第8章 残暑のバケーション

第1話 ことの始まりは突然に。



 ことの始まりとは突然なのである。いや大局を眺めることができるのであれば、それは必然なのかもしれない。しかし一駒いちこまとして、当事者としてそこにいる限り、やはりそれは唐突で、驚愕せざるを得ないことなのだった。


 就業時間の午後五時十五分を一分過ぎた時。滅多に鳴ることのない田口のスマホが震えた。


 余りにも珍しいことであるが、このスマホに電話をかけて寄越す人間は限られる。田口は慌てて腰を上げてから、帰り足で騒々しい廊下に出た。


「もしもし、どうしたの? 芽依めいちゃん」


 電話口の相手は姪っ子の田口芽依だった。彼女からの電話は久しい。メールは度々送ってくれるものの、彼女もいいお年頃だ。中年に差し掛かっている叔父にまめまめしく連絡を寄越すというのも考えものなのだが……。


 彼女は田口の一番上の兄の子だ。実家である雪割町ゆきわりちょうに、田口の祖父母、父母、兄家族と住んでいる。


 田口は電話を受けながら、「そういえば実家にしばらく帰れていない」ということを思い出した。春先に、『しばらく実家に帰れるような余裕もない。帰っておけ』と保住に言われたのにも関わらず、結局は帰らずじまいだったのだ。実家からは、再三『なにをしている』、『たまには顔を見せろ』、『係長さんも一緒に』と言われる。だからこそ、行きたくない気持ちもあるのだが。


 田口が教育委員会文化課振興係に異動したその年の夏。保住は熱中症で入院をした。その際、当時教育委員会事務局長であった澤井に託されて、保住を実家に連れて行ったことがあった。梅沢市内にいると、自宅療養を言いつけても、命令違反をして仕事をし始めるであろう保住を休ませる澤井の魂胆だったのだ。

 あれから一度だけら彼を実家に連れて行ったものの、その時はスケジュールが詰まっており、トンボ帰りであった。しかしそれが、両親や家族には嬉しいことだったらしい。


 大抵の人間には、好意的に接する家族の気質ではあるが、特に保住のことは気に入っているようで、祖父母まで大歓迎の様相だ。


「今度はいつ係長さん、連れてくんだよ?」と、母親にはせっつかれてばかりだった。


 最初の頃は、純粋に上司と部下だったから良かったものの、いざ恋人になると田口の心構えが違ってくるものだ。やはり恋人を実家に連れていくということは、かなり気を遣うもので、こうなってしまうと、連れていきにくいのは確かである。

 そんなことを一瞬で考えながら、田口はスマホの声に耳を傾けた。


『銀ちゃん、ごめん。仕事終わった?』


「終わってはいないけど。大丈夫。どうしたの? 今日は……」


『あのね。夏休みもそろそろ終わりだし。銀ちゃんとも話したいことがあるから、遊びに行ってもいいかなって思って』


「え、芽依ちゃん、こっちに来るの?」


『うん。って言うか。私一人じゃないよ。もちろん。お父さんとか、お母さんとかも一緒だけど』


「そ、そうなんだ」


『でも、ほら。私も高校二年だし。進路のこととか、少し相談したいって言うか……』 


 そこで田口は芽依の本命を理解した。彼女のお目当ては、遠隔家庭教師の保住との面談か。


「保住さんね」


『ま、まあ、そういうこと。そっちに行く話は、お父さんかおじいちゃんから連絡入ると思うけど』


「わかったよ。聞いておくね」


『よかった。ありがとう!』


 芽依は嬉しそうな声色で電話を切った。保住と芽依は気が合うらしい。中学二年生の夏、彼と出会ってからというもの、彼女の成績はうなぎ登りだと兄が話していたのを思い出した。彼女は田口に連絡を寄越すよりも、保住にメールをしている頻度が高いようだ。

 内心、年頃の姪に嫉妬しても仕方がないとは思いつつも、彼女とのメールの内容を「個人情報だ」と教えてくれない保住にヤキモキしているのだった。


 小さい頃から知っている彼女もお年頃だ。すっかり大人びて、自分とは話もしてくれないのではないかと心配していたものだが。どうやら素直に成長してくれているらしい。


 彼女の夢は農業系の大学に進学し、農業の研究をしたいとのことだ。海外にも活動のフィールドを広げたい構想があるらしい。我が姪ながら田口は、彼女の将来が楽しみであった。スマホを切った後、そんなことを考えていたが、ふと立ち止まる。


「みんなで来る? どういうことだ……」


 首を傾げていると、今度は父親から連絡が入った。今日は珍しく、立て続けに着信がある日だった。









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