手が死んでも構わないというやからだ。

 不覚にも、自分は槍を刺されてしまった。

 猪助は来られないだろう……あの犬之助とやらは相当の手練れと見た。

 嗚呼ああ

 自分はこんなところで、しかも使命を果たせずに、死んでしまうのか。

 ……だとしても。

 最後に。

 兄上にひと目、会いたかった。

 幼少の頃、駿河を追われ、赤子の自分を背に、妹を胸に抱いて、走って逃げてくれた兄。

 その兄上に……。


「ぶつぶつうるせえなあ……黙れよ!」

 大男の拳が、弁千代の顔面に命中する。

「あ……」

「ああ? まだしゃべれるのか! うっせえんだよ!」

「あ……あに、うえ……」

「だまれえ! だまれよ! うるさくすると、他の奴らが来ちまうだろがあ!」

 今度は大男の蹴りが弁千代の顔に当たった。

 げふ、という音を出して、弁千代は血を吐いた。しかし弁千代はまだ意識を手放していない。

 そして、これが最後だとばかりに、力なくではあったが、叫んだ。


「あにうえええええええ!」


 ひょう。

 風切り音が聞こえた。

 次の瞬間、大男の右の目に、矢が突き立っていた。

「………?」

 大男は、何が起こったか分からない、という風に片手で自分の顔をまさぐる。

 そしてその手が、右目に刺さった矢に触った時。


 激痛がおとずれた。


「ぐ……ぎ……ぃやあああああ!」

 大男は忍耐の限界を超えた痛みに、弁千代の髪から手を離す。

「お、おお、お……お前ら、取れ! 取れよお! この、痛いの、取れよお!」

「お、落ち着けよ」

「やめろ、それ取ると、まずい」

 大男の仲間の雑兵たちは、半狂乱となる大男にうかつに近寄れず、ましてや近づいて矢を抜くなどできず、狼狽えていた。

 弁千代は、その耳朶じだを大地に触れさせるかたちで、倒れ伏した。

 だから聞こえたのかもしれない。「馬引けい」という、低く、けれども鋭い叫び声を。

 ……そして、大地を轟かせて迫りくる、馬蹄の響きを。


「あ……ぎゃあああああ!」

 大男が何を思ったか、自ら矢を引き抜いてしまい、左目で自分の右目を見るという奇妙な体験をしていた。激痛とともに。

 弁千代は、ついその矢を見た。

 矢羽やばねは、枯れ葉色をしていた。

 

 ……もうすぐそこまで、一騎、来ているのが分かった。

「兄、上……?」

 弁千代と同じく、直垂ひたたれ姿。

 急いできているというのに、息の乱れを感じさせない。

 もうこの時には、雑兵たちも、誰が近づいてきているのか、その目に見て分かった。

「じ……地黄八幡じきはちまん!」


 北条孫九郎綱成が、怒気をはらんだ目をして、雑兵たちを前に、馬上、弓をかまえていた。



「…………あ」


 雑兵たちは逃げる、という選択肢を忘れたかのように、その場に呆けたように立ち尽くしていた。

 だが、綱成は一切の容赦をせず、矢を射る。


「ぐわっ」

「ぎえっ」

「ひいっ」


 矢はあやまたず、雑兵たちの首に当たった。これで雑兵たちは声が出せない。

 綱成は瞬時に馬を下り、弁千代を抱える。

「待……て……」

 隻眼となった大男が、恨みを晴らさんとばかりに、綱成に突進した。

「…………」

 綱成は無言で、左手で弁千代を抱えながら、右手で剣を抜く。

「死……ねえ!」

 大男の吶喊とっかんは、だが綱成のさらに速く、そして強い、喉への刺突によって終了した。


「……ぐっ……う……」

 今度は大男の方が血を吐き、その場に倒れ伏した。

「あに、うえ……」

「今は何も言うな。傷にさわる」

 綱成は愛馬の鞍に弁千代を乗せ、手綱を握らせる。

「行け」

 綱成が鋭く言うと、馬は悟ったように、河越城へと向かって走る。

 そして自分は、弁千代の乗ってきた馬に、素早くまたがる。

 馬上、綱成が敵陣を眺めると、そこには多数の足軽や武士たちがぞろぞろと陣から出てきている最中だった。


「なにごとか」

「騒ぎの音か」

「……敵!?」

「…………」


 綱成が決然として敵陣を睨む。


「……ひっ」

 誰ともなく、怯みの声が上がる。それだけの力ある視線だった。

 そのとき、綱成と対峙する足軽や武士たちのうしろから、声がかかった。

「……軍議から帰ってみれば、一体何か」


 桔梗の紋所、扇谷上杉家の将・太田全鑑が陣に戻ってきたのだ。







弁千代決死行 了

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