(8)
突然の恋人との別れ。家のための結婚。奇妙な夫に、スクールでの変な噂に、嘲笑する同級生。それから、どうもわたしを敵視しているらしいタビサ・ロートン……。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? つい数週間前まで、わたしの人生は最高というわけではないけれど、ごく平穏であったはずなのに……。そう思うと、重いため息が止まらない。
今、こうしてジョーンズ邸に与えられた私室で荷ほどきをしているあいだも、もう何度も「ハア……」とため息をついてしまっている。
元気がない自覚はあった。屋敷に帰れば、出迎えてくれたメアリーもそれに気づいてしきりに心配された。けれどもわたしはなんでも打ち明けられるメアリーにすら、泣きつく気力が出せず、「なんでもない」と誤魔化すに留める。
未だにメアリーは初夜にあった出来事を知らない。ザカライアさんはもちろんそんなことを吹聴しないだろうし、残されたわたしも閨での出来事だから、なんだか打ち明けにくい思いをしている。一番の友達であるエリーにだって、言えなかったことなのだ。メアリーに言えば、当然のように心配されるから、なおさら言えない。
なぜなら、今さらこの結婚をなかったことになんてできやしないのだ。この結婚はお父様たちを助けるため。お父様の商会を守るための結婚なのだ。それをわたしから引っくり返すことなんて、現実的にも無理な話だった。
スクールでのことは、まだいい。卒業まで大体あと二年くらいかかるわけだけれども、永遠に通う場所というわけではない。
けれども、家庭は違う。スクールに通っているあいだも、卒業したあとも、それからわたしが死ぬまで、この家庭生活というものは続くのだ。……なにを考えているのかよくわからない、ザカライアさんと。――そこまで考えてゾッとしてしまった。
あの初夜の出来事を、子供が生まれるまで繰り返すのだろうか? もちろん、子供はひとりだけ……なんて話にはならなければ、生まれたあとも……。あの、ロマンチックとはほど遠い夫婦の営みを?
わたしは、なんだか今すぐ叫び出したいような気持ちになった。結婚の儀式をしたとき以来の、迷子になった幼子のような心細い気持ちだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? わたしは、みんなに祝福されながら愛する人と結婚して、可愛い赤ちゃんを生んで、幸せな家庭を築いて、家族で仲良く暮らして行く……そう信じて疑っていなかったのに。
なにが悪かったのか、わからなかった。たしかに海辺での結婚式は、ちょっと考えなしであったかなと今振り返って思う。でも、それって突然捨てられるほど悪い発想だったのだろうか? ……いや、どちらにせよ、ライナスとは別れる道しかなかった。お父様たちを助けるためには、そうする道しかなかった。
なにが悪いのか、わからなかった。ザカライアさんの言動はよくわからないから、今は置いておくとしても、わたしの結婚は他人の嘲笑を呼ぶようなものなのだろうか? わたしは家のために変な男に嫁がされた女……なのだろうか? ザカライアさんとは初夜の前に会話を交わしたきりで、それ以上のことはなにもわからない。
ザカライアさんは変人なのか? そんな人と、これから死ぬまで一緒に暮らして、子供を作るのか?
これは――不幸な結婚なのか?
先ほどからずっと、ぐるぐると同じことばかり考えている。
しかしそのあいだも腕だけは無心のままに動かしていて、新しい部屋に備えつけられていた本棚へ、実家から持ち込んだ小説を並べて行く。そうして悩んでいるのとは別の部分で、「これは子供の頃に読んだ冒険小説」「これは初めて買ってもらった児童書」なんてことを考えていた。
そして――。
「あ……」
わたしは小さく声を漏らした。手にしているのはメアリーに頼んでこっそり買ってきてもらった、流行りのロマンス小説。こんなものが見つかればお父様には「はしたない」と怒られてしまうので、メアリーに秘密で買ってきてもらったものだ。
ロマンチックで耽美な美文で綴られた、とある若き夫人を主人公に据えたロマンス小説。ちょっとだけ控え目な濡れ場もあって、処女だったわたしはドキドキしながら読んだ思い出がぶわっと湧き上がる。
同時に、その内容も。
「これだわ……」
天啓だった。
これだ、と思った。
このロマンス小説の内容は、この手の小説をこっそりとよく読んでいたわたしからすると、おどろくほどオリジナリティのある話ではなかった。
舞台は現代よりも遡った中世っぽい世界。今よりもっと女性が不自由だった時代。そんな時代に生まれた美しき
望まぬ結婚を強いられて、実家でも嫁ぎ先でも周囲にも虐げられ、夫には顧みられることがない、若くて美しい主人公は、やがてひとりの美しい男性に見初められる。愛し合うけれども、決して触れ合うことができないふたり。その後、戦争やら政争やらがあって、主人公は寡婦となって、実は王子様だった男性と晴れてゴールイン。……説明すると、そういう感じのロマンス小説だ。
けれどもわたしはこの小説を改めて手にして、おどろくべき事実に気づいたのだ。
――今のわたし、小説のヒロインみたいじゃない……?
思わず目を見開いて、じっと手元のロマンス小説の表紙へ視線を落としたまま、わたしは固まった。それは、素晴らしい「気づき」だと感じた。
途端に目の前がパーッと明るく開けて行くような気分に陥る。
――これよ、これだわ!
突如として今まで読んできたロマンス小説の内容が、頭の中を駆け巡る。思い出せば思い出すほど、今のわたしはロマンス小説の女主人公そのものに思えてきて――。
わたしは気がつけば、さきほどまでの重い気分はどこへやら、「物語の主人公みたい」という事実を前に、ニヤニヤと笑っていたのだった。
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