34 風よ、魔となりて
一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れにまさる。
ナポレオン・ボナパルト
……一番最初に気づいたのは、誰だったか。
河越城から響く、北条綱成による笛の音が終わり、誰もが寝静まった頃。
深い深い、夜の中。
河越城外、東明寺。
それらの影は、ひそやかに、忍びやかに。
誰もが気づかないうちに。
扇谷上杉の兵たちの首を掻き切った。
「……ぐっ」
「うぐっ」
「いぎっ」
北条の草の者、風魔小太郎の手の者、風魔衆である。
「……お頭、見張りの奴らは始末しました」
「ご苦労……これで、新九郎さまの頼みは果たした。あとは……約定を果たす」
風魔小太郎は、
風魔小太郎――先代・風魔小太郎と、北条家の祖・伊勢宗瑞との約定により、先陣を切るためである。
風よ、魔となりて
風魔衆は、元は『風の者』と呼ばれ、天才・太田道灌の配下で、忍びとして彼を支えてきた。
元々は、関東管領・上杉家の分裂と争乱の中で犠牲となった人々の遺族であり、その恨みや憎しみを晴らせと、道灌が集め、組織し、一流の忍びの群れとして鍛え上げた。
ところが、その道灌が、主君である扇谷上杉定正に暗殺されてしまう。表向きの理由としては、道灌に下剋上の動きありとして、定正は、家中の剛の者・曽我兵庫に命じ、上意討ちとした。そして裏にはまた、別の理由があったが、それを知る『風の者』たちも始末される運びとなった。
『風の者』たちは、ある者は
その男が現れた。
男は扇谷上杉家の兵たちをひとり、またひとりと斬り捨てていき、
『風の者』の頭である、小太郎という男は言った。
「アンタのおかげで助かった――礼を言う。名は?」
「伊勢新九郎」
のちに北条早雲といわれる男である。
伊勢新九郎は言った。お前たちは誰か、と。
「『風の者』――だった者だ」
「ほう」
伊勢新九郎は小太郎の話をひととおり聞くと、そういえば忍びとは、聖徳太子の
「笑いごとではない。アンタは恩人だが……」
「お前たち、私に仕えろ」
「は?」
「私は実はな、上杉を倒すことになっている者だ。だからお前たちのような忍びがいると、都合がいい」
「いや、だが」
「そうだ、『風の者』という名をやめて、上杉を倒す風に、魔になれ。風よ、魔となりて……そう、風魔と名乗れ」
……そして、『風の者』は追っ手と相打ちによる全滅を装った。
こうして、伊勢新九郎は、小太郎たちに上杉を倒す戦いには、必ず先陣を切らせると約定を交わし、戦国屈指の忍び――風魔を手に入れた。
実に愉快で、かつ恐ろしい男だった――そう、先代の風魔小太郎から、今代の風魔小太郎は聞いたことがある。
「先代……今、あなたの無念、晴らします……お前たち!」
「はっ」
風魔小太郎は頭巾と覆面を取った。猪助ら風魔衆も同様に、取った。
「われら風魔、いや『風の者』たちの恨みを、今こそ晴らせ!」
「応!」
「裏切りの上杉に報いを!」
「道灌さま、今こそ!」
風魔衆の吶喊が、寝入りばなの扇谷上杉家の陣に響いた。
*
「……兵たちが騒がしい。何ごとか」
扇谷上杉
善銀は甲冑を身につけながら、朝定の寝所へやって来た。
「……殿、敵襲にござります。夜襲でござる!」
「何!」
「先手を打たれました。一手、われらより先に、伊勢が」
「おのれぇ……」
「曽我神四郎にはすでに声を掛けました。さ、殿も」
朝定は怒りに打ち震えながらも、鎧兜を用意させ、
「うろたえるな! 槍を持て! わしが防ぐ! その間にお前たちは具足をつけろ!」
曽我神四郎は風魔衆の攻撃に浮足立つ兵たちをどなりつけ、自身は大槍を振るい、うごめく風魔衆たちを退けていた。
「しょせんは忍びぞ! 忍びごときに遅れを取るな!」
「忍びごとき?」
その言葉を聞いた、老いた風魔衆が、食いつかんばかりに神四郎に向かって突撃をする。
「お前たち上杉はいつもそうだ! 忍びとあなどって
「ふん、道灌なんぞ、己の功績を鼻にかけて、主君をあなどるたわけものよ! それが始末されたからと言って、何だというのだ」
「なにを!」
太田道灌を討った曽我兵庫は、曽我神四郎の父であった。
神四郎は槍を振るって、息巻く風魔の忍びを追いつめる。
あともう一刺し、というところで、神四郎の槍を忍者刀で止める者がいた。
「風魔小太郎、見参」
「
そうこうするうちに、風魔衆につづき、北条本隊が東明寺に乱入する。
清水小太郎吉政は、久々の
「……むっ」
神四郎の目にも、北条本隊が見えてくる。
「なんだ、あれは」
清水小太郎をはじめとする北条本隊は、鎧兜をつけていない。そして、体のどこかに白布を巻きつけている。
「そうか、速さと、音を出さないためか。そして白布は、敵味方の区別か」
「油断している場合か?」
風魔小太郎がその隙をとらえて、少し放心した神四郎に手裏剣を投げつける。
「しゃらくさい!」
神四郎は大胆にも槍を放り投げ、刀を抜いて手裏剣を防ぐ。この判断の速さに、さすがの風魔小太郎もたじろぐ。
「死ね!」
その斬撃は、風魔小太郎の背後から伸びてきた刀によって、弾きかえされる。
「……嬉しいねぇ、また会えたぜ」
「貴様は……」
北条綱高。抜け目なく東明寺の境内に侵入し、その嗅覚で神四郎の所在を突き止めたようである。
「風魔小太郎、この場はおれが引き受けた。お前たちは、
「……承知!」
風魔小太郎がするりと神四郎の脇を走り抜ける。
「通すか!」
「そのお前を、おれが通さねえよ」
体をひねって風魔小太郎に斬撃を加えようとした神四郎の手を、綱高の刀が叩いた。急いでの攻撃だったため、刀の
「おのれ……」
「おのれはこっちの台詞だ。曽我神四郎、今こそ、諏訪
綱高は刀を構え直し、激しく突きを入れる。
「生意気な!」
神四郎はその突きをかろうじて
*
「扇谷上杉朝定! 出てきやがれ!」
清水小太郎は
金棒を振るいながら、清水小太郎は背後の白備えたちに大喝する。
「いいか! こたびの
「応!」
いい返事だ、やっぱり白備えはいい。
「帰って来たって感じがするぜ!」
「ぐわっ」
抜け目なく近寄ってきた扇谷上杉の兵を蹴り飛ばし、清水小太郎は、陣の最奥と思われる場所へと進み出す。
進んだ先、薄暗がりの中、ひとりの武将が立っていた。
「扇谷上杉朝定か?」
武将は、のそりと前へ出る。
その動きに、若さは感じられず、むしろ老獪さを感じさせる。
「拙者、
善銀はそう名乗るが否や、手に持つ槍を繰り出す。
油断のならない槍撃であったが、清水小太郎は、金棒でそれを、軽くいなす。
「扇谷上杉朝定は、どこだ?」
「……拙者は名乗ったぞ。お手前も、名乗られい」
「……ふん、知りたくば倒せってわけかい。上等だ、清水小太郎吉政、推して参る!」
槍と金棒が激しく衝突し、火花を散らした。
*
扇谷上杉の陣に異変あり。
この時になると、関東管領・山内上杉の陣営では、さすがにそれを察知し、急ぎ、戦の支度をはじめていた。
山内上杉憲政は甲冑をつけながら、近くに控える家宰・長野
「何もしません」
「何もしません、だと? 友軍が襲われているのだぞ! いくら相手が扇谷上杉でも……」
「だからこそ、でござるが……何か?」
業正は、扇谷上杉との同盟は認めるが、だからといって、身命を賭してまで救おうとは思わなかった。むしろ、北条を消耗させる壁となってくれと思っていた。
「壁、じゃと?」
「左様。壁でござる。そして壁が倒れる頃合いを見て、山内上杉家全軍でたたけば良い……そういうことでござる」
なみいる関東諸侯はどうせ動くまい。寝ていて気づかなかった、とか平気でほざいてくるような連中だ。
業正は最初から関東諸侯をあてにしていなかった。戦いに参加させると、むしろ混乱の
「そうすれば……扇谷上杉家は
……だが、業正の目論見は、すぐに破られることになった。
ぎぎ、という音が、河越城から響く。
それは、河越城の城門の開く音だった。
風よ、魔となりて 了
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