11 河東は誰に
御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ
室町時代の俗言
山本勘助と名乗る男が駿河東端、長久保城に現れる、その日の夕刻。
暮れなずむ陽を浴びて、武田の陣に、ようやく
「お屋形様。いつになったら帰るのかと……」
「すまぬ、勘助」
「いや、拙者は良うございますが、今川治部大輔どのがお怒りでした」
「そうか」
武田晴信は、くっくっと愉快そうに笑った。
勘助もやぶさかではなかったが、それでも軍師として、ひとこと言わずにはいられなかった。
「それで……一体、今回の甲斐ご帰還で、何をなされたので?」
「そうよのう……」
晴信は小姓たちに旅装を解かせながら、勘助へ話すことを考える。
「まず、虎胤に暇を出した。しばらく帰ってくるな、と」
「はあ?」
勘助は思わず牢人時代の言い方に戻ってしまった。武田軍随一の宿将である、原美濃守虎胤を追放したと言われては、これはもう冗談ではすまされない。
小姓たちは雰囲気を察して、そそくさと晴信の旅装を持って、退散してしまう。それを確認すると、勘助は笑顔の晴信に向き直った。
「おたわむれを……というか、いい加減にいたしませぬと、拙者とて怒りまするぞ」
「すまぬ、すまぬ」
晴信は勘助の剣幕にかえって笑いを誘われたが、軽く説明はした。
虎胤がかねてより晴信の父・信虎の国外追放に不満を抱いていたため、話し合いの場を持ったこと。
虎胤は、晴信の本心を知り、かつ、信虎追放の陰謀は太原雪斎によると知り、不満を捨てることにしたこと。
そして、虎胤がかつてその父を殺してしまった因縁の相手、北条綱成の籠城する河越へ赴き、しかるのちに、旧主である千葉家へ向かうよう、命じたこと。
「……やり過ぎではありませぬか」
「そうか?」
「いかにお父上のことを理由にしたとして、おそらくもう千葉家に向かっているでしょうから……鬼美濃を北条に利するように動かしているのは明白。これはもう、弁解できませぬな」
「そういえば美濃と予は宗旨がちがう。それも追放の理由に……」
「無理でございます」
「…………」
にべもない勘助の発言に、さすがの晴信も黙り込むしかなかった。
「美濃守さまに、お戻りになられるよう、お伝えなされ。今ならまだ間に合うやもしれません」
「伝えるも何も、今どこにいるか、分からん」
「はあ?」
勘助がずいと晴信に近づく。顔を下から上へ、
「そういうときこそ、拙者が推挙したあの男を使うべきではないですか。信州の、草の者の扱いにも
「おお、そうじゃった」
晴信はわざとらしく、膝を打つ。
「勘助、その真田幸綱な」
「は」
「美濃に同行させた。武蔵野は通れないからの。信濃から
「はあ?」
河東は誰に
……晴信の、今度はきちんとした弁解を聞き、勘助はようやく状況を把握した。把握したが、それは納得とはまた、別であった。
「……お話は分かりました。しかし、まあ……お屋形様らしくもなく、思い切ったことを」
「幸綱のことか? あれはな、ちょうど美濃に会う寸前に、勘助の紹介状を持って、やって来た。で、話が弾んでのう……美濃のことを言うたら、面白い、とか言い出して」
「世辞やおべっかの
「いや、そう思ったからこそ、汝も行ってみるか、と言うた」
「そしたら、行く、と」
「そうじゃ」
勘助はがっくりと
真田幸綱。
所領を失い、山内上杉家ではつまはじきにされ、不遇をかこつ身であった。
それを、勘助が見出して、武田へと導いたが、まさかこれほどまでに冒険好きな男とは思わなかった。
「いや」
晴信は勘助の読みを否定する。
「流浪の身となった、真田の里の者たちへの支援を約束させられたから、まあ、それが狙いだろう」
前払いだな、と晴信は実に楽しそうに言った。
「ほう」
顔を上げた勘助は、得心がいったように膝を打った。
「そうですか」
やはり、自分の目は間違っていなかった。自然と頬が緩む。
勘助は、晴信の視線を感じて、話をつづける。
「得心いきました……が、このままではさすがにまずい。それはお屋形様もお分かりでしょうな」
「まあ、な。早くも山内上杉からの使者が、
「美濃どのが首尾よく脱走した結果ですな。問責の使者でしょう、それは」
「よく分かったな」
「…………」
白々しい晴信の台詞に、白々しい視線でこたえて、勘助は頭を全力で働かす。
原虎胤ほどの武将、真田幸綱ほどの策士、これを千葉、そして北条の味方として動かしている。
この利敵行為を、あの海道一の弓取り、今川義元に知られたら、まずい。
必ずや、何がしかの代償を支払わされる。
「……何ともしようがございませぬな」
勘助は頭を抱えた。晴信がかつて言ったとおり、勘助は戦場でこそ、その才知を発揮する人間である。外交・政略はできないというわけではないが、やはり、戦略戦術の方が得手なのだ。
「ふむ」
晴信は、麾下の軍師が悩んでいるのを見て、助け舟を出すことにした。
「勘助、予の不在の間、北条からは、何ぞ接触は無かったのか?」
「……ございましたとも」
しかも、今川義元のいる最中にやってきて、鉢合わせしそうになるのを、必死に回避したこともある。
「して、誰が来た」
「多目元忠どのでございます」
「重鎮ではないか。たしか黒備えを率いており、御由緒家の家系と聞くが」
「まっこと重鎮であらせられます。冷静沈着で、言葉遣いも丁寧で、賢さが自然と伝わってまいります」
今川義元やその使いの者の相手に頭痛を感じていた勘助にとって、元忠との話し合いは、ある意味癒しだった。
「ああいう、まともな方と話ができるというのが、これほどまでに喜ばしいこととは思いませなんだ」
さもありなん、と晴信はうなずく。
義元も受けこたえはまともであるが、何しろ、ある種の化け物めいた雰囲気を漂わせている。さすがの晴信も、あまり長く話したくはないな、とは感じていた。
「……で、何と言ってきたのか」
失礼、忘れておりました、と勘助は詫びてから、報告した。
甲相同盟がまだ生きていることの確認。
今川に停戦するよう申し出して欲しいこと。
……できれば、撤兵していただきたいこと。
「同盟存続については、これは良かろうと思って、認めました……が、残りについては、残念ながら、お屋形様不在につき、返答いたしかねる、と」
「それで良い」
全て拒否しては、それで交渉が終わってしまう。多少なりとも相手の主張を認めておかないと、つながりが断たれ、今後、逆に物事を頼みたいとき、困るのは自分だ。
「……で、お屋形様、その北条とのつながりが何か?」
「予はな、勘助。北条新九郎氏康の立場に立つとしたら、何ができるか、どうすればこの状況に立ち向かえるか、考えてみた」
仮の話だ、と晴信は断りを入れて、話をつづける。
「……それで、考えてみた結果、河越と河東は放棄せざるを得ないという結論に至った」
「左様ですか」
「うむ。河越はな、逆に両上杉にあげてしまう方が有利なのだ。それで奴らは仲たがいして、瓦解するやもしれんしの」
「そういうものですか」
「左様、だが、そのためには河東は純粋に差し出す必要がある。でないと、今川は止まらん。たとい、武田が動かんとしてもだ」
今川は河東の奪還をかけて、この十年近く策動してきた。その目的を達してやらなければ、今川の手はゆるまない。このままいけば、下手をすると伊豆にまで進出する恐れがある。
「なにゆえ、この……大がかりな手を使って、そこまでして河東を回復しようとなさるのでしょうか?」
勘助の疑問はそこである。見事な大規模二正面作戦で、軍師としては垂涎ものの魅力を感じる。
……だが、そこまでしてやることなのか。
晴信は、これは牢人だった勘助には考えつかないことだろうなと思い、その方向から話をつづける。
「今川の幕府における役職、覚えておるか?」
「駿河守護でしょう……あ」
「そう。それが駿河半国しか持っていない。それが義元公の泣き所だった」
「いや、でも……全国津々浦々、そんな大名は他にも……」
「他と同じでは駄目だ。おそらく、義元どのねらいは……」
晴信は暮れつつあった太陽を見た。
西を。
「ま、まさか……」
「そう、
勘助は言葉を失う。しかし頭は回転をつづける。
天下に号令するならば、まずは名実ともに駿河守護でなければ、示しがつかない。
「御所、つまり足利将軍家が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
歌うように晴信は言う。当時、まことしやかにささやかれていた俗言である。足利家が途絶えたら、分家である吉良家が継ぎ、そしてもし、吉良家が途絶えたら、今川家が継ぐという言い伝えである。
足利家は応仁の乱以来、もはや将軍らしいことを
そうすると、今川の出番、ということになる……。
「継ぐにあたっては、駿河守護を
他人事のように言う晴信だが、彼自身とて、天下取りを視野に入れている。だからこそ、今川義元のねらいが分かったのではあるが。
「だから、河東を今川に渡すよう、北条に働きかけるのですか」
「そうだ。早速、多目元忠どのに
そこまで言ったところで、小姓が入ってきた。
「あの……」
「何だ、今、忙しいのだ」
勘助はけっして冷たい男ではないが、さすがにこれ以上、事態を複雑にしてほしくなかった。
「あの……」
「おい、さっき言ったとおり……」
「いや、かまわん。苦しゅうない」
晴信が小姓の発言をうながす。
「……今川義元さまが、いらっしゃいました」
「はあ?」
*
「義元である」
もう、名しか名乗らない。
それほどまでに今川義元は、武田の陣に何度も来ていた。
「……こちらにてお待ちください」
小姓に導かれ、というか、勝手知ったる感じで義元は来客用の場所へ行く。
「……もう、これで
「何かおっしゃいましたか?」
小姓が思わず問う。問うてから、しまった、という顔をした。身分のちがいを
が、義元は別に気にしなかった。彼は生まれてすぐに寺に入れられていて、身分のちがう者と触れ合う機会が多く、長じても、そういうことを気にしない
「かまわぬ……いや、ちょうどよい、もし晴信どのが戻っていたら、戻っていなくば、勘助どのに伝えよ。今回でもう、
ぶるっ、と小姓は震えた。
彼は、武田信虎の凶暴さを知っていた。
*
北条新九郎氏康は、長久保城の門前に立つ、山本勘助と名乗る男を、城の陰から見つめた。
「……あれは、山本勘助ではない、と」
「……はい」
「ふうむ」
氏康がもう一度、男を眺める。
仏像のような
ただ者ではない。
武田の陣営に、あれほどの迫力の男がいたか。
「…………」
一方の門前に立つ男の方も、城の陰からの視線に気づき、そちらに目を向けた。
「甲相同盟を結んだときに、会っておくべきだったな……こういうときの面とおしに困る」
勘助には悪いことをしたな、とも呟き、男は、ついに出てきた元忠の方へ歩む。
長久保城、城主の間。
北条氏康と「山本勘助」は、二人きりで対面していた。
「……わざわざのお越し、感謝する」
「……いえ、こちらこそ、恐れ入る……いや、恐れ入りまする」
「口づかいはもうそれで良いのではないか」
氏康は上座から下りた。
「立ち居振る舞いで分かった。武田晴信どの、お初にお目にかかる……北条新九郎氏康でござる」
「ご丁寧に……武田太郎晴信でござる……しかし、立ち居振る舞いとな?」
晴信は勘助に借りた
「軍師にしては堂々とし過ぎておる。それに、勘助どのは
「もじゃもじゃ……ぷっ、ははは」
晴信はきちんと整えられた自らの頭髪を撫でる。急いでいたため、そこまでは考えつかなかった。
笑える。
常の自分なら、あり得ぬことだ。
だが……これからのたくらみに心が躍っているのだろう。
「くっくっ……いや、
「いやいや、国主自ら単身、敵陣へ来る度胸、こちらこそ、恐れ入る」
「敵陣? 予は同盟相手に会いに来ただけじゃ」
「ふむ」
氏康は片手であごを持ち、そして片目をつぶって、改めて晴信を見た。
仏像のようなその顔は、余人に内心をうかがわせない。しかし、「同盟相手に会いに来た」の発言に嘘はないようで、端然と微笑している。
「では……その会いに来たねらいは何でござろうか?」
「単刀直入に申し上げる」
晴信は
「氏康どの、河東はあきらめてくれないか」
河東は誰に 了
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