32 千葉の北斗






 北斗七星:おおぐま座の腰から尻尾を形作る七つの星がつくる柄杓(ひしゃく)の形をしたパターン。


 引用:天文学辞典(日本天文学会)






 下総しもうさ

 佐倉。

「……それで、扇谷上杉の太田全鑑は、北条方についた、と」

「左様でございます」

 真田幸綱は、河越にひとり残してきた草の者、かくれ改め霧隠と対面していた。

 もしもの時のために残してきたが、まさか河越城最大の秘密・霧隠の仕掛けに乗じて、北条孫九郎綱成の弟・弁千代を護衛して脱出してくるとは思わなかった。

 水も滴る、と表現してよいほどの端麗な霧隠は、話をつづける。

「幸いにも、全鑑さまは医術の心得がありました。自ら弁千代さまを手当てしていただき、そしてそのまま、居城の岩付(さいたま市岩槻)まで戻られたのです」


 手当の最中にも全鑑と弁千代は話し合いをして、まず霧隠を江戸へ向かわせ、綱成の書状を江戸の城将・遠山綱景を届けさせることになった。

 そして弁千代は傷の痛みをこらえながら、筆をった。

「太田どのがこちらについたこと、私自らが書かないことには、しかと伝わらないでしょう」

 全鑑は、弁千代の誠実な対応に感銘を受け、綱成の弟というところだけでなく、弁千代個人に対して親交を持つことに決めた。


 その時点で、さらに幸運なことに、二曲輪ふたくるわ猪助が、夜半に突然動き出した太田家の軍勢に異様を感じ、つけてきていた。そして弁千代がいることに気づき、彼の奪還を図り、躍りかかったところに、弁千代自身の制止を受けた。

「無事だったのか、猪助。私は大丈夫。こちらの太田全鑑さまに手当をしてもらっているのだ」

「それは良かった……」

「そういえば」

「なんです?」

「あの、太田犬之助とやらは……」

「ああ、どっかの田舎道で、へばっている最中ですよ」

 猪助は自慢の足で逃げを打ち、それを犬之助が追いかけてきたが、見事に振り切ってきたのだ。

 弁千代は書き上げたばかりの書状を、早速猪助に預け、北条氏康の本陣へと向かわせた。

 氏康の反応は早く、即座に太田全鑑へ向けての丁寧な礼状を送りつけ、また、弁千代の容体が安静を必要としているので、しばらく岩付城にとどまらせるよう頼んだ。






 千葉の北斗






 佐倉城内では、幸綱への報告を終えた霧隠が、猿飛をはじめとする仲間たちと久闊きゅうかつじょし、互いの無事を祝っていた。

 その光景を眺めやりながら、幸綱は、千葉介ちばのすけこと千葉利胤からの呼び出しに応じ、城主の間へ向かった。

「真田幸綱、まかりこしました」

 幸綱が丁寧に礼をして、そして頭を上げると、場には、千葉家新当主・千葉利胤、千葉家家宰・原胤清、そして今となっては世代を越えた莫逆の友である原虎胤が座していた。


 利胤が咳をしながらも、「大儀」と笑顔で言った。

「こたび、貴殿を呼び出したのでは、ほかでもない。ついに、北条新九郎氏康どのが、河越へ攻めかかるという知らせをいただいた」

「存じております」

 氏康は、河越への攻撃を決めると、同盟国である千葉家に真っ先に知らせてきた。

「……それで、じゃ」

 主君である利胤がつらそうな様子のため、胤清が代わって説明をつづける。

「虎胤、おぬしもじゃが……幸綱どの、千葉の百騎を率い、河越へ行ってくれんか」

「……なんと」

 幸綱は少し驚いたが、虎胤は察していたらしく、ぼりぼりと頭をいていた。

 胤清は話をつづける。

「……佐倉には、原の千騎が残る。それゆえ、わしは行けない」

 下総千葉家の兵は、千葉家直属の百騎と原家の千騎で構成されている。事実上、原家が千葉家の本隊と言えるので、百騎を出しても、何とかなるという目論見である。


「あいや、お待ち下され」

「幸綱どの、どうされた」

「別に河越に兵を出さなくても良いのでは。利胤どのは、十分働きを示された。これ以上は……」

「いや」

 利胤自身がこたえる。

「こたびの戦、関東の行く末を決めるいくさと見た。そのいくさに、千葉家としても参戦した方が良いと思うた」

 利胤は語る。

 古河公方・関東管領の同盟軍八万相手に、北条軍八千と河越城兵三千では多勢に無勢。少しでも勝利の確率を上げるために、たとえ寡兵といえど、援軍はあるに越したことは無い。

 そして、千葉家としては、今、北条家の勝利に賭けている。何としても北条に勝ってもらいたい。そのためには……。

「幸綱どのと虎胤どのに、この百騎を連れて行っていただければ、百騎が千騎に、千騎が万騎に値する働きが出来よう……そう期待してのことだ」

「買いかぶりでは……」

「幸綱どの」

「は」

 利胤は上座から下りて、幸綱の手を取る。

「貴殿ならできる。貴殿なら、倉賀野三河守あたりから弱小と侮られた千葉家を、千葉家ここにありと示すことができる。それに……千葉家はここで何とかせねば、もう滅びるしかない、頼む」

「…………」

 幸綱とて、所領を失って、一度家を滅ぼした身である。利胤の気持ちは痛いほど分かった。

 ここで、利胤は虎胤に目を向ける。虎胤がうなずく。

「頼む。幸綱どの自身、この大戦おおいくさせ参じて、腕を振るいたいのであろう?」

 これは幸綱の心に響いた。


 北条軍は、たしかに善戦しよう。

 だが一手、一手足りない気がする。

 自分が。

 自分と虎胤が。

 河越に行きさえすれば。

 それも、ある程度の軍勢を連れて。


「このいくさ、ひっくり返すことが……」

「なら、決まりだな」

 虎胤が立ち上がった。彼はすでに、河越に駆け付けるつもりだった。戦の上とはいえ、その父親を殺してしまった北条綱成に、借りを返すのは、今この時をおいてほかにない。

 そのため、虎胤はかねてから江戸城の富永直勝と遠山綱景とやり取りをしており、内諾をもらっていた。

「善は急げ、だ。千葉の百騎、今すぐ集めてもらおう。胤清、それで良いか?」

「うけたまわった」

 胤清は腰を上げ、千葉の百騎の招集に向かった。


 虎胤は胤清を手伝うとして、席を外した。

「幸綱どの」

 利胤は、幸綱を城の庭の、うまやへ誘った。

 時刻はもう、夕刻となり、空は暮れなずみ、青みを帯びはじめていた。

 そこへ行くと、利胤の到着を待ちきれないとばかりに、連銭葦毛の馬がいなないた。

疾風はやて、という」

「疾風」

 幸綱は惚れ惚れするように連銭葦毛の馬を見た。

 彼も武士であり、郷里の信濃の野山を駆け回る若駒や駿馬を見てきて、馬を見る目は肥えていた。


「よき馬ですな」

「……だろう。わが千葉家の祖、相馬小次郎の愛馬の血を引いている」

「まことですか?」

「……そう言われている、ということだが。よき馬であることに変わりはない……幸綱どの」

「はい」

 利胤は疾風号を厩から出し、その手綱を幸綱に渡す。

 疾風号は、幸綱を見て気に入ったようで、鼻づらを幸綱の顔に押し付けた。

「おお……くすぐったいぞ、疾風号」

「はは……幸綱どの、どうか疾風号を河越に連れて行って下され……乗馬にして下され」

「は?」

 利胤は頭を下げていた。

「この疾風号は、仔馬の頃から、私が育てた……いつか共に、戦場を駆けるために。だが、その夢はかないそうにない……」

「…………」

「私はいい、やまいだから仕方ないことだ。だが、疾風号はちがう。ちがうのだ……頼む、きっといい働きをする。どうか疾風号を……」

「頭をお上げくだされ」

 言うや否や、幸綱は疾風号に、ひらりとまたがる。

「利胤どの……いや、千葉介どの。拙者で良ければ、この疾風号……河越へお連れし申す」

「……おお」

 利胤はまぶしそうに、馬上微笑む幸綱を見た。

 そしてその背景に、ちょうど北斗七星がまたたくのを見た。


「妙見さまの、お導きだ……」

 妙見。

 あるいは妙見菩薩。

 北斗七星を神格化した菩薩である。

 そして千葉一族の守り神とされ、代々、元服は妙見宮(現在の千葉神社)でおこなうこととされていた。

 思わず利胤は手を合わせた。


「妙見さま……どうか……どうか、北条に、幸綱どのに勝利を……」


 ……空に、北斗七星が、利胤の願いを聞き届けたかのように、輝いていた。






千葉の北斗 了

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