番外編
はじまり(番外編)
01 堂々たるお荷物新人
『どうか、家族を頼む……』
死の床で父親が願ったことに驚いた。いつも無口で自宅では、仕事の資料ばかりを読み漁っていた人が、「家族を頼む」と口にしたこと。
——あの人の中に家族という概念があったのか。
彼が死んだ時。そこには家族と父親の部下が一人佇んでいた。
***
「
廊下を歩いていると、後ろから少し掠れたような、それでいてよく耳に突く声が自分の名を呼んでいた。
「
少し皺が目立ち始めている顔立ちは、優しい笑顔を浮かべている。黒い地味なスーツは彼を真面目に見せていた。
「……じゃなかった。吉岡係長」
「嫌だね~。そんなこと気にするの?」
「役職で呼ばないといけないと先輩の
「お~、怖い先輩がいるもんだね」
「みんなが吉岡さ……吉岡係長みたいだといいんですけど」
「そう? 嬉しいこと言ってくれるね」
目尻に皺を寄せて笑った吉岡は、保住の肩をぽんぽんと叩いた。
「まあ大変だけど……頑張って。なにか困ったことがあったら、なんでも相談してね。お父さんに頼まれているんだし」
「え、ええ……」
愛想よく手をひらひらと振った吉岡は、廊下に姿を消した。
政策推進部 広聴広報課 広聴係長の吉岡は、保住の父親が一番信頼する後輩でもあった男だ。保住のことを心配して、なにかと声をかけてくれるのはいいのだが……結局は部署も違っていて、彼になにをどのように助けを求めたらいいのかなんて見当もつかないかったし、別に困っていることもなかったのだ。
保住は先輩である河合に頼まれた資料を書架から持ってくる帰り道だった。吉岡が消えていった廊下を見つめてから、方向転換をして自分の事務所に戻る。
保住は結局、父親と同じ道を歩んでいた。梅沢市役所。地方公務員。昔から勉強だけは十二分にできたおかげで、思い通りにならないことなんてなに一つなかった。
高校進学も好きな高校に進学した。大学もそうだ。
ただ就職だけは違った。ゼミの教授からは国家公務員になるように勧められたのに、結局は父親の死がきっかけで、地方公務員に落ち着くことにした。
今まで就労の経験のない母親が、妹の学費を供給できるとは思えなかったからだ。
地方公務員なら異動の範囲が限られる。
——妹がある程度成長するまでは、自分もなんらかの支援をしなければならない。
そんなことを考えていたから、市役所に決めたのだ。
——いや嘘だ。それは建前だ。本当は……。父親の見てきた世界、彼が家族を顧みることなく夢中になった世界を見てみたかった……だ。
それが本音。人が往来するフロアを縫うように歩き、そして目的地へ到着する。
「もう、どこで油売ってきたの? 保住くん」
ふくよかで背の低い、まるまるとした河合女史は、保住の顔を見るなりため息を吐く。
「すみません」
——じゃあ、自分で持ってくれば良いではないか。
彼女のデスクに依頼されていた資料を乗せる。
「これでいいですか」
「ありがとう。後はねえ、こっちの企画書の原案作っておいたから、書類にしておいて」
「はい」
——原案を作るなら自分で最後までやればよかろう? なんで、そんな面倒なことをするのだ。
市役所に入って一か月が経つ。保住が配属された部署は、都市政策部 都市計画課 まちづくり推進室だ。係長の
自分の椅子に腰を下ろして背伸びをする。重労働は苦手だ。書類を作成するのはいくらでもできるが、こういう雑用は心底嫌いだった。河合から渡された原案を元に、パソコンで資料を作成始めるとすぐに、河合に肘でつつかれた。
「今度はなんです?」
「なんですじゃないわよ。……ほら」
彼女の指さした先に視線をやると、少し薄くなった頭まで真っ赤にして、血管が切れそうに怒っている男、係長の橋谷田の顔が見えた。
「あれ? またやっちゃいました?」
保住の言葉に橋谷田は怒声を上げた。
「またじゃないっ! ——ちょっと来い!」
「あちゃ……」
「保住くん、いい? 素直に謝りなさいよ。余計なことは言わない。ね? いいわね?」
河合女史に念入りに言い含められながら、渋々と席を立つ。
「あの、なにか?」
「なにかじゃないだろうっ! この書類の添削をおれはお前に頼んでいない!!」
橋谷田は一枚の紙をデスクに叩きつけた。
「なんで、入ったばかりのお前に添削されなければならんのだ!」
「ですが、誤字脱字が——」
「一々口答えするんじゃないよっ! お前は何様だっ。ただの新人職員だろうが!」
怒っている橋谷田とは裏腹に、保住は冷静に彼を観察していた。
彼はすぐに怒る。どうして怒るのかというと、自分の思い通りいかないと面白くないからだ。
だがしかし。彼の求めてくるものは、間違っている。だから訂正してやっているだけなのに彼は怒るのだ。
——ありがたいとは思わないのか? あんな誤字だらけの書類を課長に出すほうがよっぽど恥ずべきことだろうに。
保住は首を傾げた。河合に言い含められたというのに、そんなことはすっかり忘れた。保住は橋谷田に向かって口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます