第15章 トラウマ

第1話 狼の群れに羊は置いておけない



 二月になった。年越しを経た推進室は、まるで坂道を転がるように業務に追われた。推進室に年末年始はない。


「来週から、のぼりやロゴ仕様の申請説明会が始まります」


「とうとうきたな」


 保住の言葉に、この事業の責任者である大堀は、嬉しさを隠しきれない表情を浮かべていた。彼がずっと力を入れて準備してきた事業だ。


「準備は、ほぼ完了です。説明会は一日で四回やっちゃいます。一回あたり一時間程度。九時、十一時、十三時、十五時になります。それぞれ三十分前からの受付を行います。受付担当は田口。総合司会は安齋。挨拶とコンセプトは室長。細かいところはおれが説明いたします」


 大堀の説明に「なかなかハードじゃないか」と安齋が呟いた。


「でも一日で終わらせる。それが終わると、申請者がここの窓口に押し寄せることになるからね。そっちのほうが大変になるんじゃないかな。——みなんさん、お世話になります」


「大堀。ここまでの準備大変だったな。お疲れ様」


 保住の労いの言葉に、彼は気恥ずかしそうに視線を落とした。田口はそんな様子を微笑ましく思う。「ここまで来たんだ」という思い。実際に、自分たちの祭りを盛り上げるために、ロゴやのぼりが町中に掲げられることを想像すると、感無量である。


 大堀は軽いタイプだが、仕事はきっちりとこなしてくる。たまに飽きるので、中だるみをすることもあるようだが、そこで少し支えてやれば持ちこたえる。現に、こうして自分たちがそう手伝うこともなく、スムーズに説明会開催の手はずも整えているのだ。


 説明会には、商工関係、観光関係、その他、いろいろな業種の人たちが訪れることになる。西口にあるコンベンションセンターのホールを貸し切り、一日がかりでの説明会の開催。一人でこなすにはそれ相応の能力が必要になるはずだった。


 やはり前職で部長である吉岡に可愛がられていただけのことはあるな——と田口は思っていた。


「当日は、この四名では人員が不足します。佐々川課長に打診中ですが、観光振興係からお手伝いを出してくれるようです。明日にはメンバーが上がってきます」


「それは助かるな。後はあれか。あいつ。あれ。あの太った奴——」


 保住はわざと名前を言わない様子で、両手で彼のシルエットを描いた。それはまん丸の風船みたいな姿だ。大堀は「ぷ」と吹き出した。


「政策調整部の高梨さんですよね?」


 市役所内では、一部署だけで回らない施策を運営することが多々ある。そういった場合、間に入って調整を計ってくれる部署がある。それは製作調整部になる。


 高梨という男は、保住の同期であり、この市制100周年記念事業の担当をしているのだ。推進室が事業を運営をしていく上で、高梨は欠かせない人材でもあるのだが——。保住は高梨を気に入っていない。むしろ毛嫌いしていた。


 保住だったら、他部署との調整も一人で難なくこなすのだろう。しかし、そういうシステムになっているのだから仕方がない。無視するわけにもいかないのだ。


「高梨にも声をかけている。ちゃんと仕事できる奴を回すように依頼しておいた」


「わかりました。じゃあ、おれも挨拶にいってきます」


 腰を上げた大堀を見て、安齋が「おれもいく」と続いた。


「え、いいよ」


「お前一人じゃ不安だろう? 室長。おれも行ってきていいですか」


「えー。おれ一人でもいいのに~」


「喧嘩するほど仲がいいというのだ。二人で行ってこい」


「そんな~」 


 文句を言いながらも、安齋は大堀の背中をせっついて廊下に姿を消した。田口はじっと二人を見送ってから保住を見つめた。


「安齋。心配なんでしょうね。大堀が一人でうろつくと、また変な奴に出くわすんじゃないかって」


「だろうな。安齋の奴。ああ見えて、過保護だろう?」


 安齋が大堀を心配しているのは、彼がいじめに遭っていたことと関連するようだ。


「まあ気持ちはわからなくもない。大堀を邪見にしていたメンバーは一人ではなさそうだし。おれも一度お目にかかったが。えっと……なんて言ったかな」


「保住さん。忘れちゃっているじゃないですか」


「すまない。興味がないらしい」


 そういうところがまたいい、と田口は思った。


 大堀は、前職である財務部時代、吉岡部長に気に入られて、個人的な仕事を任されていたいう。側から見れば、「部長のお気に入り」だなんて優秀なのだろと思い込んでいたが、よくよく考えてみれば、この市役所の組織の中でそんなことは稀なのだ。


 そんなレアケースを除外して考えると、大堀の件の答えは一つしかないのだ。


『狼の群れに羊は置いておけない』


 大堀は財務部の集団に馴染めなかったということなのだろう。


 吉岡という男は情に厚く、心優しいと田口は理解している。その吉岡が敢えてめし抱えていたということはそういうこと。大堀はかなり苦労をしてここにいるに違いないのだ。


 ——おれだって。相当やられてきたものだが。

 

 自分と大堀とではタイプが違いすぎる。いじめる側としては、大堀を痛ぶる方が愉快に決まっていた。


 農業振興課時代の自分は、不貞腐ふてくされていた。「嫌なら辞めて、地元雪割町にでも帰ろう」と思っていたくらいだった。

 

 そんな時に教育委員会へと異動になり、保住に出会ったのだが。なんの疑いもなく残業をしていた自分を嗜めた保住。あの時はなにを言われているのかさっぱりわからなかったが、今ならわかる。あの環境が正しいわけではなかったのだ。自分たちは、いつのまにか、市役所の闇に飲み込まれそうになっていたのだ。


 あのまま飲み込まれていたら、もしかしたら、自分のほうが松岡になっていたのかも知れないのだ。


 人は容易に一線を超えるものだ。自分は、進むべき道を誤ってはいけない。それから、この仲間たちもだ。みんなで一緒に歩んでいく。それが一番だと田口は思った。



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