06 鬼美濃






 人は城

 人は石垣

 人は堀

 情けは味方

 あだは敵なり


 武田信玄







 月日はさかのぼる。

 甲斐・古府中に舞い戻った武田晴信は、さっそく信濃にいる原美濃守虎胤を呼び寄せた。

 虎胤は、急な召喚に疑問を感じながらも、彼自身も晴信に対して、信虎追放について苦言を呈したかったので、すぐに古府中・躑躅つつじヶ崎館に訪れた。


 国主の間に通されると、晴信はいきなり言った。

「虎胤よ、今日呼んだのは他でもない……そなた、予が父上から甲斐を奪ったこと、不満があろう」

「…………」

「重ねて言えば、予が父上を追い出した手段も気に食わない、といったところか」


 虎胤が言いたかったことは実にそれである。

 彼は、房総の千葉氏に仕えていたが、小弓公方・足利義明に城を奪われて牢人となり、流浪の生活をしていたところを、晴信の父・信虎に見出されて足軽大将にしてもらった恩がある。

 だからこそ、信虎を、駿河に嫁いだ娘への訪問という機会を捉え、いわばだまし討ちというかたちで国外追放としたことを、憤っていたのだ。


「……そこまでお察しいただいているのなら、もはや是非もござらん。たしかに拙者は、お屋形様がお父上をあのようなかたちで追い出して、武田を無理矢理受け継いだこと、納得いたしかねる」

「たしかにそうだな。予のやり口は卑怯であった」

 晴信は頭を下げた。

「…………」

 虎胤は、今度は驚愕により沈黙した。まさか、晴信が自分の非を認めるとは思わなかったからである。このまま、お互い納得いかなければ、また牢人か、と思っていた。しかし、予想外に晴信が頭を下げてきた。これには、さすがの虎胤も恐縮せざるを得ない。


「……頭をお上げくだされ」

「ふむ」

 晴信はゆっくりと頭を上げた。まるで仏像のように無表情な顔が、虎胤を真正面から見すえる。

「虎胤」

「は」

「言うてはおくが、予は、やり口が卑怯、と認めただけで、父上を追ったことは、後悔していない」

 無表情な顔の目に、炎が宿ったような輝きが感じられる。


「父は横暴であった。戦がなければ、皆がまとまらない、食っていけない……それは認める。認めるが、あまりにも横暴すぎた。戦だけしか考えられなくなっていた。おれは……おれは、それがゆるせなかったのだッ」





 鬼美濃






 時にはおどけることもあるが、常に沈毅である晴信が、ここまで感情をあらわに、怒りを面に出すことはなかった。

 虎胤は、あまりの晴信の迫力に、黙ってうなずくことしかできなかった。


「……すまぬ。言葉が過ぎた。だが、これだけは言っておく。虎胤よ、いや他の者でもいい……おれが父を甲斐から追放した手段が卑劣であること、これは甘んじて受けよう。しかし、あの男から甲斐を奪ったこと……これは誰にも譲れない。あの男は甲斐を駄目にした……戦だけでは駄目なのだ……そしておれを認めず……武田を継がせないようにしようと……」

 晴信の拳が罪のない床をたたく。

「虎胤! あのようにかたちでなくとも、戦をしてでも、おれはあの男を甲斐から、いや、この世から追放するつもりだった! それに不満があるのならば、かまわん! 今すぐ刀を取れ!」

 晴信が中腰になり、ぐっと顔を突き出す。刀に手をかけ、虎胤が抜刀すれば、すかさず自分も抜刀する構えだ。


 虎だ。

 虎がいる。


 鬼美濃とたたえられる虎胤であるが、その虎胤が晴信の気迫に圧迫され……そして、こうべを下げた。

「……この虎胤、家臣の分もわきまえず、己の事情で主君に恨みつらみを抱いたこと……恥じ入りましてございます」

「……ほう」

 晴信の身体から力が抜ける。顔も、いつもの無表情の落ち着いたものに戻った。

 虎胤は今さらながら、冷や汗をかいている自分に気づいた。


「……それで、ご用件はこれでしまいでしょうか?」

「……おお、実はな、用件はこれからじゃ」

 さきほどのが用件ではない。

 虎胤は仰天しながらも、主君の言葉を待った。

「さて、と……さきほどの父上の追放の件じゃが、実はあれを提案してきたのは、今川義元よ」

「なんと」

「ついでにいうと、これまで……予や父上に、いろいろと吹き込んでくれたのは、太原雪斎よ」

「雪斎禅師? 説法に甲斐に来ていたとは聞いておりましたが……」

「予もそう思っておったが、やつの話を聞いていると、どうも……その気にさせられるのよ」

 晴信自身の父に対する憤懣もあったろうが、彼はまだ、若すぎた。そこを雪斎に付け込まれたのだ。

雪斎あれは口舌の徒というやつだな。唐土もろこしにおったら、縦横家として大成したにちがいない」

 晴信はくっくっと笑いをもらす。

 虎が笑うとしたら、こんな感じだろう、と虎胤は感じた。


「……で、だ。今、義元どのと雪斎禅師は、常山の蛇と化して、大がかりな挟み撃ちで北条を痛めつけておる。その証拠に、このふみを見てみよ」

 それは義元が雪斎に宛て、そして晴信に託した書状であった。

「……そのようなもの、見てもかまいませんので?」

「かまわん。どうせ見てもらいたくて、予に託したのだ」

 晴信から書状を受け取り、虎胤はざっと眺めた。


 今川・武田の連合軍で河東を襲撃。

 関東管領の山内上杉と、扇谷上杉による関東諸侯同盟軍八万が河越を包囲。

 ……そして、最後のについて。


「……これは」

 虎胤は、義元と雪斎の謀略の全貌を知り、衝撃を禁じえなかった。

「そう。そのをやられると、北条は詰みだ」

「し、しかし……このようなこと、できるのでしょうか?」

「雪斎禅師なら成せるだろうよ。予と父上という実績がある」

 晴信の自虐が気にならないくらい、虎胤はそのはかりごとに恐れをなした。


「そこで、だ……虎胤」

「は」

「そなたのいた千葉家だが、実はこの関東管領の麾下に加わっていない」

「まことでござるか?」

「旗幟を鮮明にしない、というやつだな。いわゆる中立という立場か」

「中立と言えば聞こえは良いですが……」

 千葉家は、源平・鎌倉の頃は勢威を誇ったが、今は凋落して、中小豪族のなかのひとつ、という立ち位置である。


 そのような立場の家が、関東諸侯が集まる軍勢に馳せ参じていないとは、大丈夫なのか。

 見せしめに討滅されてもやむを得ないというのに。


「実は、当主の千葉昌胤は病にかかり、死の淵にいる。しかも嫡子の千葉利胤は、病弱の身と聞く。そのせいではないか」

 よく分からない。そういう表情の虎胤に、晴信は言葉をつづける。

「当主の死病、嫡子の病身を理由にできる。そのため、北条に味方はしないものの、中立であるとして、どちらが勝っても良いようにしてるのでは」

「それはそのとおりでござるが……それもまた、あまりに無謀な……」

「そう。無謀。そこに付け入る隙がある」

 晴信は自ら虎胤の方に近寄る。声を落とし、余人に聞かれぬようにささやく。

「だからこそ、そなたが千葉家へ赴いて、合力してやれ。そして、北条に味方させるのだ」

「な、なんとおっしゃられます?」

「分からんのか。千葉家を北条に味方させれば、雪斎禅師のは腰砕けとなる。奴に意趣返しをしてやれ、と言うておるのじゃ。父上の追放が気に食わんのだろう? 予も、あの坊主に乗せられたことが、口惜しゅうてならん。しかも今、今川に従わされて、いくさまでしている」


 晴信は座に戻り、威儀を正してから、虎胤に命令した。

「原美濃守虎胤。今川義元公より雪斎禅師への書状を届けることを命ず。なお、河越へ至ったのちは、そなたの所縁ゆかりのある、千葉家へのに努めよ」

「は……ははっ」

「なお、そなたのによっては、父上への忠義を捨てられぬゆえ、暇を出してやったということにする。だが、その場合でも、帰参は拒まぬと言うことを、あらかじめ付しておく。何ならふみを書こうか」

「……いえ、謹んで、主命、お受けいたします」

 虎胤は、深く頭を下げ、拝命した。


 晴信は虎胤に頭を上げるように言った。しかし、それでも上げないので、話題を転じた。

「話は変わるが虎胤」

「なんでしょう?」

「そなた、かつての今川の甲斐侵攻において、福島という名のある武者を討ったと聞くが」

「左様ですが……それが今、何故……」

「その福島のな、息子が北条綱成。河越にて囲まれておる。城将ではないが、あのあたりの北条勢を仕切るのは、綱成であろうよ」

「あの小僧が……北条……綱成……」

 虎胤の驚愕をよそに、晴信は話をつづける。

「知っておるぞ虎胤」

「何をでございましょう」

「そなた、福島を討った時、小姓であった息子の綱成を逃がしたであろう。父上の、一人残らず殺して根切りにせよ、という命に背いて」

「…………」

 鬼美濃、あるいは夜叉美濃と呼ばれ、そして恐れられた虎胤であるが、彼自身は慈悲深い性格をしており、怪我をした敵将をおぶって、敵陣まで送り届けたこともある。


 ……父を殺され、震える手で刀を握った少年。

 仇と言われ、斬りつけられた。

 避けなかった。

 頬に傷を負った。

 すまない、と云った。

 少年は泣いた。

 虎胤も泣いた。

 このような未来ある子を殺して何となる、と。

 虎胤は生まれて初めて、主君・武田信虎の命に背いた。

 少年に逃げるように云い、その場を去った。


「断っておくが、予は虎胤の行いを責めるつもりはない。むしろ、それでよいと思う」

 回想の中、今の主君・武田晴信の声が聞こえた。

 自分は今、ようやく仕えるべき主君を得たのだ、と感じた。

「……痛み入ります」

 虎胤のわだかまりが解けたのを見て取った晴信は、ひとつうなずいた。

「ふむ……では、行ってもらおうか」

「分かり申した。しかし、武蔵野を通っていくことはできぬでしょうな。北条としても、警戒しているでしょう。おいそれと……現状、敵である武田の者を通すとは……」

 晴信は目を見開く。手をたたいて、人を呼んだ。

「……おお、忘れておった。誰かある、幸綱を呼んできてくれ」

「幸綱? 誰でござるか?」

「予も武蔵野ではなく、信濃しなの上野こうずけから行くしかないと思うておったところ、ちょうど、その地理に詳しい者が、武田に帰参したいと来ておっての……頭も回るようだし、案内あないと、そなたの知恵袋になるように頼んだ。帰参と引き換えにな」

 知略はあの禅師に匹敵するやもしれんぞ、と晴信は楽しそうに笑った。

 不得要領な虎胤がふと、振り返ると、いつの間にか男が座していた。

「原美濃守さま。お初にお目にかかります。真田幸綱と申します。以後お見知りおきを」


 ――真田幸綱。のちに、真田幸隆として知られる男である。






鬼美濃 了

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