Episode030 叡智の結晶
…――ウィィン。かりかり。かり。ぷっしゅぅ。
書店の自動ドアが開いたのを確認した後、ゆっくりと、その城壁内へと侵入する。
勿論、男と女のアッハン物語、ペチョグチョ編、という叡智の書を手に入れる為。
うむっ。
城壁内では、悲喜こもごもな人間模様が繰り広げられ、その最高峰ともいるブツを手に入れる為、ここへと訪れた。と、可憐な少女とも見紛う、其れが、目に飛び込んでくる。表題、愛とAI。今、衆目を集める話題沸騰中の作品らしい。
某有名なAIが書いたらしい。面白いのだろう。
いや、僕には無用。
唯々、崇高なる任務を遂行する為だけに此処へと訪れたのだから。
それでも、其れは、艶めかしさすら感じさせるほどの肢体を晒してアピールしてくる。まあ、とはいえ、僕自身、流行廃りなどに興味はない。むしろ、アングラな世界の住人と自負するまでの豪傑だ。ゆえ彼女からの視線など問題としない。
しかし。
一体、なんの気まぐれなんだろうか、僕は財布の中身を確認する。
勿論、自分自身でも分からないほどの小さな好奇心でというべきなのか、或いは、その少女が成長過程で得た不可思議な魅力に微かにも惹き込まれたと言うべきなのか、其れは分からない。が、兎に角、持ち金を改めて心へと刻み直してしまった。
うむっ。
文庫本程度ならば、二冊は買える余裕が在るな。
うふふ。
と、彼女〔愛とAI〕が、すわ、ほくそ笑んだような気さえした。
しかしながら、人類の英知を、神秘に迫る叡智を書き記した学術書を、買いに来た僕の心持ちとしては、目的の書を手に入れたあと、同ジャンルで、他にも気になる書が存在すれば、それを手に入れたいと思っている。だからこそ、件の……、
愛とAIなどという少女とは縁が無かったのだ、と言いくるめ、終わりにしたい。
兎も角、
煩雑なストリートを奥へ奥へと進み、其処は、まるでスラム街とも見紛うような猥雑な一画へと足を踏み入れる。人類史において、この上なく静謐な世界で密やかに行われる儀式を記した書を手に入れる為。神秘さと妖艶さを併せ持つ、其れを、だ。
遂には、
人間のノーブルさ、と、高邁なミステリーを追求し続け、辿り着ける境地に至る。
つまり、
哲学者が、四六時中、悩み、悩み抜き、よくやく出した結論である、どんな真理よりも、或いは、宗教家が、苦しい修行の果て到達するであろう無我の境地で見つける悟りよりも崇高で荘厳な神の戯れとも言える叡智の極。其処に辿り着いたのだ。
叡智の極。英知の極。Hの極へと。
兎も角、
ほんの直ぐ先に目的の書は在る。燦然と輝く、其れは、僕の訪れを静かに待っている。無論、自身は、この書を手に入れる為のリスクも熟知している。過負荷とも言える羞恥を刺激するがゆえの大きなデメリットを覚悟しなくてはならないとだ。
だからこそ、慎重に、落ち着いて、と心を鎮めてからカニ歩きで其れへと近づく。
ピョコ、ピョコ、ピョコと前屈みで決して気配を悟られないよう。
しかし、眼光は鋭く、暗殺者の其れを彷彿とさせる。闇夜に光る猛禽類の其れだ。
誰だ? この僕が世の穢れを知らぬ童貞のようだと嘲笑する者は?
否定はしない。むしろ穢れを知らぬからこそ到達し得る景色も、また在る。魔法使いと呼ばれるまで己を高めたからこそ見られる風景だ。勿論、この城塞の中には僕レベルの人間は数多に存在する。だからこそ誇れるようなものでもないのだが。
いや、だからこそ。ゆえ。うむっ。
誰にも悟られるな。誰にも気づかれるな。其れは、すなわち死だ。
もう少し。あと少し。よし、来た。
うむっ、……神は其処におわした。
ごわす。
いかんいかん、幾らか混乱してしまったようだ。
神の神々しさに充てられ、目が眩むのは当然として、思考までも解けない糸のよう絡んでしまったようだ。いや、むしろ、逆に正気を保つ者は背徳者とさえ言えるのではなかろうか。厳かに目指すべき思想の深淵へと手を伸ばす。神へと近づく。
人が決して踏み込んではいけない領域へと進む。
スッと手を伸ばす。神々しき存在と一体化する。
官能的ながらも全てを拒絶するかのような人の探究心は今の僕を形作る全てだと言ってしまっても過言ではない。その叡智なる神の名は、男と女のアッハン物語、ペチョグチョ編、である。手に取ったあと表紙を下にして微笑む。ようやく、だと。
この手に唯一無二な世界の全てを憂いる紅玉を掴み取ったのだッ!
と唐突。
怒りに駆られる僕。
崇高な学術書を入れ、いや、神を手に入れ、有頂天となった僕の心が、にわかに、ざわめきたつ。ざわざわざわ……、という、あのフレーズが視界の右端から入場してくる。まるで遊楽を共有する〔※ニコニコ動画〕神の戯れ〔※コメント〕のよう。
今日、この瞬間が憎い、と憎悪の念にかられた。
其処には女神。いや、女神と表現してしまってもいいのだろうか。
ともかく、この城壁内〔書店〕に在って異質とも言える、いや、むしろ女神が居る高尚なる一画から考えれば当然とも言えるのか、常連客である美少女が、其処で、柔らかい光を讃えていたのだ。無論、判決を得る為のレジまでの道程にだ。
その様は、まさに地獄の門番である三頭の狂犬ケルベロスのよう。
六つの目は鋭く僕を射抜く。三つの口から牙が見え隠れしている。恐怖を感じる。
今、怒りにのまれた僕には、そう見えてしまう。
女神も。
勇気がしぼんで知恵が枯れ果てる。
叡智も。
自分が意気地なしで愚者だという事を痛感する。
運命という名の歯車で動く懐中時計を睨みつける。針は止まったまま。命運は凍りつく。無論、睨みつけた所で、針が動き出すわけもない。不運が霧散してなくなるわけでもない。ならばハードラックを撥ね退ける為に必要なのは勇気と叡智だ。
女神をも畏れぬ人間の叡智を集結するしかない。
遙か太古の昔より、これらの学術書を求め、さ迷った者だけが最終最後に行き着く場所。偶然にも、その場にも其れは在った。愛とAIという表題の其れ。小悪魔的なる少女の艶めかしい肢体がだ。多分に、それだけ、お奨めのブツなのであろう。
無言で。
唯唯、静かに、ゆっくりと其れを手中に収める。
うむっ。
二冊分、買うだけの財力も在ったがゆえの行動。
実を言えば、其れは、何でも良かった。この少女でなくても良かった。単に、ここを訪れ、まず、最初に目に付いて気になったからこそ、での、この子に過ぎない。だから手に取った。無論、其れはフェイク。少女を盾に神を覆い隠す為のデコイ。
少女の露わもない裸体を、かの神の上に重ねる。
男と女のアッハン物語、ペチョグチョ編の上に。
これで、女神にはバレない。何故ならば、是こそ賢者の策と言えるものだからだ。
人類史が始まり、幾百の同志が生まれ、死んでいった。その累々たる屍の上に形作られた歴史は二段重ねという策を生み出す。星が生まれて死ぬまでに創られた数多の策の中で、これほど実用的なものは今後も一切生まれないだろうと断言できる。
うむっ。大丈夫だ。これで間違いない。大丈夫。安心しろ、僕よ。
そうして、ほくそ笑みながらも判決へと向かう。
無事、レジに辿り着く。この瞬間、人生においての成功者となった。世の全てを手に入れ、自由と博愛さえも、尊き愛さえも手中に収めた気にもなる。美しき可憐な鈴蘭を思わせる可愛い女神に視線を移して親指を立てる。誇らしくも成し遂げたと。
朝、念入りに磨いた歯を星屑のよう煌めかせて。
彼女は何故だか嬉しそうに微笑み返してくれた。
およっ?
まあ、いい。些細な事は、この際、気にするな。
うむっ。
兎に角、
その笑みが、余計に気分を上気させた。僕は全てに勝利した漢なのだと、一人、涙を流す。静かに、さめざめと。そうして天を仰ぎ、我が人生に一片の悔い無しと。レジ係に、少女と重ね隠した神を、ゆっくりと手渡す。にこやかに受け取るレジ係。
終わった。任務は無事に完了した。そう思った。
と唐突。
まただ。
試練は、再び、僕の頭上へと降りてきて嘲笑う。
ぴっッ!
「はい。二冊ですね。愛とAI……」
レジ打ちのモブに過ぎない店員野郎がのたまう。
淡々とした声でだ。
ちょ、ちょ、ちょっと待て、待て。
この馬鹿野郎様。一体、何を言い出し始めるんだ。レジを打ちながら書籍名を読み上げるって嫌がらせか。嫌がらせなのか。いつもならタイトルなんて読み上げないだろうが。やっぱり嫌がらせなのか。ねぇ。ねぇ。東京湾に沈めんぞ、ダボがッ!
「……、男と女のアッハン物語。ペチョグチョ編」
言いやがったよ、こいつ。マジか。
何の臆面もなく恥ずかしすぎる題名を仕事ですとばかりに涼しい顔で読み上げやがった。何を考えているんだ。この瞬間、僕の人生は終わった。ブラックアウト。虚無感と空虚なる理論武装が音を立てて崩れ、溶けて出し、消え去ってしまう。
温かい陽光によって溶けてゆく雪だるまが持つ哀しさと侘しさだけを残して……。
ああ、そうさ。そうだ。その通り。
こうなったら開き直ってやる。学術書とは男女が夜に行う愛の営みを解き明かす為の問題集さ。一人、悲しく右手のお供になるそれさ。まあ、端的に言ってしまえば単なるエロ本だよ。エロ本。もういいだろうが。勘弁してくれ。それくらいで。
僕は膝から崩れ落ちた。また泣いた。もはや真っ白な灰になっちまったよと……。
刹那ッ!
少し離れた場所にいた、可憐なる鈴蘭の香りを放つ、あの美少女が近づいてくる。
まるで空を舞う天使を想起させるアルカイックスマイルを浮かべ。
「奇遇ですね。私も読みたいと思っていたんです」
ほへっ?
男と女のアッハン物語。ペチョグチョ編をですか? マジですか?
あり得ない展開。すわ急転直下ッ!
「愛とAI、興味深いですよね。貴方も、それを買うなんて、なんだか嬉しいです」
ああ、そっちね。まあ、当然か。そりゃそうだ。
てか、どちらにしろ、いきなりの素晴らしき哉、嗚呼、我が人生だ、この野郎ッ!
「あっ、ごめんなさい。突然、話しかけてしまって。嬉しくて。迷惑でしたよね?」
僕は、この瞬間、この世の誰より幸せになった。
カラコロン、カラコロンと天使たちが舞い踊る。
「いえいえ、迷惑じゃないです。むしろ嬉しいです。というか、僕も気になってたんですよね。この愛とAI。AIが書いたんですよね。どんな感じなんだろう」
てか、この本より君の方が気になるんですけど。
アハハ。
なんて言えるか、ボケ。不審者だぞ、それこそ。
「そうみたいですね。今、話題のAIが書いたんですよね。というか、ようやく話しかけられた。良かった。なんだか安心しました。予想どおり優しい方で。嬉しい」
「う、嬉しい。マジですか。僕もですよ。アハハ」
どうやら僕が良いと思っていた彼女も、また実は僕の事が気になっていたようだ。
そして、あのモブ野郎が気を利かせてくれ……。
天使が吹くラッパの音が耳に届き、笑点でネタにされる僕が昇天する。昇華するほどに燃え上がった心の炎は、もう消火できそうもない。小憎らしく感じたレジ打ちのモブ野郎が頼もしく見える。彼こそが愛のキューピッドなのだから。
レジ打ちのモブが爽やかに笑んだ。
「末永く、お幸せに」
と……。
こうして僕らの横道〔おうどう〕なる愛の物語が始まったわけだ。そうして……。
*****
…――ウィィン。かりかり。かり。ぷっしゅぅ。
うむっ。
恋愛小説の新ジャンルを打ち立てるべく人工知能を組み上げて恋愛小説を書かせてみたのだが、どうにも失敗のようだ。リアリティの欠片もない横道な恋愛小説が出来上がってしまった。もはや唸るしかないな。やはり人工知能か。心がない。
心の機微を丁寧に織り込む恋愛小説はAIにはハードルが高いのかもしれないな。
試しにと、今、書かせて出てきた物は、むしろギャグ作品としか言えないからな。
再考の余地ありと。
机上に置いて在るメモに残念な結果になったと書き込む。やはり、AIが書く恋愛小説が面白いものになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。しかしながら必ずや成功させて魅せる。それこそが、愛とAI、を手に入れた僕の使命なのだから。
そう覚悟を決め、腹を決め、目立つよう棚に飾った本を見つめる。
愛とAI、と表題が書かれた其れ。
僕が、若かりし頃、恋愛の行き着く先を探求した書を求めた時に、偶然、手に入れた其れ。しかし、この本は、僕らにとって大事なもの。これがあったからこそ愛をAIに表現させる道へと踏み出す事ができたのだから。恩人とも言える書だ。
そして、
愛とAIを手に入れて覚悟と共に愛を手に入れたエンジニアになった僕が微笑む。
うむっ。
この本が偶然にも、あそこにあったから僕らは。
振り返る。微笑む彼女の視線を感じて……。僕の背後には可憐な鈴蘭の香りを放つ初老になった女性が居た。あの女神がだ。そして、僕と、その女神との愛の結晶とも言える、僕の跡継ぎも、女神の肩に手を置き、微笑ましそうに笑んでいた。
「ふふふ」
「うむっ」
…――ウィィン。かりかり。かり。ぷっしゅぅ。
お終い。
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