第12話 いつもの日常




 大堀が帰って行ったアパートはなんだか味気なくて静かだった。


 大堀の一件が終わりではない。業務自体は続いているのだから。帰宅してからも、企画書の精査をしていた保住だが、ふと気が付くと、リビングから姿を消していた。


 田口は辺りを見渡しながら、寝室に顔を出す。


「やっぱり」


 保住はベッドの上に丸まって寝息を立てていた。


 ——疲れただろう。きっと。


 今回の一件は、勿論、大堀が大変であったことは言うまでもないが、それは自分自身の乗り越えるべきものだ。致し方ないことだ。だが、それに付き添い、辛抱強く大堀の能力を信じて見守った保住はよほど根気のいる作業だったことだろう。


 田口や安齋は、「なぜここまでして大堀にやらせるのだろうか」とやきもきとしたのだった。今となっては、そう思っていたのが浅はかな気がしてならない。そして、大堀を一番信用していなかったのは、自分たちだったのかも知れないと思ったのだ——。


 保住という男は、人の気持ちがわからないと言うが、そうではない。保住ほど、人の気持ちを察して、そして支えてくれる上司はいない。田口はそう思った。


「本当に、保住さんって……」


 寝息を立てている彼の前髪に触れるが、彼は全く動じることもなく、眠りに就いていた。


 保住が好きだ。恋愛の対象として——ということもあるが、そういう人間性が好きなのだ。


「おれは、保住さんと出会うことが出来て嬉しいんです」


 自分の左手薬指に光る金色のリングがまぶしく感じられた。ここから、久留飛たちがなにか仕掛けてくるのかと思うと、正直不安が募る。しかし、彼と一緒なら。安齋や大堀と一緒なら。きっと自分たちはこの事業を成し遂げることが出来ると思うのだった。田口は保住の横に腰を下ろして、いつまでも彼の寝顔を見つめていた。



***



 翌朝、出勤していくと、観光課長の佐々川が大堀を待っていた。


「大堀ちゃん〜、いいプレゼンだったよ〜。やっぱり観光部に欲しいな。推進室解散になったらこっちにおいでよ」


 大堀は苦笑する。


「そんなこと言って、その頃、課長は異動していないじゃないですか」


「そうなんだけどね〜」


 彼はニコニコとしていた。今回は、佐々川にも助けてもらった。大堀は「佐々川さんは、久留飛さんに組みしないんですか?」と尋ねてみた。こんなことを聞くなんて、失礼な話だとは思ってみても、興味があったのだ。


 久留飛という男は恐ろしい。佐々川クラスになると、誰につくかということは、出世に響く重要な選択だ。佐々川がどう思っているのか、聞いてみたいと思ったのだ。


 本来なら、そんなことを直接言われたら嫌な気持ちになるものだが、佐々川は細い瞳をさらに細めて笑う。


「おれはねえ、澤井さん派だね~」


「副市長、ですか」


「そうだね。吉岡さんにくっつくのもいいけどさ。あの強硬派の澤井さんのやり方が好きなんだよね」


「課長は強硬派には見えませんけどね」


「そう? あの人は強硬派なくせに、妙に人情に絆されるじゃない。人間臭いところが好きかな~」


「しかし、もう再来年にはいなくなりますよ」


「まあねえ」


 澤井派と名乗る人たちは、二年後には、核となる彼が退職をすることについて、差し迫った危機感を抱いていないようだ。大堀にはそれが違和感だった。澤井と吉岡と久留飛。年齢で比べたら、久留飛が一番若い。ということは、先が長いのは彼だ。なのに佐々川は澤井につくというのか。


 ——なにかあるんだろうな……。きっと。おれにはわからないけど。


「そうそう、今日は大堀くんの実家のお弁当頼もうよ。こっちもみんな頼むって言うし」


「ありがとうございます。喜びます」


 大堀はにこっと笑顔を見せた。佐々川がメニュー表を持って嬉しそうに去っていく後ろ姿を見ていると、田口と安齋が顔を出した。


「お、おはよう」


 大堀の挨拶に、田口は「室長はさっそく澤井副市長のところだ」と言った。そして、それからにこっと笑みを見せた。


「お前、いい顔になったぞ」


「そう? 元々いい顔じゃん」


 大堀がいつもの調子でぶりっ子ポーズをとると、安齋の手が伸びてきて首根っこを掴まえた。それから、ぐいっと引き寄せられてから、こめかみをぐりぐりとされた。


「本当、お前はどうにかしてやりたくなる」


「やめろ〜! いじめだ、いじめ!」


 ぎゃあぎゃあと騒いでいる中、保住が顔を出す。


「お、やっているな。仲がいいのはいいことだ」


「室長! これのどこが仲がいいと言えるんですか! 人事に訴えてもいいですか!」


 保住は眠そうな目を擦って、にやにやとする。


「いいぞ。どんどん訴えろ」


「室長にヒアリング入るんですよ?」


 安齋はさすがに口答えのような言葉を述べるが保住は相変わらず笑みを浮かべているばかりだ。


「いいだろう? 正直に話そう。お前たちの仲の良さをな」


「室長! 意地悪しないでくださいよ」


 大堀も抗議の声を上げたが、保住はふと田口を見た。そして、田口もそれに応えるかのように視線を合わせている。なんだかその様子が憎たらしく見えた。


「きー、悔しい! なんでおれが安齋とセットみたいになっているんですか! おれは、おれはみのりちゃんみたいな可愛い子がいい!」


「みのりってなんだ」


「おれの妹だ」


 保住は笑う。


「お前ねえ。あいつは詐欺物件だ。取り扱い注意だぞ」


「詐欺でもなんでもいいです。紹介してくださいよ」


「紹介はしただろう? じゃあなにか。今度デートでもしてみたらどうだ? 話を通しておいてやる」


「いいんですか?」


 保住はにやりと笑った。


「いいもなにも、お前たちしだいだろう? ——さて、今日も張り切って受付をしようじゃないか!」


 窓口のところには、すでにたくさんの市民が待っている状況だ。保住に促されて、大堀はうんと頷く。忙しい推進室の一日が始まったのだ——。

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