第19話 ストレスのもたらすもの



 象牙色の淡い壁紙。それと似通ったカーテンが天井から釣り下がっていた。病院の一角である。カーテンで仕切られた簡易なベッドの上に寝ている田口は、くすんだ色の天井を見上げる。痛みが続いていて呼吸も浅くなりがちだった。ベッドの隣の丸椅子に腰を下ろしていた大堀は心配そうな瞳の色だ。


「すまない。大堀。ここまで付き添ってくれて。後は仕事に戻っていいぞ」


「でも……。一人で置いておくのは心配だよ」


 彼は田口と、そばにぶら下がっている点滴を交互に見つめていた。するとそこに、初老の穏やかな白衣姿の男性が顔を出した。


 白髪交じりの短髪。眼鏡の奥には優しそうな瞳が見えた。


「点滴、してもらった? 田口くん」


「あ、はい。——先生」


 大堀は慌てて腰を上げると医師に頭を下げる。


「すみません。先生……」


 田口は体を起こそうとするが、医師は手で制した。


「いいんだよ。起きなくて——」


 彼は大堀のいるスペースと反対側に回って田口のお腹を軽く触れた。


「——っ」


「痛むね」


「はい」


 医師についてきた太った中年の女性看護師は、医師となにやら話をしてから、カーテンの部屋を出ていく。


「薬追加しておくね。多分、胃痙攣かな」


「胃痙攣、ですか」


「原因を特定することも出来るけど。心当たりある? ——ストレス?」


 医師の言葉に田口は苦笑した。


 ——ストレスか。


「——ストレスでしょうかね」


「ストレスなの?」


 田口の返答に大堀は「え?」という顔をしていた。まさか田口がそんなにストレスを覚えていたとは思ってもみなかったという事なのだろう。田口は大堀に申し訳なさそうな視線を送った。


「ちょっとね……」


「確かに。——今朝から変だよね。安齋になにかされたんじゃあ……」


 二人の会話を聞いて熊谷医院の医師は笑った。


「心当たりがあるなら、むしろいい。本当のストレスは自覚がないことが多いからね。

 そのストレスの原因をなんとかするか、離れるしかないかな? ともかく胃の粘膜強くする薬は出しておくけど。今日は点滴して。どうしてもって時には専門医に受診するしかないかな? 点滴したら帰っていいよ。君はついているの?」


「えっと……」


「大堀。大丈夫。戻っていて。おれは自分で自分のことを報告できないから、室長に報告してもらってもいいかな」


「わかったよ……」


 大堀はしぶしぶ頷いた。大堀という男は気持ちの優しい人間なのだろう。ずっとこうしてそばにいて、田口のことを心配してくれる。田口は彼に感謝した。


「この調子だと点滴は二時間くらいはかかるかな? 終わる頃、看護師が様子見にくると思うけど……。終わったらボタンおしてもらってもいいよ」


「わかりました」


 田口はそう言うと瞼を閉じた。どうやら本当に体調が悪いらしい。意識を保てないのだ。


「大堀、ありがとう」


「わかったよ」


 彼の返答を聞いてほっとしたのか。田口はあっという間に意識の底に落ち込んでいった。



***



「帰っていいって言われてもなあ」


 大堀は寝入ってしまった田口を見つめながらため息を吐いた。彼は相当体調が悪いようだ。こんな彼を一人置いて行っていいものだろうかと心が惑う。


 ——ストレスだって? 田口が?


 いつも、そう表情が変わることもない。機嫌も雰囲気も平坦。田口ほど安定している人間はいないのではないかと尊敬してしまうくらいの男だ。


 自分は幼稚だと大堀は自覚している。安齋の売り言葉に買い言葉を口にする自分は幼い。もっと大人の対応をしなければならないのに。どうしても同期という意識がそこを簡単に崩してくる。いや。そうではない。。すぐに人に感化されて、そしてそれにのせられる。


 ——だから、


 昔のことを振り返ってもどうしようもないのに……。嫌な思い出はいつまでも脳裏にこびりついて離れない。水で流しても流しても……。もう染みのようになってこびりついているのだった。


 向き合いたくないのだ。逃げてしまいたいのだ。だから——。こうして繰り返し悪夢みたいに思い返す。

 人と懇意にするのは止めようと決めたではないか?

 大堀は田口を見下ろしながらも、自分の内面との対峙に苦しんでいた。



***



 保住は吉岡と話をしてから、自席に戻ったが、そこには安齋しかいなかった。


「室長、待っていたんですよ」


 安齋は保住の隣にやって来る。昨日の一件で、安齋と話をするのはやはり気後れしがち。吉岡と話をして少しは気持ちの整理をつけたと思っていたのだが。


「なんだ」


 保住は冷静に対応しようと、表情を変えずに安齋を見返した。しかし彼の口から飛び出した言葉は、にわかには信じられなかった。


「室長。田口が体調を崩したんです」


「な、なに?」


 安齋の言葉は耳から入って来るのだが、その意味が理解できなかったのだ。目の前が霧がかかったように、ぼんやりとしていた。保住は目を瞬かせて、安齋を見上げた。


「どういうことだ……?」


「今朝から体調が悪かったようですよ。顔色も悪くて。先ほど、昼食後に腹を抱えてうずくまってしまって。腹痛を訴えるので、これは緊急事態と思いました。それで真に勝手ながらですが、大堀が近くの熊谷医院に連れて行っています。大堀からの連絡は、まだないのですが……」


 ——調子が悪いだって? 銀太が? 気が付いていなかっただなんて。


 保住はすっかり冷静さを失った。書類を机に投げ出すと踵を返すが安齋に腕を掴まれた。


「室長! 大堀がついているんですよ。あなたまで行く必要がありますか!」


 ——わかっている。そんなことは、わかっている!


 保住は安齋を見返した。


「部下が体調を崩している時に、じっとしているなんて、おれのやり方ではない」


 保住のその声は冷ややかで、安齋はふと腕の力を緩めた。


 ——部下の一人も面倒を見られないなんて失格だ。


「田口だけを特別扱いしているわけではない。これがお前や大堀だったとしても同じだ。大堀は戻す。お前は留守番をしていろ」


 保住は安齋にそう言い渡して事務所を出た。



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