31 霧隠の城 下
その夜。
河越城中。
真田幸綱より、北条綱成の手助けをせよと河越に留め置かれた草の者、
「……いけませんな、これは。城中にいては、駄目です。きちんと医術を修めた方に診てもらい、十分な休息と、そして食べ物。猪肉とか、魚とか……血肉となるものを食せぬと……」
草の者は、手傷を追うことが日常茶飯事であるがゆえに、ある程度の傷の見立てができる。
だが、その草の者の
綱成は床に臥す弁千代に向かって言う。
「弁千代」
「……はい」
「すまんが、お前の傷のこともある。北条御一家のひとりとして、お前に復命を命ず」
弁千代に城外へ逃がれ、北条氏康の元へ戻るよう、綱成は弁千代に、敢えて命令した。
命令というかたちでないと、弁千代が意地を張り、河越に残ると言いかねないからだ。
「……ここに、お前の伝えた言葉を、河越城内の者が了承し、その時には呼応する旨の
綱成は書状を弁千代の懐中に入れる。
弁千代は今、手傷により、手をうまく動かせないためだ。
城主の間にいる、城将・大道寺盛昌と、寄騎の山中主膳も心配そうに見守っている。
「……
「は」
綱成は、
「頼みがある」
「なんなりと」
「わが弟、弁千代を城外へ逃がしてほしい」
「……それは」
難しい、と思ったが、綱成の必死の眼差しを見て、そこまで言えなかった。
決死で城外へということならできる。しかし、この場合、弁千代と、そして介添えする自分も生きて城外へ脱し、北条氏康の元へ行くということだ。それは、決死よりもはるかに困難な
綱成はその
「盛昌どの」
「なんでござろう」
「この城の秘奥……あの仕掛けを使っていただきたい」
「秘奥……あの仕掛け……もしや」
盛昌は悟ったが、主膳には何のことか分からず、つい盛昌に聞いた。
「盛昌どの……それは、何のことでござる」
「主膳どの、この城を作ったのは、誰かは……お分かりでござるな」
「むろん、太田道灌でござろう」
太田道灌。
その築城術の精髄が、この河越城の仕掛けである。
「……城中に霧吹きの井戸、と呼ばれる井戸がござろう」
「……ああ、あのいつも
その井戸は、いつも水を汲み出せるので、この籠城中は重宝しているが、何故かいつも
「あれこそ、太田道灌の残したこの河越……いやさ、霧隠の城の、霧を吹く井戸。すなわち、
「……なんと」
仰天する主膳に、綱成が補足する。
「……ただし、いついかなる時も、というわけではござらん。時季というものがござる」
盛昌がうなずいて、懐中から、ひとつの巻き物を取り出した。
「それを孫九郎どのが、この籠城の中、道灌入道がこの城に残した巻き物をつぶさに調べ、ようやくわかったのでござる」
「……して、その時季やいかに?」
それまで黙っていた
綱成がこたえる。
「おそらく……春。あたたかに、かつ、空に湿り気を帯びる時」
「まさに今ではござらんか」
「左様。この仕掛けを使い、
*
その夜。
河越城外にて。
河越を包囲する陣中にて、いつもの乱痴気騒ぎも終わり、皆が寝静まった頃。
その軍勢は、ひそやかに動き出した。
扇谷上杉家中、太田家の軍勢である。
「…………」
将である太田全鑑は、全軍にしゃべることを禁じ、全鑑の軍は、無言で移動を開始した。
ふと。
河越城中から、笛の音が聞こえてきた。
北条孫九郎綱成による、もの悲しい調べの曲である。
だが、これは毎夜、繰り返されることなので、城を包囲する兵たちの間では、もう慣れており、心得ている者は、就寝の時間の合図と決め込んでいた。
全鑑は改めて、その笛の音に耳を傾けた。いい曲だ、と感銘を受けているところ、それは起こった。
「…………!」
全鑑が禁じていなければ、どよめきが響いていたことであろう、それは、城から発生した霧であった。
霧が。
ぞくぞくと。
むくむくと。
城のそこここから、曲輪から。
まるで城の姿を隠すように。
城をどこか天上の国に連れて行くかのように。
それは、霧は。
河越の城とその周りの空間を、すっぽりと覆ってしまった。
「これは……」
さすがの全鑑も、これには驚嘆の声をもらした。
聞いたことがある。
父か。
祖父か。
そのどちらかは忘れてしまったが、偉大なる曽祖父・太田道灌の築城術の秘中の秘。
河越の城の秘奥。
霧隠。
「まさか、地黄八幡が……その仕掛けを見つけ出し、そして使うことができたというのか」
全鑑は思わず、城の方へ向き直る。
そのとき、道灌より伝わる名将の血か。全鑑の歴戦の勘か。
それが働いて、彼は、河越の城の脇を流れる川を見た。
河越の名の由来ともなったと言われるそれは、一艘の小舟を、その流れで運んでいた。
小舟の上には、弁千代と、そして霧隠と名乗る草の者が乗っていた。
*
時はほんの少しだけ
北条孫九郎綱成は、弁千代と
綱成が、いつもどおり夜半に笛を吹く。
いつもどおりだ、と思わせるための細工であり、綱成はこういう時のために、毎夜、定刻に笛を吹くことにしていた。
そして、城将・大道寺盛昌が、霧吹きの井戸の
地の熱と、空の湿り気で、おそらくは霧が吹いてくる。
霧が出るのを確かめてから、山中主膳は、弁千代と
「……大体は
そして打ち合わせが終わる頃には、とっぷりと日が暮れ、脱出実行の刻限が迫っていた。
弁千代をおぶって、自らの
「そういえば綱成どの」
「何か」
「こたびのことで、何か褒美が欲しゅうござる」
綱成は、そういえば
そこで、弁千代に託した書状に、
「いや……そういうわけではござらん」
ここで
「できれば拙者、ここで皆々様と一緒に
不得要領な綱成に、向かって、
「……その、霧隠という名を頂戴いたしたく存じます」
「名」
「それがし、実は猿飛という同朋がござってな、その名……猿飛がうらやましゅうござった。それがしもこう……技にふさわしい、切れ味のある名が欲しゅうござった」
そこで
「北条孫九郎綱成どの、この城の秘奥というのは承知。しかれども、それがし、この大任を果たすにあたって、その名をくださらんか」
「…………」
綱成は沈黙していたが、くすりと笑った。
こんな面白いことをいう奴だったのか、と今さらながらに感銘を受けたのだ。
「……分かった」
「おお、では……」
「今この時より、そなたは霧隠だ、
*
小舟の上にて。
弁千代は霧隠の背中から下り、舟底に体を横たえていたので気づかなかったが、霧隠は、敵兵に見つかったことを察知した。
しかし、霧隠は別に慌てた様子もなく、両手で印を組んで、何ごとかを唱えた。
「何ですか、それ? 霧隠どの」
「……まあ、らしい雰囲気を敵に与えているのでござる……そらっ」
霧隠の手が水面を走り、水柱を立たせる。
立てつづけに、二回、三回と水柱を立たせた霧隠は、弁千代に語りかける。
「さ、この隙に飛び込みますぞ」
「……分かりました」
霧隠が深く息を吸い込み、包帯だらけの弁千代が舟の中で立ち上がった時、敵兵の将とおぼしき者から、声がかかった。
「待て! そちらは昼、わが兵が傷つけた者と見た! その体で水に入るのは毒ぞ!」
霧隠が、気に留めるなと弁千代の背中を軽くたたいた。が、弁千代はその言葉に何かを感じ、逆に霧隠をおさえた。
「待ちましょう。こちらの身を案じている……何かある気がします」
「いや、でも……」
そこまで言って、霧隠は、弁千代の目に、その兄の綱成と同じ
「……分かりました。でも、何かあったら、お覚悟を」
「はい」
太田全鑑は、小舟に乗った二人を見て、特に包帯をした少年を見て、自軍の雑兵が傷つけた者と悟った。しかも、詳細を調べると、少年は北条綱成の弟らしいということが察せられた。
そして瞬時に全鑑は判断した。
この少年を助ければ、北条に対して、大きな貸しになる。でなくとも、少年を傷つけてしまったことについての罪滅ぼしとなろう。
そうすれば……。
「全軍、停止! 今より、あの小舟の二人を保護する。いいか、間違えるなよ。言葉のとおりだ、保護する。丁重に取り扱えい!」
それでも満足しなかったのか、全鑑は自らが川の中へ、ざんぶと飛び込む。そして、鎧兜をまとっているにもかかわらず、器用に小舟のそばまで行った。
「拙者、扇谷上杉家中、太田全鑑。扇谷上杉の者ではあるが、是非、貴殿を助けたい。そして、どうか……」
ここで全鑑は少し逡巡したが、それでも、戦国を生きる者の勘が、彼を押した。
「どうか……拙者を、北条方にお味方する、取次をしていただきたい!」
霧隠の城 了
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