第3話 ドックラン
朝の回診から間もなくして、看護師がどやどやと入ってきたかと思うと、短時間で手際よく荷物がまとめられて、ベッドごと個室から押し出された。
田口は自分の何気ない一言が、こんなにも物事を大きく推し進めるとは思ってもみなかったおかげで、キツネにつままれたように唖然とするばかりであった。
我に返った頃には、大部屋の窓際に座らされ、目の前には昼食が並んでいる状況だった。大部屋は四人が定員らしい。廊下側の二つが埋まっており、窓際が開いていたようだ。自分の目の前のベッドは空いている。
ここは混合病棟であると聞いてはいたが、ずっと個室に押し込められていたおかげで病棟の雰囲気がよくわかっていなかったようだ。大部屋に来てみると、それがよくわかる。
カーテンを少し開けて隣のベッドを覗く。そこには鼻から管が出ている高齢の男性が寝かされていた。彼は終始、目を閉じ、微動だにしない。世間一般でよく言われる「寝たきり高齢者」ということか、と田口は納得した。
斜め前の廊下側の男性も高齢だ。彼は鼻から管は入っていないが、牛乳のような色の液体が入った点滴のようなものがぶら下げられている。
——あれが栄養なのだろうか。
病院に縁のない田口にとったら、それぞれが施されているものが何であるのかは、わからない。
寝ているだけだから廊下側なのだろうか。窓際は少しスペースが広く取られていて開放的だ。トイレに行ったり、リハビリをしたりするためにそうなっているのだろうか。先ほど尿カテーテルを抜かれた。
「トイレには自分で行けという意味か」
リハビリ以外で歩くことはない。正直に言うと自信がなかった。部屋の移動とともに、活動範囲がこうも広がるものなのかと困惑していた。昼食を終え、ベッドサイドに腰を下ろしていると、男性看護師がやってきた。
「田口さん、お昼食べた? 大部屋は雰囲気が違うでしょう?」
個室に居た時から、田口の担当らしく、なにかと顔を見せる看護師——小西だった。
「先生から、かなり動かすようにと指示出ていますよ。よかったですね」
「しかし急で、少々困惑しております」
「だと思ったので、顔出してみました」
なんとも気が利く男だと田口は思った。彼は田口と同じくらいの年齢だろうか。無精ひげが目立つ、主治医の竹島女医同様に、身なりに気を遣わないようなタイプだ。
——医療関係者がみな、こうではないのだろうけど。
身なりとは裏腹に、人当たりのいい笑みと、気の利く仕草。やはり医療職であると確信できる。じっと小西を凝視していると、彼は「ああ」と笑みを浮かべた。
「男の看護師珍しいって? 昔は女性の職業だったけどね。今時は男も多いんだよ。まあ、働く場所が限られるけどね」
「限られるんですか」
「だて、まさかお産の現場とかには立ち会えないでしょう? 産婦人科系には絶対回してもらえないしねえ。こういう普通の病棟に置いてもらえるようになったのは、本当、ここ数年の話ですよ」
「確かに。デリケートな問題ですね。じゃあ、それ以前はどういう場所に配属されるんですか」
「リスクが高い精神科とかだったみたいですよ。まあ、おれは看護師歴短いからね。最初からここで働けているんですけど」
年のころからして、看護師歴が短いという言葉が似つかわしくない。田口は目を瞬かせて彼を見た。すると、田口の言いたいことを理解したのだろうか。小西は肩を竦めた。
「ああ、おれ。中途なんですよ。もともとはシステムエンジニアみたいなことしていてね。それが突然、こっちの道に進んでみたくなったって訳。だから、年は食っているけど、これでも新人なんだよねえ」
「そうなんですね」
市役所ばかりにいると、見えないことが多い。こういう業界があるのかと、なんだか新鮮に思えた。小西は、田口の足元に屈みこんでから笑顔を見せた。
「どれ、トイレに行かなければならないでしょう。一緒に練習してみましょうか」
「あ、そうです。お願いします。トイレ、迷っていました」
田口は力強く頷いた。これで歩けるようになったら——。
——保住さんの元に帰れる。仕事にも行かれる。早く頑張らないと。
小西の説明を必死に聴く。一言一句逃さない。早く良くなるために医師にお願いをしたのだ。田口はそう心に決めて、リハビリに取り組むことにした。
***
定時の鐘が鳴る。保住はパソコンの電源を落とした。ここのところ、田口のところに寄るため、残業はしないことにしているのだった。本当なら、まだまだ仕事をしていきたいところだが、心を鬼にして帰宅の準備をするのだ。
「悪いが」
先に帰るその言葉は、保住の口癖のようだ。大堀は「ふふ」と笑みを見せた。
「室長。そんなのいいですよ。毎日。遠慮なく田口のところに行ってやってください」
「そうですよ。あいつ、待ってるんじゃないですか」
「——すまないな。本当に出来た部下たちで助かる」
「褒めてくれます~?」
大堀は嬉しそうだ。田口が大型犬なら、大堀は小型犬だ。しっぽをちぎれんばかりに振って、舌を出して大喜びしている犬みたいだ。
そしてその隣で、照れ隠しみたいに視線を逸らす安齋は、さしずめドーベルマンみたいなものだ。
——ここは犬の集団か。
そんなことを考えると、なんだか笑ってしまった。
——さしずめ、ドックラン、といったところだな。
リュックを背負うと、ふと澤井の声が響いた。
「おい。勤務時間外だ。付き合え! どうせ田口は入院しているのだ」
「堂々と誘うのはやめてくださいよ」
カウンターのところに堂々と立ち尽くす澤井だが、言っていることは全く持って仕事とは関係のないことだった。田口が入院してからというもの、騒々しいのは気のせいではない。
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