第10話 別れ
安齋と共に我が家へと向かった。
「室長は、また田口が狙われると思っておられるのですか」
ハンドルを握る安齋の問いに保住は大きく頷いた。
「室へのあてつけなら、手っ取り早いのはおれだ。運動音痴だしな。田口なんかよりもやりやすいはずだ。だがそうはしていない。ならば、お前たち三人なら? 一番穏和そうな大堀を狙うに決まっているな」
「確かに。おれや田口では体格も大きいし、仕返し喰らいそうですもんね」
「犯人は陰湿な男だ。確実に田口を傷つけたいという悪意が見て取れる」
安齋は愉快そうに笑った。
「ではなおさら、田口のお守りはおれが適任ですよ。室長は犯人探しをされるおつもりでしょう? 田口に内緒で動くためには離れた方がよろしいかと」
「安齋」
保住は信号で止まった車を発進させる彼の横顔を見上げた。
「お前、あまり気負うな。確かにお前に田口を預けるが、責任を押し付けるつもりはない。全ての責任はおれが負うのだから。お前だってターゲットになっているのかも知れん。お前はお前の身を守ることを第一としろ。あいつは大型犬だ。多少のことではへこたれない。そんなに
そう言って黙り込むと、安齋が笑った。
「室長って健気で可愛らしいですね。田口のことが心配で堪らない、という顔をしていますよ。またキスしたくなります」
「な! お、お前という奴は! 上司に向かって……」
「心得ておりますよ。冗談じゃないですか。やだな」
冗談が冗談に聞こえないのだから困ってしまう。保住は頬を真っ赤ににさせて車窓に視線をやった。
***
その日。田口は在宅での仕事に取り組んでいたが、思うようにそれは進まなかった。保住のことで頭がいっぱいなのだ。出張は終わったのだろうか。澤井とはなにもなかっただろうか。不安で不安で仕方がないのだ。保住は忙しいのだろうか。メールの一つも来ないのだから。
夕方になり、居ても立っても居られなくなったので、キッチンに立つ。ご機嫌取りのつもりではないが、比較的褒めてくれる肉じゃがを作り始めた。
なんとも情けない限りだ。保住との関係は危うい。自分の気持ち一つでこうして揺れ動いてしまうのだからだ。人の気持ちとはなんとも、不確かで保障もないものである。保住との間に距離を自覚してしまうと、途端に自分に自信がなくなる。小さくなって隠れていたい気持ちになるのだ。
じゃがいもや玉ねぎ、にんじんを包丁で切ってから、鍋で肉を炒める。油の匂いを感じると、心が少し落ち着いた。
料理をするという行為はいいものだと思った。誰かに食べてもらえるという幸せ。できあがった肉じゃがを食べて「45点。この前よりも5点上がったな」と言ってくれる保住の顔を想像すると、心がぼやぼやとするのだった。
——すっかり弱っているのだろうか。一人でいるときは、こんな気持ちにはならなかった。今は保住さんがいてくれるから強くいられる。しかし保住さんがいなくなると途端にこれだ。おれはすっかり弱い人間になってしまったのかも知れない。
そんな気持ちが芽生えると、余計に脆弱化しているような気がして、動悸がした。鍋に水を足し、ぐつぐつと煮える様をじっと観察していた。
すると玄関が開く音がした。保住が帰ってきたのだ。田口は駆け寄りたい気持ちを堪える。彼に避けられたら立ち直れない。怖いと思ったのだ。だがしかし、こんな鬱々とした状況でいても仕方がないのだ。
——謝ろう。
そう思ってガスを止めてから、玄関に向かおうとしたが、その足は止まった。リビングに顔を出した保住は安齋を連れていたからだ。
「お帰りなさい」
「銀太」
一体、どういうことなのか理解できない田口の視線を受けて保住は目を細めた。
「お前さ。エプロンが似合わなすぎだな」
保住の隣の安齋は「ぶ」っと吹き出した。
「な、なんで安齋が?」
それに答えたのは保住だった。
「大至急の案件がある。次年度に執り行う企画を九月議会に提出しなければならなくなった。担当はお前と安齋だ。無理は承知の上だが、お前たちには寝ずに取り組んでもらわなければならないくらい差し迫っているのだ」
保住の説明に田口は首を傾げた。そんな案件の存在など初耳だからだ。保住がプロジェクトの内容を落とすなんてことは今までにない。降って湧いたような話だったのだ。
——今日の出張のせい?
「あの。保住さん。それはどういう……」
「そのままの意味だ。それ以上もそれ以下もない」
「大至急なんだそうだ。悪いが、今晩からおれの家に缶詰めだ。出来上がるまで、おれたちに自由はないらしい」
付け加えられた安齋の言葉に耳を疑った。
「保住さん」
戸惑いを隠しきれない。狼狽えている田口の背中を保住がぐいぐいと押した。
「ほら、さっさと支度をしろ」
「早くな。田口」
二人に急き立てられると言葉も出ない。ウォークインクローゼットで呆然と立ち尽くす田口に保住は容赦なくワイシャツを渡してくる。
「保住さん」
——これは喧嘩の延長なのか? おれが邪魔なの? 追い出したいってこと?
田口は不安で不安で堪らない。視界がぼんやりとしてくるのは涙のせいなのか。
ワイシャツを抱えている田口は泣きそうな声で保住の名を呼んだ。リビングで待っている安齋を気にしながらも、どうにか理由を聞き出したい。しかし保住は黙り込んだままだった。
「これで全部だ」
田口は保住に押されて、出口に方向転換をさせられた。振り返ろうとした瞬間、背中にふと、保住のぬくもりを感じた。
「保住……さん?」
「銀太」
「どうしたというのですか? 一体なにがあったのですか。一日職場に行っていない間に、一体なにが……」
「すまない」
保住の低いくぐもった声が聞こえる。彼はそれっきり黙り込んでしまった。ただ田口の背中に額を付けてじっとしているようだった。
ただ事ではないということは理解できる。どうしたらいいのか、わからなかった。
「準備、どうですか」
静かになった雰囲気に安齋が気が付いたのか、声がかかった。それを合図にするかのように、保住のぬくもりが離れていく。保住の手が田口の背中を押したのだ。
「しっかりな。銀太」
「え! は、はい……」
振り返ろうとしても敵わない。廊下に押し出されると、安齋に腕を掴まれたのだ。
「さっさと行くぞ。室長! ではお預かりいたします」
事務的に行動する安齋に引きずられてアパートを後にする。外には安齋の自家用車が停まっていた。
「安齋!」
——保住さん、泣いていた?
なにがなんだかわからない。ただただ、安齋に急き立てられて助手席に押し込まれた。安齋のハイブリッド車は静かに暗闇の中を走り出す。なぜか胸がざわついた。ここにはもう帰ってこられないのではないかという不安に襲われたのだった。
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