第14話 タイムオーバー



 目の前を歩く澤井の後ろ姿を眺めながら、保住は暗い廊下を歩いた。奥に進むにつれ、騒々しい音が耳に入ってきた。


「これは——?」


「ガキの喧嘩か」


 澤井は呆れたように額に手を当てた。響いてくる音は、人間がもみ合っているようなそんな音だ。


「貴様らはなにをしている! このクソガキ共が!!」


 物音の大きな病室の一つを開き、澤井は一喝した。

 中には、槇と、保住は見たことのない男がもみ合っているままの姿勢で動きを止めた。

 喧嘩状態の男たちに用はない。保住は素早く室内に視線を巡らせる。すると、部屋の隅に座り込んでいた野原を見つけた。


 槇と横沢の件は澤井の領分だ。保住はそっと室内に入り込み、野原の元にしゃがみ込んだ。田口と同じ病衣。少々乱暴に扱われたのか、襟元がはだけ、両手はガムテープで一つに巻かれていた。

 先日、病室で出会った時よりもなによりも白く、生気のない白緑びゃくろく双眸そうぼうすすけて見えた。


「保住……」


「ご無事でなによりです。課長」


 彼は心底安堵したように目を閉じて、保住の肩に額を付けた。抱き留めた彼の肩は、骨ばっていて、なんだか不憫に思えた。


「まったく。この誘拐事件の顛末が、ガキの喧嘩の延長とはな。呆れて物も言えんな」


「喧嘩とはなんだ。おれは真剣に梅沢市の未来を考えてだな——」


 床に座り込んでいる男——横沢は口元に滲んでいる血を親指で拭った。


 ——この男が農協青年部長の横沢か。


 彼は槇よりも随分体格が大きい。屋外での仕事が多いのだろうか。真っ黒に焼けた肌。精悍そうな眼差し。粗雑な振る舞いは野性的な雰囲気をにじませる。ただし、そんな堂々たる風貌は、人を引き付けるということは間違いがないだろう。


 その一方で、槇はひ弱に見えた。この二人が野原を巡って争うなんて、なんだか滑稽な図に見えた。


「貴様が農協青年部長の横沢だな」


 横沢はじっと澤井をにらみつける。澤井に対して、臆することがない態度は、筋金入りで肝が据わっている証拠だと思った。


「お前はいい目をするな。気に入った。どうだ。おれと取引をしろ」


「あんたは」


「副市長の澤井だ」


「あんたが——噂の澤井。親父が、あんたにだけは気を付けろって、よく言っている。へえ。なるほどね。確かに抜け目ない感じだな」


「お前は市長に要望があるのだろう? 安田は農業系に疎く、施策もお粗末だ。そう言いたいのだろう?」


「そうだ。それ以外になにがある」


「おれたちは安田を再選させる。必ずだ。だからお前たちも協力しろ。見返りは期待していい」


「そんなこと——信じられるかよ」


 視線を逸らした横沢に、澤井はしゃがみ込んで顔を近づけた。


「今回の件。明るみに出ればお前は無事では済まない。しかも青年部自体へのバッシングも起こるのだぞ? 人一人誘拐したのだ。人道的な対応とは思えん。この件、チャラにしてやると言っているのだ」



 ——誘拐事件を隠蔽いんぺいする気か?


 保住は眉間にシワを寄せる。


「今回の件がおおやけにならないということは、お前たちにとってはもちろん、おれたちにとっても好ましいのだ。お互い様というやつだ」


「市長選にも悪影響ってわけだな」


「そうだ。今回の市長選はつつがなく終わらせる。マスコミの餌食になるような話題を提供したくないのだ」


 横沢は澤井に問いかける。


「安田を推せばいいのかよ」


「そういうことだ」


 澤井の邪悪な視線にも臆することなく、彼はそこにいる。澤井は彼を気に入ったのだろう。保住は野原を抱えたまま、その様子を見ていた。野原は意識がないのか。眠り込んでいるのか。目を閉じたままじっと動かない。


 保住からしたら、この男たちの取引は、身勝手極まりないと思った。この事件の被害者は彼である。その彼の処遇や、受けた傷を考えずに、なかったことにする、とは……。 


 ——反吐へどが出るな。


 横沢は、しかるべき方法で罰せられるべきである。この事実を隠蔽いんぺいするなど、許されない行為だと思った。


「澤井さん」


 保住は思わず口を挟むが、意外にもそれを止めたのは槇だった。


「横沢。おれも澤井副市長の意見に賛成だ。選挙戦には傷をつけたくない。今回は安田市長の圧勝だ。その代わり約束しよう。安田の次期マニュフェストには第一次産業の分野を重点課題として取り上げる。お前たちの要望通りにな」


「槇さん。頭がいかれているのではないか? あんたの大事な野原課長がこんな目に合わされたんだぞ?」


 保住は不満を述べるが、今度、それを遮ったのは澤井だ。


「保住。お前はまだ青い。そんな小さいことにこだわっていると、大きなものを見逃すのだ。今回の件。野原には悪いことをしたと思っているが、命に別状はないのだ。それよりもなによりも、選挙戦をいかにうまく乗り切るか。それに尽きるのだ」


 ——この男……。


 閉口した保住をたしなめるように睨んだ後、澤井は横沢に言った。


「横沢。いいか。こちらの要件は二つ。一つ目は、農協青年部は今回の市長選の際、全面的に安田市長を支持すること。もう一つは、私設秘書である槇の暴行事件のことについて口外をしないこと。正当防衛とは言え、選挙戦前に安田の私設秘書が民間人と殴り合いの喧嘩をしたなどということが、マスコミにでも洩れたら大変なことになる。この二つを遵守するならば、今回の誘拐事件はなかったことにしよう。悪い話ではあるまい」


 横沢は観念したのだろうか。両手を上げた。


「わかった。あんたのその取引、受けよう」


 ——しかし、時計の針は七時三十秒前。間に合わなかった。タイムリミットだ。


 保住は腕時計に視線を落として落胆した。澤井の努力は無駄。槇が最愛の人を犠牲にしてまで守ろうとした選挙戦に、安田は出馬断念の会見を開く——。

 市長室に集めたあのマスコミを誤魔化す術はないからだ。

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