第4話 野原の失踪
田口はリハビリを終えて、病室に戻った。時計は三時を回る。初日から、かなりハードなリハビリであった。額に浮かぶ冷や汗を拭いながら、ベッドサイドに腰を下ろすと、大きなため息が出た。
「しばらく動いていないと、こうも体力は落るものなのだな」
季節は駆け足で冬になる。夕暮れの様相を呈する空を眺めていると、ふと妙な違和感を覚えて、周囲を見渡した。そして向かいのベッドを見て、首を傾げた。
野原がいないのだ。
空になっているベッド。そして、手の付けられていない昼食が、そのままテーブルに置かれているだけだった。
自分とは違い彼は、リハビリがあるわけでもない。いつもここで横になっているだけだ。いないとしたら、トイレか検査くらいなものだ。しかし、検査は大概、午前中に行われることが多い。夕方にいないとは。
しばし、彼が戻って来るの待ってみるが、彼が姿を現す気配はない。田口は松葉杖を突きなおし、野原のスペースのところに歩み寄ると、半分しまっているカーテンから中を覗き込んだ。
「——これは……」
田口は慌ててナースコールを押した。すると看護師が顔を出す。
「どうしました? 田口さん」
「あ、あの。あの。——野原課長、いや。野原さんがいないんですけど」
「え?」
「だから! 野原課長がいないんだ!」
語気を粗くした田口にせっつかれるように、看護師はカーテンを開く。そこには、野原の姿はないのに、点滴だけが抜かれて放置されている。野原に繋がれているはずの管がくるりと丸められて、点滴台にぶら下がっているのだった。
***
定時前だというのに、携帯が鳴った。しかも相手は田口だった。保住は画面を眺めて首を傾げた。数分起きに何度も着信が入っていたからだ。そのうち、大堀が「室長。田口から外線ですよ」と声がかかった。
「なんだ、あいつは」
安齋は悪態を吐くが、大堀は神妙な顔つきだった。
「なんだか急いでいるようです」
「そうか」
保住は受話器を取り上げて、保留になっている外線ボタンを押した。
「なんだ。仕事中だ」
『そんな場合ではありませんよ!』
いつもは穏やかな彼が慌てたような声を上げるというのは、ただ事ではないと理解した。
『野原課長が、いなくなったんです』
言葉の意味は理解するが、状況がわからない。保住は眉間にシワを寄せた。
「銀太。落ち着け。ちゃんと聞くから、落ち着いて話せ」
田口をなだめるように、声色を落とす。すると彼は、少々落ち着きを取り戻したのか、いつもの調子に戻った。
『すみませんでした。気が動転してしまって』
田口は少々息を整えた後、言葉を続けた。
『リハビリで病室を開けている間に、野原課長が消えてしまったんです。看護師の話ですと、今日は検査の予定も入っていないようです。点滴は引き抜かれていて、病院では脱走したのではないかと心配していますが……。あの弱りようでは、正直、自力で動くのはままならないと思うのです』
「そんなに体調が思わしくないのか」
『昨日あたりは、ふらつきもひどくて、車椅子に乗せられていました』
「まさか、お菓子食べたさに、逃げ出したのではあるまいない」
冗談が冗談にならない男である。保住は真顔で田口に尋ねた。そして田口も、それに真面目に返してきた。
『おれもその可能性を考えました。どうなのでしょうか。槇さんに聞いていただけませんか。病院では、槇さんの連絡先を把握していないようなのです。野原課長のお母さまは、学会で明日まで不在のようなのです。もし脱走しているのであれば、槇さんのところに帰りますよね。ですから——』
「わかった。確認してみよう」
『ありがとうございます』
田口との通話を終えて顔を上げると、大堀と安齋が心配気に保住を見ていた。
「なに事ですか」
「いや……」
保住は言葉を濁した。現状がわからない今、余計なことを言う必要はないと思ったのだ。まずは槇に確認しなくてはならない。自宅には帰っていないと言っていたが、様子を見てもらうことはできるはずだ。
「雪割の実家に連絡を取っているが、なかなか繋がらないらしいのだ。病院からせっつかれていて困っていると泣きついてきた。仕方がない。おれが連絡してくる」
「あいつ、自分の家族への連絡くらい、自分でやれよって感じですね」
「甘えちゃって。室長~って、泣いているんでしょう?」
安齋と大堀の茶化しに、笑うに笑えない。保住は腰を上げ、携帯を手に廊下に出た。
槇は庁内にいるのだろうか?
先日、田口が落ちた階段を駆け上がり、二階の市長室を目指す。騒々しい秘書室の目の前を通り過ぎてから、市長室をノックした。しかし返答はない。施錠もされていた。どうやら外出中のようだ。
保住は槇の携帯番号を把握していない。どうしたものかと思案していると、書類を抱えた天沼と出くわした。
「保住室長? 珍しいですね。市長になにか?」
「天沼」
彼は不思議そうに丸い目を瞬かせた。
「市長は外勤中です。帰庁は七時予定ですが」
緊急事態かも知れない。保住の胸がざわざわとする。それは、まるで悪い虫の知らせのようだった。
「天沼は槇さんの連絡先を知っているか」
「え、ええ。職務上必要ですから」
「すまない。至急連絡を取ってはもらえないだろうか。急いでいるのだ」
保住の気迫に気圧されたのか。天沼は「わ、わかりました」と慌てて副市長室に駆け込んだ。
——これで澤井には筒抜けだな。まあいい。おれ一人では手に負えない案件かも知れない。
ただの脱走ならまだしも。万が一を考えると、きっとこれは
副市長室には入らずに、そこに立ち尽くしていると、澤井が顔を出す。
「入れ。お前がそこに突っ立っていると目立つ」
招き入れられて中に入ると、天沼が受話器を握っていた。澤井はソファに腰を下ろす。
「
「そこに座れ」と視線で指示をされて、保住は澤井の斜め前の椅子に腰を下ろした。
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