25 曲がり角
死者も我々がまったく忘れてしまうまで、本当に死んだのではない。
ジョージ・エリオット
「……何やら、騒ぎを感じる」
左馬助が襲撃されていたころ、夜の闇の中、風魔小太郎は、武蔵
風魔小太郎は何人かの手下を連れ、玉蔵院から北へと走った。
……何里か走ったあとに、その奇妙な光景が飛び込んできた。
「……妙だぞ。鞍を乗せた馬だけが、あんなところにいるぞ」
草深い田舎道、その曲がり角で、一頭の馬が、寂しげに藪の中をのぞきこんでいた。
風魔小太郎が馬に近づくと、馬はなぜか安心したように彼に顔をこすりつけた。
「なぜ、拙者に……この馬……もしや……」
鞍をよく見ると、見覚えがある。
自分が見覚えのある鞍、自分に近づいてくる馬。
小太郎は、はっとして、馬がのぞいていた藪を見た。
「血……」
草葉に、赤い血がべっとりとついている。
風魔小太郎は慎重に藪の草草をどかし、その中へと踏み入る。
そして見た。
諏訪
曲がり角
「……小太郎……どの……」
「左馬助さま!」
風魔小太郎は一流の忍者である。
だから、早く左馬助に近寄ろうとしたその瞬間も、その耳はしっかりと遠くの音をとらえていた。
多数の軍勢の、馬蹄の響きを。
「お前たち!」
「はっ、お頭!」
「すぐに隠れろ、馬を早く藪の奥へ、
風魔衆は即座に行動を開始した。
馬を連れる者、藪を元通りに戻す者を無言で分担し、軍勢が近づいたころには、曲がり角は何事もなかったように、隠蔽されていた。
軍勢――
「もう少々でござる。この先、玉蔵院という古寺と、その先に
「つきのみや」
朝定は不思議な呪文を唱えるように、つぶやく。
神四郎は、太田犬之助という草の者に命じた、とつづける。
「あの伊勢の鼠賊の使いを始末したあと、調べさせたのでござる」
「そうか」
実はこの話をするのはもう二度目だったが、神四郎は朝定の心中を推し量って、特に指摘はしなかった。
ようやく北条に一矢報いる時が来たと、はやる心を抑えきれないのも、無理はない。
そしてそれは、神四郎もまた同じ思いだったため、彼もまた、馬を馳せ、先を急いだ。
「…………」
扇谷上杉軍を藪の中からじっと見つめていた風魔小太郎は、手下の
猪助は無言でうなずき、道なき道を駆けて行った。
猪助は早駆けの名人である。風魔衆の中で、一番速い。
敵襲を北条新九郎氏康に伝えるため、風魔小太郎は最速の手段を選んだのだ。
「……く……」
風魔小太郎の腕の中、左馬助が
「左馬助さま、いかがなされました?」
「小太郎……どの……早う……新九郎さ…ま…ところ……へ……」
「分かりました。しっかりつかまって……」
「ち……がう……おれは……もう……小太郎、どのが……行って……」
風魔小太郎は天を仰いだ。左馬助に死相を見たからである。
「左馬助さま、新九郎さまへは猪助が行きました。風魔で一番、足が速い、猪助が」
「……よかっ……」
がふ、と左馬助は血を吐く。風魔小太郎は血で装束が汚れるのもかまわず、左馬助を抱きしめた。
「左馬助さま! 何か他に、お伝えすることは! この風魔小太郎、必ずお伝えいたす!」
左馬助は、笑った。
良かった。
最後の最後で、風魔小太郎に会えた。
これは
そして、自身の死と引き換えとなったとはいえ、もうひとつ、僥倖がある。
……諏訪左馬助が最後に思うことは、今の北条家が取るべき道であった。
和睦は成らなかった。
扇谷上杉は夜襲を仕掛けてきた。
この状況、氏康なら、どうするか。
まずそうするだろう。
利のない戦いは、しないお方だ。
そして、遁げたあとは……。
「新九郎、さま……」
「…………」
風魔小太郎は無言で、耳を左馬助の口に近づけ、その最期のか細い声を聴く。
「新九郎、さま……どうか……夢、を……」
「……左馬助さま? 左馬助さま!」
風魔小太郎は
またしても、上杉にやられた。
どうして、やつらはこうも……。
そのとき、
「だからよお、このへんだっての。あの伊勢の鼠賊の使いがぶっ飛んでたのはよお」
「ほんとかあ? ま、そうだったら、首、いただいて行こうぜ。神四郎さまは討たなかったんだろ?」
「おうよ、早く敵陣を調べて殿に……って必死だったからよ、あのじじい」
ぎゃはは、という笑い声が響き、何人かの雑兵が、藪の中へ入って来た。
この雑兵たちは、曽我神四郎の配下ではあるが、いくばくかの銭で雇われた者である。彼らは夜襲に付き合う振りをして、その実、拾い首をして、楽をして恩賞にありつこうという輩だった。
「お」
「何だ? 先客か?」
「どけよお前、その首は、おれらのだぞ?」
「そうだそうだ、おれらの矢でそいつ、ぶっ飛んでったんだからなぁ」
雑兵たちは、血で汚れた格好の風魔小太郎を、自分たちと同じ考えの奴だと思ってしまった。思ってしまったゆえに、自分たちが左馬助を射たという失言をしてしまった。
「……消せ」
「あ?」
「何言ってんだ、こいつ」
「こやつらを一人残らず、消せ」
風魔小太郎が静かに命を下すと、周囲の闇から、風魔衆の草の者たちが、ぬるりと姿を現した。
「お頭の命だ、悪く思うな」
「なっ、なっ」
草の者のひとりが、雑兵のひとりの頭蓋を
「え? なんだ……うっ」
「あ? これ……げえっ」
異常に気づいた他の雑兵たちが、次から次へと倒れていく。
「お頭、終わりました」
「ご苦労」
風魔小太郎は、何も言わなくなった左馬助をそっと横たえる。
「左馬助さま……お許し下さい、われらこれより、
風魔小太郎は手下のひとりに
「征くぞ、お前たち。これより本陣へ戻り、殿を守り参らせる」
「応」
風魔小太郎は、拝借いたすと言って、左馬助の愛馬にひらりとまたがる。
「つづけ!」
……諏訪左馬助。
記録上、河越を包囲する古河公方、関東管領への、北条家の和睦の使者であり、その交渉は不調に終わったとのみ、記されている。
それ以降、左馬助に関する記録は無い。
曲がり角 了
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