第5話 混沌
保住は、澤井の目の前に座り、それから田口からの報告内容を話した。
「銀太から連絡がありました。野原課長が病院から消えたというのです」
「脱走か」
「わかりません。お菓子のない生活は課長にとっては拷問でしょうから。それもあり得ます」
「なんだそれは」
澤井は呆れた顔をした。しかし保住は、至って真面目に続ける。
「副市長はそう思うかも知れませんが、野原課長に取ったら、お菓子があるか、ないかは死活問題なのですよ。人の価値観は他人には推し量れません」
「別に野原を非難しているわけではない。ただ、常識的に考えて、そんな真面目な顔で話をする内容なのかと呆れただけだ」
保住は、はったとした。確かに、野原基準では常識でも、彼の常識は社会のそれとは少しかけ離れていることを忘れていたからだ。しかし、それを踏まえると、常識外れの野原の失踪は、やはり常識外れの理由があるような気がしてならないのだった。
——お菓子欲しさの脱走なら、むしろしっくりくる。今回はそんなレベルの話ではないような気がしてならない。
保住はそう確信し、澤井に現状報告を続けた。
「しかし田口の話ですと、野原課長は自力で抜け出せるような体力がなかったというのです。栄養不足がなかなか改善されずに、トイレに行くのも看護師の手を借りるほど体力が落ちていたようなのです。ですから、もう一つの可能性——」
「あの男は、生真面目。菓子のためだと言っても、ルール違反をするとは思えないな。そうなると——だな」
「ですよね」
保住は頷く。澤井は天沼を見た。
「
「市長たちは、午後は戦没者追悼式を終えた後、夕方には土地改良推進会議があるとのことです。——あ、つながりました」
天沼は槇に事情を話しだした。その声を聞きながら、保住は黙っていた。不安が収まらないのは、虫の知らせだとでもいうのだろうか。
そのうち、彼が受話器を置いた。
「野原課長に連絡を取ってみるとのことです。ただ、脱走するとは考えにくいと、槇さんもおっしゃっています。市長の予定を繰り上げて、早々に帰庁するそうです」
澤井は腕組みをしたまま、「これは
「一体、なんなんですか。これは。銀太の件に始まり。ここのところ、庁内が物騒で仕方がない」
保住は苛立ちを隠せない。澤井はそれぞれの事象が、なんらかの意味があることを知っているようで
「おれに言うなよ。おれが仕出かしたわけではなかろう」
「しかし、あなたなら承知しているのではないですか。ここのところ起きている不穏な出来事の意味を。市長選ですよね? 野原課長が巻き込まれるだなんて。市長への脅迫の材料ではないのでしょうか」
「そう
「しかし!」
「槇と野原の関係性を知っているのは一部の人間だ。
「庁内ではもっぱらの噂ですよ」
「そんなくだらない下世話な噂。信用するバカはそういまい。ともかく! お前と言い争っていても埒が明かない。槇が帰庁したら、野原の所在の心当たりをあたってもらうことにするしかあるまい——」
澤井がそう言い終わらない内に、天沼が悲鳴にも似た声を上げた。いつも冷静な彼にしては珍しいことだった。
「副市長」
「なんだ。そんな素っ頓狂な声を出して」
「で、ですが。——脅迫メールが市長宛てに届きました」
澤井の表情が強張る。澤井に続いて保住も席を立ち、天沼のデスクトップパソコン画面を覗き込んだ。
『親愛なる梅沢市長様。この度、あなたの大事な職員をお預かりいたしました。彼の無事を保障する代わりに、あなたの市長選への立候補を見送っていただきたい。それに加えて、私設秘書である槇さんについても同様の要求をいたします。取り急ぎ、ご連絡まで。 梅沢市革命組より』
メールには画像が添付されていた。両手を縛り上げられて横たわっている男。目隠しで顔をはっきりとは確認できないが、この風体は野原本人に間違いないだろう。
「これは……」
保住の問いに、天沼は声色を低くして答える。
「市長へのメールですね。すみません。こっそり盗み見しました」
天沼は真面目な表情だ。本来ならばルール違反なのであろう。天沼はあくまで副市長付きだからだ。しかし澤井は「でかした」と言ってから、声を大きくした。
「秘書課長を呼べ」
「はい!」
「これは市長への挑戦状だ」
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