Episode029 いくつになっても

 …――うむっ。若駒よ。そうじゃな。お主は子供の頃、何と言っておったんじゃ?


 ああ、はやく小説家になりたいなぁ。


 子供の頃から妄想。


 その妄想を形にすると頑張ってきた。


 今まで。


 彼は、小説家のタマゴ。ただし、もう五十歳になる。そろそろ歳的に限界が近い。


 名は若駒有泰〔わかく・ありやす〕。


 今回、書きあげた作品の表題は……。


 若くありたいと願うからこその夢幻。


 今、出版社に持ち込みをかけている。いや、持ち込みというよりは事前に原稿を送り、後日、出版社にて打ち合わせといった流れのものだ。無論、一般的に小説は持ち込みが出来ない。漫画とは違い、作品を読むのに時間がかかるからだ。


 それでも彼の持ち込みが許されているのは、まあ、縁故なのだと言っておこうか。


 加えて、


 打ち合わせとは言ったが、別に出版予定があるわけではない。その上での打ち合わせでもない。飽くまで新作が書き上がったから持って行くというだけのものだ。もちろん、先方としても新人でしかない若駒の作品など微塵も期待していないだろう。


 単に断り辛いからこそ読むというだけの話である。


 十年もの付き合いであるからこそだ。


「若駒さん。読ませてもらいましたよ」


 応接ルームで、編集は、静かに言う。


 ピリピリとした空気感が居心地の悪さを主張する。


「どうでした。今回は、良い感じだと思うんですが」


「そうですね。まず感想の前に一言だけ良いですか」


「はいっ」


 途端、編集は、咳払いをして神妙な面持ちになる。


 敢えて貴方には期待していないという体で接する。


 先に送っておいた原稿が入った封筒を机に置く。パサっという乾いた音が静寂を保っていた応接ルームの空気を変える。机に置いてあったペットボトルのお茶の蓋を開ける編集。覚悟を決めるように、こくっと喉を鳴らして一口のお茶を流し込む。


「正直、迷惑なんですよ。持ち込みという形がです。今までは馴れ合いの延長線上で読んできましたが、若駒さんは有名著者ではないのですよ。分かってます?」


 ぐうの音もでない。


 むしろ、今まで持ち込みを許してくれていた事自体、編集の好意からなのだから。


「だから、これで最後にしてもらってもいいですか」


 一旦、間をとる。彼も覚悟を決める。


「……分かりました」


 項垂れてから肩を落として落ち込む。


「じゃ、読ませてもらった感想を述べましょうか。そうですね。まず言いたいのはキャラが弱いという事でしょうか。あと伏線と伏線回収が、わざとらし過ぎます」


 若駒は思う。違うんだ。そうじゃないんだよ、と。


 キャラが弱い。いやいや、今回の作品はキャラというよりは……、いや、よそう。


 そうなのだ。伏線と伏線回収が、わざとらし過ぎると先に言われてしまっているのだ。つまり、今回、彼が読んでもらった作品はキャラを前面に押し出すような作品ではなくストーリー展開とオチの驚きで読ませる作品を書いたつもりでいたのだ。


 だから、


 今、キャラではないと言っても伏線云々と言われてしまっているから焼け石に水。


 タンタンと軽い音を立ててガラステーブルを右人差し指で叩きニの句を繋ぐ編集。


「うん。そうですね。若駒さんは今年で五十になるんですよね」


 そうだ。


 だから?


「四十の頃から若駒さんを見てきましたが、五十ですよ、そろそろ限界ですよ。さすがに、もう諦めたらどうです。小説家を。編集の私も、もう若くないですしね」


 若駒は一番言われくない事を言われてしまってカチンときた。


 いや、逆に編集も、そこまで腹に据えかねているという事か。


 しかし、止まらないものは止まらない。


「五十歳だから何なんですか。小説を書くのに年齢制限なんてあるんですか。いや、むしろ二十代が書いた作品が無条件で紙面に載ると、そう言いたいんですか?」


「そうは言っていません。ただ、若駒さんは、もう五十だ。その現実を直視して欲しいと言っているんです。結婚だってなさっているんでしょ。だったら……」


 編集は、まだ何か言いたいようだったが、敢えて、区切った。


 無論、彼も、これ以上は不味いと固く口をつむぐ。


 うつむき、顔を真っ赤にして、右拳を握り、微かに震えさす。


 無論、若駒とて五十という年齢で小説家のタマゴ、つまり、志望者という状況に危うさを感じている。むしろ、もうダメかもしれないとさえ考えている。だからこそ自分を奮い立たせる為に歳は忘れようとしていたのだ。それを、ど直球で……。


 しかし。


 いくら彼が頭にこようが相手は編集者。対して若駒は小説家のタマゴでしかない。


 これ以上、キレるわけにはいかない。黙る。黙する。ひたすら、ざわつく心を落ち着かせて我慢に忍耐を加える。レッドゾーンで悲鳴を上げるエンジンを止めようとブレーキを強く踏む。熱くなった頭をクールダウンさせる。目を瞑る。静かに。


 そうか。


 十年か。四十歳の時か。この編集と出会ったのは。


 敢えて別の事を考えて気持ちを抑える。功を奏する。十年という年月を自分という新人に費やしてくれた編集と考えてしまい大きなため息を吐く。持ち込みなど許してくれない小説の世界で十年も持ち込みを許してくれたのだ、この編集さんは……。


 それだけの好意を受け取っていたと思いを改める。


 ハァァ。


 もう一度、大きな息を吐き、静かに息を吸い込む。


「そうですね。口が過ぎました。それから本当にありがとうございました。ただ、もう一度だけチャンスをくれませんか。これで最後でいいですから。お願いします」


「チャンスですか?」


「はい。厚かましいのは重々承知の上です。でも、この作品を殺したくないんです。これを書き直して、それを、どうしても読んで頂きたいんです。お願いします」


 編集は胸ポケットに入っていた赤いタバコの箱を取り出してタバコに火をつける。


 紫煙は巡って、この場を収めようとするかのよう。


 そののち目を閉じて何かを考えてから応える編集。


「分かりました。じゃ、それで最後にしましょうか。うん。私は編集者ですから、こう言っておきます。若駒さん。良い作品を期待していますよ。では……」


 とだけ言い残して少しだけ吸ったタバコを灰皿で揉み消す。ここを退出してゆく。


 最後に残った紫煙は若駒を心配するかのよう漂う。


 そして、


 残された彼は、また目を閉じる。今度は大きく息を吐き、そののち、ゆっくりと息を吸い込む。唇を強く噛む。両手を合わせて組み、また息を吐く。間を置く。それから無言で原稿が入った封筒を回収して応接ルームから出る。出版社をあとにする。


 外に出ると快晴で雲一つない。太陽が、まぶしい。


 ……五十ですよ、そろそろ限界ですよ。さすがに、もう諦めたらどうです。小説家を。という編集の痛烈な言葉が頭の中でリフレインしている。年齢か。全ては年齢が問題なんだ。もし、俺が、もっと若ければ編集の言葉も違ったはず。


 そうだな。もう五十歳なんだな。もはや全てが遅いのか。そう思えて仕方がない。


 若駒は、スーツの胸ポケから赤いタバコの箱を取り出す。編集のそれと同じ銘柄。


 同時に。


 若駒の周りにはタバコの煙とは、また違う、もやのようなものが取り巻いてくる。


 いや、まだタバコに火はつけていないのだ。だからこそ、そのもやのようなものは何とも言えない不可思議なものとしか言えない。もちろん、そんなに濃いものではない。薄い霞とも言えるもの。年齢に気をとられていた若駒は気づけない。


 そして、


 出版社の玄関前に設置された喫煙スペースでタバコに火をつける。一気に煙を吸い込む。肺一杯。また目を閉じる。煙を愉しみ、心を落ち着ける。五十歳という自分の年齢に不甲斐なさを感じながら。と、若者が二人、辻向こうから歩いてくる。


「なあ、お前、面白い話、聞きたい?」


「いや、いい。お前の面白い話って面白かった試しないから。大体、都市伝説とかそういった類いの話だろ。お前が、そう言い出す時ってさ。まったく興味なし」


 一人は坊主頭の髭面。もう一人は髪を紫色に染めたホスト系。


 最初に面白い話を聞きたいかと問いかけた坊主髭面が応える。


「いやいや、若返りの薬が在るって話なんだけど。お前、この前、もう少しでハタチか、憂鬱だって言ってじゃん。それでも興味ない? 本当に面白い話なんだけど」


「やっぱ都市伝説じゃん。若返りの薬なんかあるわけない。脳みそ入っています?」


「まあ、確かに都市伝説と言われれば、それまでの話なんだけど。でもA市にある薬局に売ってるんだよ。もちろん実物も持ってるぜ。俺もハタチを脱出したいから」


 アハハ。


「脱出するようなもんじゃないだろ。ハタチは。てか、実物、持ってるの。どれよ」


「これっ」


 と坊主髭面はジーパンのポケットから赤い薬が入った小瓶を取り出す。


 如何にも怪しさ満点な雰囲気のそれ。


 タバコを吸いつつ、ここまで、やり取りを聞いていた若駒は、若返りの薬、そんなものが在るはずがないと半信半疑ながらもバレないよう視線と耳を傾けている。坊主髭面は小瓶の口を右人差し指と親指でつまんで、ゆらゆらと左右へと揺らす。


 周りを漂う紫煙が、幾らか濃くなる。


「なんか胡散臭い。怪しさMAXだべ」


 とホスト系が訝しむ。眉根を寄せて。


「怪しくない。じゃ、実験してやる。この場で俺が飲んでやる。それで信じるか?」


「おお、飲め飲め。そしたら信じるよ」


 と、はやし立てたホスト系を尻目に坊主髭面が薬を飲む。ごくりと喉を鳴らして。


 瓶に入っていた薬は、全て無くなる。


 ああ、もったいない、と不覚にも惜しく感じてしまう、若駒。


 すると、


 不思議な事に坊主髭面が、いくらか若返ったようにも見える。無論、そんな非現実的な現象が起こるはずはない。それでも三歳は若返ったとしか思えないように、背が縮み、目元、口元も幼くなる。いや、若者が若返ったように見えただけの話だ。


 そうだ。気のせいの域を出ない話だ。


 と、自分を納得させた若駒だったが、同時に心が急いていた。


 若返れば編集の見る目も変わる。世の中からも見方も変わる。


 たとえ若返りの薬が偽物だったとしても、どんなチャンスも逃したくはない、と。


「だろ。若返っただろ? 本物だべ?」


「いやいや、プラシーボ効果だろ。それ。お前自身が、そんな気になって、そんな気になったから若返ったように見えるだけだろ。それ以上でも以下でもねぇよ。マジ」


「ちょっといいかい。聞きたいんだが」


 急いでタバコを灰皿へと捨てて、坊主髭面へと詰め寄る若駒。


 ふわっと舞った煙が彼の背中を押す。


「その薬、どこで売っているんだ。ちょっと興味があってね。良かったら教えてくれないか。もちろん、お礼はするよ。これで美味しいもので食べてくれないか?」


 と万札を二枚、彼らの前に差し出す。


 もちろん、都市伝説系の話をして、一人、一万円ずつ貰えるならばと坊主髭面はニコニコ顔で薬を買った店の住所を教える。かたやホスト系は喜んで一万円は貰いつつも、ニヒリストなのか、ああ、お金をドブに捨てたね、という表情の苦笑い。


 とにかく、若返りの薬を売っている薬局の所在地は分かった。


 それからの行動は早かった。都内に在る出版社から最速ルートで薬局へと向かう。その道すがら、若返りの薬が本物だとして、果たして、それは、いくらするのか。曲がりなりにも若返りの薬であるから法外な値段ではないのかと不安になった。


 いや、二十一にも満たない若者が買っていたのだ。


 彼らの親か彼ら自身が金持ちでもない限り、そんなに高い値段ではないだろうと落ち着く。無論、彼らと彼らの周りが金持ちだったというオチもあるが、その確率は低いだろうと。そんな事を考えている間に、いつの間にか薬局の前にまで来ていた。


 彩椎〔サイシイ〕薬局。名から怪しい。それこそ妖しいキノコでも売ってそうだ。


「おや?」


 と、怪しさ満点の薬局に二の足を踏み、中に入りあぐねていた若駒に声がかかる。


「お客さんかね。珍しい。いやいや、そういえば。うむ。あの二人に頼んだんじゃったわい。どうも認知症になったのか、物忘れが激しくてのう。ヤバい。ヤバい」


 良く分からないが、一人でしゃべり、一人で納得してしまう変な爺さんが現れた。


 その胸ポケットには赤い箱が見える。


「うむっ。お主は若駒有泰であろう?」


 驚く。戸惑う。それはそうだろう。なんで名前を知っているんだ、と言葉を失う。


「ほほほ。もちろん、どうして、ここを訪ねて来たのかも分かっておるわい。なにせワシが、主を招いたじゃからのう。さっさ、中に入って、お茶でも飲みんさい」


 いやいや、招いたって、爺さんと会ったのは今日が初めてなのに。なんでなんだ?


 爺さんは人の都合など聞く気がないのか答えを聞かず、自分の都合を押しつける。


 笑いながらも淡く芳しい紫煙を纏い。


 なにも応えられず、動く事すら出来なくなった若駒の両腕を老人の力とは思えないような強い力で掴み、ぐいぐいと引っ張る。力に負け、ずるずると足を引きずりながら、彩椎薬局へとインする若駒。薬局の中は意外と普通で拍子抜けしてしまう。


 少しの間があって、爺さんは、奥から温かい、お茶を入れた湯飲みを持ってくる。


 若駒が、無理矢理、座らされた椅子の前にあった木の机にコトリと湯飲みを置く。


 その後、


 爺さんはトントンという軽快な音を立てて赤いタバコの箱からタバコを取り出す。


 ライターを使いタバコに火をつける。


 一気に煙を肺へと吸い込み、返すよう紫煙を口から吐き出す。


「ずばり言おうか。若返りの薬が欲しいんじゃろ?」


「なっ!」


 目の前の爺さんと出会ってから驚きの連続で言葉を失い続けていた若駒だが、ここに訪れた目的すらも言い当てられてしまい、焦って、短い言葉を吐く。無論、事前に目的も分かっていると言われていたし、招いたとも言っていたにも関わらず。


 それだけ、彼にとっては、望んでもないチャンスが訪れたと感じたからだろうか。


「ほほほ」


 若駒は息をのみ、静かに続きを待つ。


「まあ、売ってやらん事もない。じゃが、あの薬は劇薬と言えるもの。メリットも大きいが、デメリットも、また大きい。……それでも欲しいか? 若返りの薬を」


 上から目線のそれが気に入らないが、若返りの薬は欲しい。だから我慢する若駒。


 そして、


「そ、そのデメリットというのは……」


 と、そこまで言って、言いあぐねる。


「なんじゃ。遠慮するな。言ってみろ」


 若駒は、天を仰ぎ、大きく息を吸ってから続ける。


「値段とか。一般人には決して手を出す事が出来ないような価値だとか、そういう感じなんですか。若返りの薬が本物だったら、その可能性は在ると思うんです」


「ほほほ」


 若駒の言葉を受けた爺さんが、聞いているのか聞いていないのか分からない笑み。


 この飄々さは鼻につくが、それでも爺さんの人間性がそうさせるのか、憎めない。


「タダじゃよ。一銭もカネはいらんよ」


「へっ?」


 間の抜けた声というか音というか、そういったものを不覚にも口から漏らす若駒。


 それはそうだろう。若返りの薬なのだ。仮に、それが本物だとして、彼が、それを売る権利を持っていたとするならば、国家予算に匹敵する金額を積まれようとも売らないだろう。むしろカネには変えられない価値があるとさえも考えてしまう。


 しかし、


 ここは薬局で、薬を売っている、と考えると……。


 売る事もあり得る。それでも、それなりの値を張るべき。国家予算とまではいかなくても、等しい価値を付けるべきだろう。少なくとも彼が経営者ならば、そうする。それを、タダでいい、カネはいらん、と言い放った。つまり、信じられないのだ。


 いや、逆に考えればデメリットこそがそうさせているのかもしれない。タダにだ。


 要するに、デメリットが大きすぎて若返っても、と考えれば。


 じゃ、そのデメリットとは何なんだ?


 と、若駒は考える。


「ほほほ。下手の考え休むに似たりじゃよ。いくら考えても分からんわい。主には」


 小馬鹿にされた気にもなった若駒は、キッと、爺さんを睨む。


 睨んではみたものの、何故だか、一気に肩の力が抜けてくる。


 やはり、この爺さん、どうにも胡散臭いのだが、それでも憎めないのは何なんだ?


 そんな若駒の様を見ても飄々としたまま二の句を繋ぐ爺さん。


 兎に角。


「デメリットが問題なんじゃ。特に、お主のように勘違いで暴走するような輩にはな。じゃから、売る前に薬を得る資質が在るかどうか計らせて貰いたい。良いか?」


「資質ですか。それは、どういったものなんです?」


「うむっ。難しいものではないよ。若返ったあと、その人生を謳歌できるか、或いは、若返ったところで、なにも変わらないのか、とソレを知りたいだけの事じゃよ」


 ……敢えて言わなかったのだろうか。


 若返ったところで不幸にしかならない可能性も在る、とでも言いたそうな爺さん。


 その意図を汲み取った若駒は考える。


 自分は、もう若くない。そして若返れば編集の見方も変わる。世間からの見方も変わる。小説家への道も拓ける。無論、より一層の努力をする必要はあるが、今の五十歳という年齢からの負荷はなくなる。だったら、俺の人生、バラ色じゃないか。


 若返れば、それが手に入るのだから。


「資質を計って下さい。きっと適正はありますから。いや、この俺以上に若返りの薬を必要としている人間はいません。むしろ、この俺の為にあるような薬ですから」


 その言葉を黙って聞いた爺さんは眉根を寄せてタバコの白い煙を一気に吸い込む。


 そして、一旦、大きく間をとった後。


 大量の紫煙を口から静かに吐き出す。


 辺りが白く煙り、一瞬だけだが、視界が遮られる。


「うむっ」


 とだけ言ってから静かに目を閉じる。


「よかろう。では、主の資質を計るとしようか。では、あのTVを見よ。あそこに今までの、お主の人生が映し出される。それを見てワシの質問に応えよ。良いな」


 とアナログ放送しか受信できないような骨董品な域のブラウン管テレビを指さす。


 待て。待て。というかだ。じ、人生が映し出されるだって。どうやって、それを?


 いや、もう不可思議には慣れてきた。


 むしろ若返りの薬が実際に在ったという時点で合理的な説明はつかないんだ。だったら毒を食らわば皿までだ。今まで俺が生きてきた人生が、どういった理由で、あそこに映し出されるのかは考えないでおこう。そういうものだと納得しておこう。


 などと考えていると四十代の若駒がTVに映し出された。課長へと昇進直前の彼。


 確かに自分だと今現在、画面外の若駒は驚き戸惑うが画面内の若駒には関係ない。


 ハァァ。


 TVの中で深く大きなため息を吐く。


 深くも。


「ようやく課長か。というか、遅い。遅すぎる。同期は、皆、三十歳前後で課長になってる。四十歳を超えて課長になったのは俺だけだ。せめて、あと十年、早ければ」


 せっかく課長に昇進できたというのに暗い表情で落ち込んでいる若駒。


 そうだ。彼は出世レースからの脱落組。仕事より小説を優先したが為。


 無論、後悔などない。それでも隣の芝生は青いというように、同期が、皆、課長になっていく事を快くは思わなかった。それは人間にとっての当然な嫉妬というか、無いものねだりのようなものであった。そして、口を開く毎に、こう言っていた。


「あと十歳、若ければ。課長になるのが、あと十年、早ければ俺だって」


 ハァァ。


「いや、もういっその事、会社なんかスッパリと辞めて小説一本で生きていこうか」


 目を閉じて顔を上げてから考える画面の中の若駒。


 どうせ、これ以上は、ないんだしな。


「なんてな。嫁と子供をどうするんだっての。少なくとも小説で食えるようになるまでは生きていく為の仕事も必要だ。嗚呼、でも、あと十年早く課長になれてれば」


 と言って、後ろ頭を乱暴にかく若駒。


 三十歳の頃に戻りたいよ。出来るならな。ハァァ。


 そしたら、もう少しだけ仕事を頑張って課長にだけはなっておく。三十代の内に。そうすれば今とは、また違ったものが見える気がする。収入が上がれば小説にだって良い影響があるはず。本当に十歳だけでいいから若返りたい。誰かに頼めるなら。


 ハァァ。


 ここで、一旦、TVの映像が止まる。


「うむっ」


 と爺さんが静かに頷きながらも言う。


「どうやら、お主は三十代に戻りたいようじゃな。相違ないか」


 いや、出来れば、可能な限りでいいから若く、もちろん、子供までではなく若返りたいと考えていた若駒にとって三十代とは限定していない。ゆえに爺さんからの問いかけは寝耳に水的なものであったが為、慌ててしまい、直ぐには応えられない。


 しかし、


 何とか体勢を立て直して矢継ぎ早にも言葉を爺さんに投げる。


「いやいや、別に三十代とかでは考えてないです。むしろ可能ならば可能な限り、若返りたいです。この時は若返りなんてあり得ないって考えていたもので……」


「うむ。そうか。てっきり三十代でいいものだとばかり思ってしまったわ。ハハハ」


 詫びるよう苦笑いしつつ言う爺さん。


 こういう態度が、憎めなさを生むのかもしれないと思う若駒。


 兎に角、


「そうですよ。そうです。単に三十代で課長になっておきたかったと思っただけで。もし出来るならば二十代で課長というもの、また、ありがたいものです。ハハハ」


「よかろう。では続きを見ようかのう」


「はいっ」


 ハァァ。


 TVの中で深く大きなため息を吐く。


 さすがに、二回連続で、ため息から始まるのは若駒自身にも不甲斐なく思え、画面外で彼は苦笑う。その様を見たにも関わらず爺さんの表情は変わらない。むしろ、若駒とは、こういった人間なのだと理解したとでも言いたげな面持ちで見つめる。


 今度は三十代の若駒であり、どうやら今日は結婚式のようだ。


 せっかくの晴れ舞台なのであるが、ため息から始まるとは、どういう了見なのか。


「どうしたの。大きな、ため息なんかついて。あたしとの結婚がそんなに嫌なの?」


 新婦の顔を見ても憂鬱な表情の若駒。


 新婦と同じく爺さんも厳しい表情だ。


 ハァァ。


「なんなのよ。本当に。そんなにも、この結婚が嫌なら、今からでも止めておく?」


 ハァァ。


 そう言われてしまっても止まらない若駒のため息。


 ギリギリという鉄が軋むような音が聞こえてきそうな表情で彼を睨み付ける新婦。


 若駒は、


 ここまできて、ようやく新婦がおかしいと気づく。


 慌てる。


「違うんだ。違うんだよ。君との結婚は目出度いさ。目出度い。むしろ、こんな俺と結婚してくれるなんて、この上なく嬉しい。もちろんね。君と出会えて良かった」


 途端、新婦の表情が和らぐ。良かったと安心して。


 しかし、


 同時に、じゃ、なんで、ため息なんかついていたのかと疑問に思う新婦。そう思うと、いくらか和らいだ心が、また、ざわめき立つ。ただ、これ以上、その事を突っ込んでみても、せっかくの結婚式が台無しにもなりかねないと思い直す。


 ハァァ。


「ただね。俺は二十代の若い頃に出会い、二十代の内に結婚しておきたかったんだよ。それが三十代になってしまったから、それが憂鬱で憂鬱で、たまらないんだ」


 敢えて聞かない選択した新婦の気持ちも考えず、聞かれてもない事を答える若駒。


 ハァァ。


 と、ため息をつきたい気分になるのは、むしろ新婦の方だろうと爺さんは思った。


「だって考えてもみてよ。三十代で結婚したら子供を五十以上まで育てる事になるんだよ。二十代ならば、四十代、少なくとも五十になるまでには育て終えられる」


 はぁ?!


 新婦には若駒の言っている事が絵空事過ぎ意味が分からない。


「あと十年早ければ。あと十歳若ければ良かったのに。ハァァ」


 これでは折角の目出度い結婚式が台無しじゃろう、と爺さんは苦い笑いしている。


 大体、まだ結婚式を終えていないというのに、もうすでに子供を育て終える年齢など考えている時点で若駒の精神が信じられなくなる。しかも、二十代で結婚したかったとさえ言う。ならば三十代で出会った新婦でなくて他の女となのかとも。


「あたしじゃダメだったって事なの?」


「だから君は、なんで、そんなにも短絡的かな。違うよ。誰も、そんな事、言ってないじゃないか。俺は単に二十代で結婚したかったと、そう言ってるんだよ。ハァァ」


「もういい。この結婚は無しにしよ?」


 ここで、画面外の若駒は思いだした。


 自分の結婚式が最悪だった事を。新婦が怒り散らし、それを、なだめる若駒という構図が出来上がったものであったという事を。そして、思う。やっぱり、十年、遅かったんだ。結婚するのが。と。もし、あと十年早ければ、また違ったのだ、と。


 ハァァ。


 ここで、一旦、TVの映像が止まる。


「うむっ」


 映像を見終えた爺さんが、また頷く。


「そうか。二十代になりたいんじゃな。まあ、それくらいが良いかとワシも思うぞ」


 もちろん、五十歳である若駒自身も二十代になれれば、それは、それで御の字だ。


 しかし、


 この時点での爺さんからの言葉を聞く限り、どうやら資質ありと判断されたようにも思える。そう考えると欲が出てくる。だからこそ可能ならば十代から、やり直したいと考えるようになる。思わず、うわずりながらも小さな声で先を促す。早くと。


「先を見ましょうよ。ただ、もう資質ありと。いや、失敬。とにかく先を見て考えましょうよ。出来れば十代がいいかななんて考えていますから。あ、早計ですか」


 アハハ。


 そう。出来れば十代からやり直したいと考えたからこそ、爺さんからの提案を受け入れる事はなかった。もちろん、若返られるとして体だけが若返るのだから一気に十代に若返れば様々な問題を抱えるだろう。ただし、若返りを喜ぶ若駒には……、


 そんな些末な事〔※飽くまで彼にとって〕を考える余裕はなかった。嬉しすぎて。


 と考えていると、二十歳、つまり、ハタチになったばかりの若駒が映し出された。


 TVに。


 ハァァ。


 画面の中で暗い表情の若駒。死にそうな影を背負い、また、深く大きな、ため息。


 三度連続で満塁ホームラン。いや、むしろ既定路線のお約束。


 画面の外で若駒も爺さんも、お互いの顔を見合わして苦笑い。


「もうハタチか。二十で大学一年生ってのもな。二浪もしたのに、結局、第一志望校じゃないし。多分、ろくなところに就職できずに底辺人生まっしぐらだろうな」


 どうやらハタチになってしまった事で落ち込んでいるようだ。


 苦しい浪人生活の末に、せっかく大学に合格して、いや、もう語る事はなかろう。


 ハァァ。


「だったら、いっその事、小説家一本に絞って生きてやろうか」


 ハァァ。


「いやいや、小説家にはなりたいけど、その前に生活基盤をしっかりとして、その上でじゃないと自滅は目に見えてる。霞を食って生きていくなんて阿呆のやる事だ」


 どうにも、ため息が止まらない若駒。


 二浪して、それでも第一志望の大学に入れなかった事で煮え切らない人生を送っているようだ。無論、二浪しようとも考え方一つで楽しいキャンパスライフを送れる。少なくとも自由を謳歌できる。その権利を自ら手放しているように見える。


 ハァァ。


「ああ、ハタチか。十八で大学生になりたかったな。浪人生になんてやりたくなかった。ハタチの大学一年生なんて潰しが利かないから。十八のやつが羨ましい」


 どうやら周りの浪人生活を経験していない同学年が羨ましくて仕方がないらしい。


「というか、ちょっと遊びすぎたな。十代に。浪人しない為には、その頃からの継続的な勉強が必要だった。十代をやり直したい。もう二十で若くもないから……」


 ハァァ。


「あと十歳、若ければ。若いやつが羨ましい過ぎる。死にたい」


 ここで、


 また例によってTVの映像が止まる。


「うむっ」


 と言ったのは爺さん。しかし、爺さんからの言葉を待たずに若駒がしゃべり倒す。


「でしょ。でしょ。十代からなんですよ、俺がやり直したいのは。多分ですが、十代から、やり直せれば俺の人生は無問題なんですよ。問題は十代にあったんです」


「うむっ」


「そうですね。俺に若返りの薬を売る為の資質はありましたか? もし、あったなら、お願いします。十代にして下さい。もし仮に、それが可能であればなのですが」


 それが可能であればなどと言っているが、もはや、出来ると信じて疑わない若駒。


「ほほほ」


 と笑う爺さん。敢えて含みを持たせ。


「無理じゃな。……主には資質がない」


 寂しそうに煙をくゆらせてから言う。


「でしょ。でしょ。でしょ。資質ありですよね。ほら早く、それ早くッ」


 と若駒には爺さんの言葉が届かない。


 爺さんの苦笑いは、もう止まらない。


「ほら早く、それ早くとな。お主、ギャグで言っておるのか。だから言っておろうが、お主には資質がないのだ。若返っても不幸になるだけじゃ。分からんか?」


「ほへ?」


 二回も資質なしと繰り返しても現況が飲み込めない若駒は間の抜けた声を漏らす。もちろん、その様を見た爺さんも苦笑い。そして、改めて、資質なしじゃ、と懇切丁寧に三回目を繰り返す。のち、目を細めてから慰めるよう優しく微笑みかける。


「うむ。その顔は分かっておらんようじゃのう。では続きを見ようか。さすれば分かるであろう。お主には、なぜ、資質がないのか、がだ。よいか。心して見ろよ」


 と言うが早いか、子供の頃の若駒が画面の中に映し出される。


 ハァァ。


 例によって、子供の若駒ですら、ため息でのスタートを切る。


「ああ、はやく小説家になりたいなぁ」


 いや、どうやら今回のため息は、先ほどまでのものとは違う。


 前向きな、それにさえ見える。見間違いでなければの話だが。


「早く大人になって、それで小説家になって、俺は俺の世界を、この世に示すんだ」


 どうやら、ようやく新作を書きあげたという、心地の良い、ため息を吐いている。


「そうだ。あと十年。いや、二十年。分からないけど、それだけ書き続けて、大人になって、小説家として一人前になるんだ。うん。そうだ。早く大人になりたい」


 前向きに、そして、大人になりたいと。一人前になりたいと。


 嗚呼、そうか。そうだった。と若駒。


「早く大人になりたいな。一人前に。俺はそんな事を言っていたのか。子供の頃に」


 途端ッ。


 画面が消える。静かに、とばりが降りるよう歓声も拍手もない舞台の幕が閉じる。


「そうじゃ。主は早く大人になりたいなと言っておったんじゃ」


 子供の頃な。忘れておったじゃろう。


 幕が降りた舞台に主役とナビゲーターが入場してくる。また歓声も拍手もない。それでも観ている観客〔もの〕達はいると深々とお辞儀。そして、ナビゲーターである爺さんが、また目を細めて、ポンと神妙な音を立て軽く肩を叩く。若駒有泰の。


「若くなりたい。若くなりたいとそう思っていましたが大人になりたいだったとは」


 子供頃の自分が言っていた事が……。


 自分が己が、どうも大きな勘違いをしていたのだと、ようやく気づく。気づける。


「うむっ」


 また、それだけ言って爺さんは黙る。


 しかし、


 今の若駒には、それが、ありがたかった。自分の馬鹿さ加減というか、或いは、考えの足りなさが浮き彫りになってしまったからこそ。いや、元々、若さを求めたのは自分が一人前になる為の時間が欲しかったからなのかもしれない。そして……、


 その時間がないと勘違いしてしまったから若くなりたいと固執してしまったのか。


 或いは。


 若くなれば、時間が出来て、その間に一人前になれると勘違いしてしまったのか。


 今となっては分からない。分からないが逆に分かる事もある。


 若駒の十年早ければと言い続けた人生で、その果てが、早く大人になりたいだったのだと。つまり、どの時点に戻ろうとも意味などない。むしろ意味を創るのは少なくとも歳がどうのこうのではないと悟れた。それが理解できただけでも大きな収穫だ。


 と若駒は思い直して静かに微笑んだ。


「うむ。その顔は理解したようじゃな。資質がないという事の意味を。いや、それどころか、主には若返りの薬など必要ないという事が分かったのじゃろう。ほほほ」


「そうですね。いくつになってもです」


 若駒は思いだしていた。生まれて初めて書いた作品の名をだ。


 ……子供の頃、書いた作品の表題を。


「そうじゃ。いくつになっても、なにも変わらんのじゃ。同じ。そして、いつでも、そこがスタートラインなんじゃ。その先は誰にも分からん。だからこそ面白い」


 ふふふ。


「はいっ」


 と言った若駒の顔は、晴れ晴れとして爽快にもみえて、なにかが吹っ切れていた。


 いくつになっても。


 とても良い表題だ。


 そうだ。


 そして、


 あの出版社の応接ルームで再び編集と膝を突き合わせる若駒。


 事前に送ってあった原稿用紙が入った封筒をガラステーブルの上に置く編集。胸ポケットから赤い箱を取り出してタバコに火をつける。紫煙をくゆらせてから、ペットボトルのお茶を一口。ソファーへと体を投げ出してから目を閉じる。ふうぅ。


「確認ですが、これで最後になります」


 意を決したかのよう編集が吐き出す。


「はいっ」


 と若駒。


 遂に判決が下るのだ。若駒の人生に。


「そうですね。感想から入りたいところではあるのですが……」


「はいっ」


「まず聞きたいのは、この短期間で、なにがあったのか、という事です。若駒さん、ようやくですよ。よくやく殻を破りましたね。見事に。長かった。私にとっても」


 十年ですから。貴方との付き合いは。


 貴方の才能を信じて付き合った、この十年は本当に長かった。


 若駒は信じられないという顔になり、どう答えていいのか、全く分からない。いや、ともすれば喜んで良いのかさえも分からない。長い間、ダメ出しをくらい続け、最終的には三行半を突きつけられていた男が、ようやく認められたのだから……。


 ハァァ。


 お決まりのため息を吐くしかできない、いや、そうは言っても、ようやくかとだ。


「一ヶ月前に持ってきた原稿の書き直しが、これなのかと信じられません。むしろ新作を書き下ろしたと言われても信じてしまうほどです。本当に何があったんです?」


 ハハハ。


 と、存外なほどの褒め言葉を聞いて後ろ頭を乱暴にかく若駒。


「ありがとうございます。妖しいキノコを売ってそうな不思議な薬局にいってきただけですよ。ハハハ。そこで赤い箱のタバコと出会って……、なんて冗談ですが」


 アハハ。


「そんな冗談も言えるんですね。十年も付き合ってきましたが新発見ですよ。というか、その妖しいキノコを売ってそうな薬局でキノコの粉を打ってませんよね?」


「ふふふ。打ってないです。打ってないです。若返りの薬も売って貰えませんでしたしね。まあ、そんな感じですよ。なにがあったというわけでもありません」


 アハハと若駒と編集は笑い合った。いつまでも和やかに……。


「そういえば、表題を変えたんですね」


「はい。最後と決めた作品だからこそ、相応しい名前に変えました。どうですか?」


「いいですね。本当にいいです、これ」


 応接ルームに、くゆっていた紫煙は、ゆっくりと周りを巡ったあと、その存在は、もう必要ないとばかりに静かに消えていった。まるで彼らの間に在っては、それこそ、お邪魔だと安心したかのように溶ける。原稿が入った封筒を表を向ける編集。


「若駒さん、私は、ずっと期待していたんですよ。だから十年も付き合ったんです。でも、その期待を裏切られ続けましたから、あんな事を言ってしまって……」


「ああ、だからか。これで最後にしてもらってもいいですかというやつですよね?」


「はいっ」


「そうか。期待してもらっていたんですね。そうか。そうですか。……うん。でも、だったら、その期待に応えられてこなかった俺が悪いんです。気にしないで下さい」


「そう言って頂けると心も軽くなります。ただ、これだけは言っておきますね。期待していたからこそ小説の持ち込みだなんて暴挙を、十年間、許し続けたんですから」


「まあ、確かに、そうですね。ありがとうございます。本当に」


 と、また顔を見合わせて笑い合った。


 そして、


 封筒の表に書かれた、原稿の、若駒が書いた作品の表題が大きく存在を主張する。


 いくつになっても。


 と……。


 お終い。

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